【第3話】少年
ここは東京メトロ、旧・御茶ノ水駅から繋がる地下商店街の、ある一室。
部屋の端にある硬質なリクライニングクッションの上で、琥珀は静かに目を覚ました。
淡く横縞を刻んだ壁面。層ごとに積み重ねられた樹脂の跡は、指でなぞればザラりとしそうだ。何とも言えない独特の化学臭が、部屋の空気に混ざっている。
また知らない場所に連れてこられている。
拒否も抵抗も出来ないまま。
昔からそうだった。
わたしはただ流されるままに生きている。
ぼうっとした中で、琥珀の頭の中にはまだ、先ほどの銃声や怒声がぐるぐると巡っていた。
レギーナさん……信じていいのだろうか。
琥珀は視線だけを動かし、室内を探った。
四畳半ほどの立方体の部屋。よく見ると隅には薄い埃が溜まっている。
天井には円筒状の小さな照明がひとつ、ぼんやりと点り、壁にスリット状の影を落としている。
床の継ぎ目から、素っ気ない冷たさが足裏を通して伝わってきた。
窓はなく、換気用ブロワーが低い唸りを上げるばかり。簡素さゆえに未来的でありながら、どこか息苦しい閉塞感を漂わせている。
「……寒いわ」
琥珀は薄く息を吐いた。
床には絨毯もなく、壁には絵画もない。ティーセットもなければ、もちろんギターもない。
お嬢様育ちの琥珀にとって、本来なら顔をしかめて当然の質素な部屋。
粗末で、冷たくて、居心地が悪い。
しかし、窮屈だった核シェルターから〝外の世界に出た〟開放感に心がざわめいているのも確かだった。
壁に取り付けられたテーブル。その上に一枚の手紙が置かれていることに気付く。
「お前が目覚めたその場所は、地上と違って安全な場所だ。
さっきは怖い思いをさせてしまったが、地下は安心して暮らせる。世話役が来るまで待て。
――レギーナ」
〝世話役〟という言葉が、琥珀の幼い頃の記憶を呼び起こす。
屋敷にいた使用人たちの顔が次々と浮かんでくる。
メイドのユメさんやカナ、庭師のフージィ。
いつも誰かが傍にいてくれた。
裕福な家に生まれた彼女にとって、それは空気のように当たり前のこと。
朝になれば優しく起こされ、髪を梳かれ、食卓には温かな皿が並んでいた。庭を覗けば笑顔が返ってきていた。
もう、あの屋敷の日々は戻らない。
レギーナの言葉を思い出す。生き残りは、わずか千人。
使用人たちは、今もどこかで生きているのだろうか。
ひとつ、またひとつと積み重なる情報が、否応なく過酷な現実を形づくり、少しずつ彼女の中へと根を下ろしていた。
琥珀は、傍らにあったバッグを引き寄せ、中を探った。スリープ状態の相棒、ガジュ丸がいたが、その背面には小さく「5%」と液晶表示されている。
辺りを見回しコンセントを探す。
この部屋には充電設備がないようだ。彼女は静かにガジュ丸を撫で、再びバッグに戻した。
扉に背を預け、琥珀はしばらく目を閉じた。またあの夢の中の詩が、頭の中を廻っている。
響く母の声。
いつの間にか彼女の唇からも微かに零れ出していた。
*
扉の外で、ひとりの少年が足を止めた。
聞いたことのない、儚く透き通る歌声が聴こえてくる。
彼は思わず、ノックしようとした手を止め、耳を澄ませた。
『偲び濡るる頬
希望の光 芽吹かせし――』
セーラーデザインの服を着た、中性的な顔立ちの少年〝ミナト〟。
彼はレギーナの言い付けにより、ちょうど琥珀を訪ねて来ていたところだった。
彼は目を閉じる。
冷たい地下鉄の空気が心地よく鼻腔を抜けていく。次第に街のざわめきは消え、澄んだ旋律だけが浮かび上がってきた。
――――なんて悠々とした気持ちにさせてくれる声だろう。子供の頃の風景が甦るようだ。
果てしなく広がる草原。兄さんの背中。
些細な喧嘩で口を利かなかった日もあったな。
そう言えば一度だけ兄さんを殴っちまった事があった……何だっけ。
兄との記憶が、8mmフィルムのようなノイズ映像にのってミナトの頭の中を巡る。
彼の心の奥底で枯れていた記憶たちが、琥珀の歌声によって今、ひとつふたつと再び光を芽吹かせていく。
頬を撫でる風が程よく涼しい。
知らず知らずに二人は薄い板一枚を隔てて互いに背中を預け合っていた。
やがて儚い旋律が終わり、次第に通気口から吹き込む風音や駅構内の補修工事の騒音、いつもの雑多な日常が戻ってくる。
ミナトは一呼吸置き、優しく扉をノックした。
ゆっくりと開いた隙間から琥珀の顔が覗く。
思わず、彼は笑顔で言った。
「最っこーだな!」
その、あまりにも突拍子もない一言に、扉が慌ただしく閉まる。
ミナトが戸惑っていると、それを察してか再び扉が開き、無言の琥珀が彼を見上げた。
彼女は何かを言おうとしているが、言葉が出ずにもがく仕草を見せている。
ミナトは、眉をひそめた彼女に優しく言葉をかけた。
「ごめん、驚かせたな。俺はミナト。
数時間前、お前を豪邸のシェルターから勝手にE21の医務室に運んだんだ。……覚えてないよな」
琥珀は訝しみながらも小さく頷く。
「さっき、最高な歌が聴こえたんだ。知らない歌だったけど、なんかこう、懐かしい……」
琥珀は喉元を拳で押さえ、訴えるような仕草を見せた。
「喋れないのか?」
彼女は頷く。
「そうか……え、喋れないのに歌えるのか。ははっ、面白ぇ!」
笑い飛ばすミナト。
そこには皮肉の欠片もなく、ただ無邪気な驚きと楽しさが溢れていた。むしろ、彼女の沈黙の理由を察して寄り添えるほど、彼は器用では無かった。
不思議と、そんな彼に対して琥珀は自然な笑みを作ることが出来ていた。
今まで忘れていた感覚。
自然に笑えた瞬間だった。




