【第27話】世界の終わり
空の底に、皺が寄った。
初めは丸い亀裂に見えた。
けれど、その暗い筋は消えなかった。幾重にも重なり、広がり、青い膜そのものを引き攣らせていく。
地球の自転が、遅くなっていた。
海を空へ押し上げていた力が、失われつつあった。
極地方から裂け始めた水の膜は、巨大な流れとなって崩れ、星の表面へと引き戻されていった。
東京の空も、もう平らではなかった。
「……あれ、海だよな」
ホバーバイクの上で、ソラが呟いた。
機体が傾く。
立て直しても、すぐに別の方向へ引かれた。
計器の警告音が止まらない。
「ジャイロが追いつかねえ。どっちが下なんだよ、今!」
少し先で、ワイヤーが張った。
ミナトと琥珀の身体が、建物の陰を抜けていく。
琥珀は彼の背にしがみついていた。ギターは二人の間に挟まらないよう脇へ回し、ガジュ丸の入った鞄を胸に抱えている。
ミナトの傷めた左腕は、ほとんど上がらなかった。
右のペンデュラムで支点を取り、次の足場へ渡る。いったん足をつき、鉤を外し、また撃つ。
一度でも、掴み損ねたら。
琥珀は、その先を考えないようにした。
代わりに、背中越しの呼吸を数えた。
速い。
でも、止まっていない。
「コハク、腕、きつくねえ?」
頷いてから、見えないと気づいた。
肩に回した手で、二度、叩く。
「よし。もうちょい付き合って」
ミナトが笑った。
こめかみに、汗が光っていた。
「帰ってから、文句聞くからさ」
*
街が、根元から折れていく。
道路に亀裂が走り、逆さにぶら下がっていたビルが隣のビルへ寄りかかった。窓が一斉に砕ける。
硝子の粒は、まっすぐには落ちなかった。
横へ流れ、渦を巻き、三人の前を光りながら通り過ぎた。
遠くで赤い筋が走った。
裂けた大地から溢れたものが、闇の中へ尾を引いている。
富士の方角は、黒く塗り潰されていた。
噴煙に呑まれた光が、街の輪郭を鈍い銅色に変えていく。
「止まるな!」
ミナトが叫んだ。
降り立った足場が、靴の下で沈んだ。
撃ち出した鉤が、向かいの鉄骨を噛む。
巻き上げ。
二人の身体が離れた直後、背後の壁が崩れた。
「おいおいおい!」
ソラが機体を倒し、飛び散る破片をかわす。
その先で、道路が盛り上がった。
亀裂の縁から大きな塊が剥がれ、バイクの進路を塞いだ。
ソラが操縦桿を引く。
機首は上がった。
後ろが、間に合わなかった。
衝突音。
琥珀が振り向く。
ソラの片手が、ハンドルから離れていた。
「ソラ!」
ミナトが巻き上げを緩め、鉄骨を蹴った。
二人の身体が大きく振れる。
琥珀は手を伸ばした。
指が、袖を擦った。
掴めない。
もう少し。
ソラの手が、彼女の手首を掴んだ。
琥珀も、その腕を握り返した。
肩が抜けそうになった。
「離すな!」
誰に向けた声か、分からなかった。
琥珀は歯を食いしばった。
下で、バイクが火花を噴いた。
壊れた車体がゆっくり回り、三人から遠ざかっていく。
ミナトがワイヤーを巻いた。
ソラが空いた手で彼の腰のベルトを掴む。
三人はもつれるように、突き出した梁の上へ転がり込んだ。
琥珀の手は、まだソラの袖を握っていた。
「……コハクちゃん」
荒い息の間から、声がした。
「助かった。もう、足ついてる」
指を開こうとした。
すぐには開かなかった。
ソラはその手を急かさず、もう一度言った。
「ありがとね」
ミナトが左腕を押さえたまま、笑おうとした。
「さっきの借り、コハクが返しちまったな」
「お前が返せよ。俺のバイクも」
「それは……高そうだな」
短く笑い合った。
笑わなければ、動けなくなりそうだった。
ソラの顔が、そのまま固まった。
「……ミナトくん」
視線の先を、琥珀も見た。
海が立っていた。
遠くの街並みが、その裾に隠れていく。
波の頂は見えなかった。空の膜と地表の間を、巨大な水の壁が埋めていた。
あれが、ここへ来る。
琥珀はミナトの服を掴んだ。
「ああ。見えてる」
彼は周囲を見回した。
崩れた建物の間に、地下鉄の入口があった。
「あそこへ入る。ソラ、自分のペンデュラムは?」
「ある。バイクほど上手く乗れねえけどな」
「今は競走じゃねえよ」
ミナトが琥珀へ背中を向けた。
彼女はまた、肩に腕を回した。
今度はその前に、小さく言えた。
「……帰ろう」
ミナトが頷いた。
「おう」
*
三人が入口へ滑り込んだとき、外の音が変わった。
個々の崩落音を聞き分けられなくなった。
低い、一続きの音が、街全体から押し寄せてきた。
「ガジュ、アークまでの道!」
琥珀が鞄を開く。
羊の顔が、薄明かりの中に浮かんだ。
『避難経路を表示します。コハク、私を固定してください』
鞄の口に留めると、通路へ光の矢印が伸びた。
ミナトとソラが防水扉を引いた。
最後の隙間から、琥珀は外を見た。
空いっぱいの水が、近づいていた。
扉が閉じる。
ソラが固定レバーに体重を掛けた。
「これで止まるか?」
「止まらねえ。時間は稼げる」
ミナトはもう、奥を見ていた。
入口脇の避難用ラックに、低い車体が残っていた。
資材を運ぶための電動バイクだった。幅広の荷台と、小さな車輪が二つ。
ソラが跨がり、スイッチを入れた。
残量表示が点いた。
「上等」
荷台の荷物を下ろし、琥珀とミナトを振り返る。
「乗れ。今度は、二人とも乗せてやる」
*
三人の去った空を、閃光が裂いた。
一瞬、黒い街が白く浮かんだ。
東京タワーの基部で、火が噴いた。
ひとつ。
続いて、もうひとつ。
革命派が残していた爆薬が、崩壊の中で誘爆した。
傾いていた鉄塔が、大きく揺れた。
残った鋼材が引き延ばされ、細い糸のように切れていく。
五年間、逆さの東京にぶら下がっていた塔が、大地を離れた。
赤と白の鉄骨が、ゆっくりと回る。
展望台の窓が、最後に光を返した。
やがてその姿は、押し寄せる海の中へ消えた。
*
『この先、右です』
ソラがハンドルを切った。
タイヤが横滑りし、荷台が壁を掠めた。
琥珀はギターと鞄を抱え込んだ。
背後から、ミナトの右腕が支えてくれる。
通路の灯りが、奥から順に消えていく。
車輪が浮きかけるたび、ソラは速度を落とし、靴で壁を蹴って車体を戻した。
もう、どちらへ倒れるのかさえ分からない。
遠くに、人の声がした。
光が見えた。
細い、横の光だった。
「門だ!」
その隙間が、さらに狭くなっていく。
ミナトが息を吸った。
「間に合ええっ!」
*
円花が顔を上げた。
暗い通路の中に、光が一つ現れた。
バイクだった。
その後ろに、見覚えのある髪が揺れている。
「来た!」
騎士が人々を脇へ押し退けた。
「開けて! 来た、みんな――!」
ソラが身を伏せた。
琥珀もミナトも、それに倣った。
ハンドルの端が、門を擦った。
火花が散った。
三人を乗せた車体が、最後の隙間を抜けた。
「間に合ったぁ!」
円花の声が弾けた。
ソラが制動を掛ける。
タイヤが接地を失い、バイクは横を向いたまま流れていった。
待ち構えた人々が、荷台とハンドルを掴んだ。
誰かの腕が、琥珀を抱き留めた。
「コハクちゃん!」
円花だった。
すぐそばに、一花の顔もあった。
何か言おうとした。
ただいま、と。
声になる前に、鉄のぶつかる音がした。
門の脇に立っていた騎士が、膝を折った。
続いて、もう一体。
人を支えていた腕から力が抜け、赤い甲冑が傾く。
「危ない!」
ソラが近くの子供を引き寄せた。
倒れた騎士は床にぶつかり、そのままゆっくり滑っていった。
割れた仮面が浮いた。
その下に、顔はなかった。
剥き出しの配線。
細かな駆動部。
消えた光。
AIを埋め込まれた人間なのだと、誰かが言っていた。
痛みも、ためらいも奪われた人々なのだと。
しかし、砕けた赤い殻の中に、血は一滴もなかった。
ミナトが、動かなくなった騎士を見つめていた。
右手が握られ、そしてほどけた。
黒鉄の門が閉じきった。
床と壁の奥で、重い錠が噛み合った。
直後。
アーク全体が、殴りつけられた。
*
悲鳴も、指示も、轟音の中へ沈んだ。
琥珀の足が浮いた。
手を伸ばす。
ミナトが掴んだ。
「こっち!」
壁沿いの手すりへ引き寄せられた。
人々がロープを回していた。荷物を留め、子供を抱き、隣の人へ渡している。
どこかで、シエリの声がした。
「身体を固定して! 頭を守って!」
ソラがロープを受け取り、手すりへ通した。
円花と一花が身を寄せ合う。
琥珀はギターケースと鞄を抱えた。
灯りが瞬いた。
一度、戻った。
次には、戻らなかった。
真っ暗だった。
ミナトの腕が、琥珀の肩を抱いた。
彼の呼吸が耳元にあった。
外で、何かが壊れている。
あまりに大きくて、それが何なのか分からない。
床だったものが遠ざかり、ロープが身体を引き留めた。
また、上下が変わろうとしていた。
琥珀は目を閉じた。
閉じても、暗さは同じだった。
それでも、浮かんでくるものがあった。
逆さの東京。
初めて見た、底のない青。
干菓子の甘さ。
手を引いて走る少年の、振り返った顔。
息ぴったりの姉妹に、思わずこぼれた笑い。
土の匂いがした。
そんなはずはないのに、した。
小さな丘に、白い花が咲いていた。
ピアノの前に、大きな背中があった。
ねえ、ヤマサン。
わたし、あのときの続きをしたい。
最後まで、ちゃんと歌いたい。
返事はなかった。
記憶の中の指が、鍵盤の上を動いただけだった。
琥珀は、肩を抱く腕に触れた。
ミナトはここにいた。
姉妹も、ソラも。
暗闇のどこかで、シエリがまだ声を張っていた。
鞄の中が、淡く光った。
『コハク。ここにいます』
ガジュの声だった。
琥珀は小さな球体に、頬を寄せた。
まだ話していないことがある。
聞いていないことも。
怒りたいことも、ありがとうと言いたいことも。
また、歌いたい。
みんなが、少しでも息をつけるように。
それから、自分が歌いたいから。
轟音が、さらに大きくなった。
ミナトの腕に力がこもる。
琥珀は、その服を握った。
わたし、まだ生きたい。
*
海は都市を覆い、裂けた地表を走り、あらゆる低みへ流れ込んだ。
道も、境界も、かつてそこにあった暮らしも、水の下へ消えていった。
奔流は、一日では鎮まらなかった。
二日が過ぎた。
三日が過ぎた。
閉ざされたアークの薄明かりの下で、人々は水を分け、怪我人を看て、眠れない子供を抱いた。
昔の話を語る者がいた。
名前を呼び合う者がいた。
返事があれば、その声の方へ手を伸ばした。
二週間をかけて、山肌は削られ、都市の輪郭は失われ、火山の轟きは遠のいていった。
世界が終わっていく音を、彼らは聞いていた。
その内側で。
まだ、人の息が続いていた。




