【第26話】財閥の使用人
誰かが戻ってくると思っていた。
旧・東中野駅の作業灯が、また一つ消えた。
老人は壁に背を預けたまま、暗くなった通路を見つめていた。右の袖が濡れている。左手で押さえても、指の間からぬるいものが滲んだ。
「……便所くらい、待ってくれてもな」
返事はなかった。
少し列を離れただけだった。
戻ったときには、練馬方面から流れてきた避難者たちはもういなかった。誘導していた騎士も、次の合流地点へ移ったらしい。
頭上にはレールが続いている。
腰にはペンデュラムもある。
足を掛け、取っ手を握れば、一人でも進める。
その取っ手が、握れなかった。
さっきまで、腕は動いていたのだ。
子供を押し退けたときまでは。
早く乗れ。そんなところに立つな。
口には出さず、小さな肩を乱暴に脇へ押した。その直後、子供のいた場所に照明の支柱が落ちてきた。
自分の腕を裂いたのは、その破片だった。
『ありがとうございます!』
母親が何度も頭を下げた。
老人は、子供を助けた人間の顔で笑った。
駅が低く軋んだ。
床を転がっていた空き缶が、途中で向きを変える。
ろくな人生ではなかった。
職を転々とした。追い出されたことも、先に逃げたこともある。最後に落ち着いたのは、ある財閥の屋敷だった。
住み込みで雑用をこなし、庭の手入れにも駆り出された。
給金は悪くなかった。
それでも、手癖は治らなかった。
引き出しの小銭。使われなくなった装飾品。
なくなっても誰も困らなそうなものを、勝手に選んで懐へ入れた。
旦那様は、知っていたのかもしれない。
あれほどの人間が、使用人一人の盗みを見抜けないとも思えなかった。
見逃されていたのか。それとも、もっと大きなものに手を出すのを待たれていたのか。
もう、確かめようもない。
老人は顎を落とした。
袖の赤黒い染みが、暗がりに溶けていく。
そういえば、花まで盗んだ。
*
雨の上がった夜だった。
屋敷の中庭は、水族館の大きな水槽のようにガラスで囲われ、そこには外とは違う季節があった。温度も水も管理され、見たことのない植物が植えられていた。
主人の許しなく入ってはいけない場所だった。
その夜、自分が何の用で忍び込んだのかは、もう思い出せない。
ただ、一輪の花だけは覚えている。
月明かりの下で、花びらが透けていた。
露を含んだ薄い硝子のようだった。
向こうの葉脈まで見えるのに、輪郭だけが白く光っている。
綺麗だ、と思った。
次に、高く売れる、と思った。
小さな鉢を持ち出し、根を傷つけないよう土ごと掘った。
誰にも会わずに部屋へ戻れた。
ところが翌朝、窓辺の花は白かった。
どこから見ても透けていない。
昨夜の光景は、酒のせいだったのだろうか。
鉢を回して眺めていると、向かいの窓に小さな顔があった。
お嬢様だった。
やがて、控えめに扉が叩かれた。
「フージィ」
開けると、お嬢様は部屋の中を覗き込んだ。
「そのお花、ちょうだい」
「……これですか」
「うん」
断る理由を考えた。
どこで手に入れたか聞かれれば、それだけで困る。
「お嬢様には、もっと立派な花を――」
「そのお花がいい」
老人は仕方なく鉢を渡した。
小さな両手が、鉢の縁をしっかり抱えた。
「誰にも内緒ね」
お嬢様はそう言って、笑った。
あの子は、知っていたのだろうか。
花がどこから来たのか。
自分が何をしたのか。
尋ねる前に、小さな背中は廊下を曲がってしまった。
*
老人の耳に、かすかな金属音が届いた。
顔を上げる。
「おうい」
思ったより、声が出なかった。
もう一度呼ぼうとして、息を吸う。
通路の奥で、外れかけた金具が揺れていただけだった。
誰かの足音ではなかった。
「……なんだ」
背中を壁へ戻した。
あの子は無事に着いただろうか。
そう思うなんて、自分でも少し意外だった。
左手の力が、少しずつ緩む。
最後の作業灯が、じじ、と鳴った。
老人はその明かりを見ていた。
消えるまで、見ていた。
*
アークの到着口には、金属の擦れる音が絶えなかった。
ペンデュラムの制動音。
足を踏み外した人を支える声。
名前を呼ぶ声。
「こっちだ!」
「いた、いたよ!」
革命派の腕章を巻いた男が、降りてきた婦人を抱き留めた。その隣では、泣いている子供の前に騎士が膝をつき、足掛けを外している。
誰かが到着するたび、待っていた人々の顔が上がった。
目当ての姿がなければ、また奥の暗闇を見つめた。
*
旧・赤羽橋駅では、列が止まっていた。
揺れるたびに人が押し合い、誰かの荷物が落ちる。その荷物を拾おうとして、別の誰かが躓いた。
ユメは息子を抱き締めた。
小さな爪が、首に食い込んでいた。
「大丈夫。大丈夫だから」
何度言っただろう。
言うたびに、声が頼りなくなった。
また、揺れた。
頭上から粉塵が降ってきた。
息子が泣き叫ぶ。夫が二人を壁際へ寄せ、自分の背中で押し寄せる人を受け止めた。
「もう、いや……」
ユメの口から漏れた。
逃げて、並んで、怯えて。
やっと暮らしに慣れてきたと思ったら、また壊れる。
もう、このまま。
視線の先に、懐かしい顔があった。
「カナ?」
人の肩と肩の隙間。
少し困ったように笑う、若い女。
「カナ、待って」
一歩出かけた腕を、夫が掴んだ。
「ユメ」
「今、そこに」
「カナさんは、もういない」
夫の声が震えていた。
ユメは、その手を見た。
分かっている。
二年前から、分かっている。
*
カナは、屋敷に来たばかりの頃、よく皿を割った。
洗濯物も間違えた。
叱られると小さくなり、謝って、また同じところで失敗した。
ほかの使用人たちが、カナに仕事を押しつけるようになった。
本人は何も言わなかった。
そんな彼女を放っておけなかった。
「それ、私が割ったことにするわ」
床に散った皿を前に、一度そう言った。
周りがいなくなってから、カナに布を渡した。
「手で拾わないで。怪我するから」
「でも、ユメさん……」
「次から気をつけて。毎回は庇えないよ」
カナは泣きそうな顔で頷いた。
ユメの仕事はいつも完璧だった。
旦那様にも信頼されていた。
カナが自分を見る目には、いつも憧れがあった。
けれど、一つだけ。
ユメにはどうしても、うまくできないことがあった。
あの日、中庭でお嬢様を見つけた。
しゃがみ込み、土を掘っていた。
そばに小さな鉢が転がっている。
「お嬢様、何をしているんですか!」
旦那様が大切にしている植物だった。
ユメは駆け寄り、小さな身体を抱き上げた。
「ちがうの!」
「勝手に触ってはいけません」
「戻すの! お花、戻すの!」
泥のついた靴が、ユメの服を蹴った。
つい、声が強くなった。
「暴れないでください!」
お嬢様は泣き出した。
なだめても、言い聞かせても、泣きやまなかった。
使用人が集まり、お菓子を見せたり、玩具を持ってきたりした。何をしても、小さな手は中庭へ伸びたままだった。
最後に来たのが、カナだった。
「私、抱っこしてもいいですか」
頼りない声だった。
ユメは汗ばんだ腕から、お嬢様を渡した。
カナは、土のついた背中をゆっくり撫でた。
それから、歌った。
上手な歌ではなかった。
途中で音が迷い、同じ節へ戻ったりもした。
けれど、急がなかった。
お嬢様の息が、少しずつ整っていく。
しゃくり上げる間隔が長くなり、やがて、カナの肩に頬が落ちた。
眠っていた。
カナは歌をやめず、ユメを見て、ほっとしたように笑った。
どうして。
自分は、何も間違っていなかったはずなのに。
叱る前に、何をしていたのか、ちゃんと聞けばよかったのか。
あの時ユメは、眠った子供の爪に残る土を見ながらそう思った。
お嬢様が土へ戻そうとしていた花の名は、あとで知った。
山荷葉。サンカヨウ。
濡れると白い花びらが透き通るため、硝子花とも呼ばれるのだと。
*
世界がひっくり返ったあと、カナのお腹も大きくなった。
父親が誰なのか、彼女は話さなかった。
ユメも、聞かなかった。
ユメの子とカナの子は歳も近く、並んで眠らせると、双子のように似ていた。
あの狭い部屋でも、カナは歌っていた。
食べるものが足りない日も、夜中に配管が鳴る日も。
ユメの子まで泣きやませて、少し得意そうに笑った。
その子が二歳のとき、通路が崩れた。
裂け目に落ちたベビーカーは、戻らなかった。
カナの家族は、あの子だけだった。
ユメたちが差し出した手では、支えきれなかった。
ほどなくして、カナも自ら命を絶った。
今でも、考える。
あの日、もう少しそばにいられたら。
何か別の言葉を掛けていたら。
答えのないまま、二年が過ぎた。
*
「……私が、もう死んじゃいたいって思うたびにね」
ユメは夫の手を握り返した。
「あの子、出てくるの」
人混みの向こうに、もう顔は見えなかった。
それでも、あの笑い方を思い出せた。
『いいなあ、家族』
かつて聞いた声まで。
胸元で、息子が咳き込んだ。
泣きすぎて、うまく息を吸えなくなっている。
ユメは小さな背中に手を当てた。
口を開き、いつもの「大丈夫」を言いかけた。
代わりに、歌が出た。
カナが何度も歌っていた子守歌だった。
最初の音は掠れた。
次の節は、少し怪しかった。
ユメは思い出せるところまで歌い、また初めに戻った。
息子はまだ泣いていた。
それでも、その耳はすぐそばにあった。
背中を撫でる。
歌う。
次の息を待つ。
小さな手が、首から離れた。
服の襟を握り直し、息子はユメの胸へ顔を埋めた。
「……できた」
ユメの頬を、涙が伝った。
「カナ。私にも、できたよ」
自分を慕っていた、仕事の苦手な女の子。守ってやらなければと思っていた。
けれど、あの肩で眠るお嬢様を見たときも。狭い部屋で、二人の赤ん坊が泣きやんだときも。
羨ましかったのは、私の方だった。
「ありがとう」
また揺れが来た。
怖さは消えなかった。足も震えていた。
ユメは息子の頭を抱え、夫と一緒に身を低くした。
「前へ進めます。お子さんを――お連れの方――こちらへ」
騎士の声が通った。
列が、ようやく動き始めた。
ユメは歌を口の中に残したまま、一歩進んだ。
*
「五反田方面、これで最後です!」
アークの到着口で、声が上がった。
降りた人々が次々に奥へ誘導される。
騎士が通路を確かめ、手元の記録へ目を落とした。
円花は、最後の一人の背後を覗き込んだ。
いない。
ソラも。
ミナトも。
琥珀も。
「まだだよね」
隣の一花に言った。
「別の方から来るんだよね」
一花は答えなかった。
円花の袖を握る指だけが、強くなった。
足元が傾いた。
今度は、揺れて戻るだけではなかった。
通路に置かれた荷物が滑り、人々が一斉に壁へ手をつく。
円花は踏ん張ろうとした。
靴底の重さが、ふっと薄れた。
一花の髪が浮いた。
「全員、内側へ!」
怒鳴り声が響いた。
騎士が扉脇の装置に手を掛ける。
「限界だ。門を閉めろ!」
「待って!」
円花は叫んだ。
「まだ、来てない人が――!」
重い駆動音が、声を呑み込んだ。
巨大な門が動き始めた。
円花は一花の手を握ったまま、狭くなっていく通路の先を見つめた。




