【第25話】ラストコール
シエリが放送室へ着く前に、最初の揺れが来た。
足元が持ち上がった。
壁に肩をぶつけ、工具入れを抱え込む。
前を走っていた男が横へよろめき、台車の車輪が浮いた。
地震だけではない。
シエリは壁を押して立ち直った。
まっすぐ立とうとするほど、身体が通路の片側へ寄っていく。
「壁につかまって!」
声を張り、放送室の扉へ手を掛けた。
中では円花が机を押さえていた。
一花が床へ膝をつき、落ちた通信機を拾っている。
「シエリ姉さん!」
「奥のコンピューター、出して」
シエリは工具入れを机の下へ押し込んだ。
円花が運んできた端末を開き、電源を入れる。
観測記録が読み込まれる。
数字の列を追った。
新しい記録ほど、一回転にかかる時間が長い。
計測地点を変えても、同じだった。
「……本当に、遅くなってる」
通信機へ手を伸ばした時、放送の予告音が鳴った。
いつもと同じ旋律だった。
走っていた人が、スピーカーを見上げた。
誰かが子供を抱き寄せる。
こんな時でさえ、また名前が呼ばれる。
そう思った顔が、いくつもあった。
『メトロジェイル、全市民に告ぐ』
女王の声がした。
その後ろで、何かが軋んでいる。
『――さあ、ラストコールだ』
シエリの指が止まった。
『私に背く者であっても、これから告げることを聞いてほしい』
頼むような言い方だった。
だからこそ、シエリは顔を上げた。
『地球の自転が、減速している。我々を今の地面へ押しつけている力は弱まり、重力が再び向きを変えようとしている』
シエリは観測値へ目を戻した。
女王は、知っている。
『足場の向きは、これからも変わる。さらに、地表を離れていた海水が戻り始める』
円花の手が、机の端を握った。
『予測では、早ければ数時間後だ。極地方から水膜が崩れ、各地へ広がる。場所によっては、雨では済まない。大量の水が一度に降り、暴風と洪水を引き起こす』
外で、誰かが叫んだ。
『地上も地下も、これまでの避難場所が安全とは限らない。私は、この時のために備えてきた』
短く、息を吸う音がした。
『各駅の騎士たちに、改造型ペンデュラムを配備してある。補強した天井のレールを使い、市民を移動させるためのものだ』
シエリは、画面の端へ別の記録を開いた。
自分たちが関わった工事の一覧。
レールの補強。搬送設備。アークの構造補強。
『目的地は、アークだ。荷物を取りに戻るな。騎士の誘導に従い、急いで移動しろ』
街の向こうで、金属の扉が開く音がした。
『劫火の騎士たちよ』
女王の声が、少し低くなった。
『市民を守れ。私に従った者も、背いた者も、全員だ』
雑音が混じった。
シエリはスピーカーを見た。
『我が家族を……どうか、守ってくれ。以上だ』
放送が切れた。
*
各駅で、騎士たちが武器を下ろした。
保管庫から、見慣れない器具が運び出される。
レールへ掛けられた金具から、ワイヤーと足を支える装具が下がった。
市民は、すぐには近づかなかった。
さっきまで、こちらへ銃を向けていた者たちだ。
家族の名前を罪人として読み上げ、連れていった者たちだ。
一人の騎士が膝をついた。
立てない男の身体へ装具を回し、留め具を確かめた。
男が何か言った。
騎士は頷き、ゆっくりと引き上げた。
レールの下で、車輪が動いた。
男は振り返り、家族へ手を伸ばした。
次の一人が、前へ出た。
*
「騙されるな!」
アークの入口近くで、男が叫んだ。
避難してきた人々の列が、止まった。
男は壁の下方を指していた。
古い案内板が、逆さまに固定されている。
「首都圏外郭放水路って、書いてあるだろ!」
指が震えていた。
「ここは水を集める施設なんだよ。洪水が来たら、全部ここへ流れ込むんだ!」
近くにいた女が、子供の腕を引いた。
「じゃあ、なんでここに……」
「俺たちを集めて、殺すつもりだ!」
その言葉が、後ろへ伝わった。
罠だ。
ここにいたら、溺れる。
入ろうとする人と、出ようとする人が、門の前でぶつかった。
怒鳴り声が重なる。
「押すな!」
「子供がいるんだ!」
誰かの荷物が落ちた。
拾おうとした老人が膝をつき、後ろから来た身体に押された。
騎士が腕を伸ばす。
その腕を、男が払いのけた。
「触るな!」
騎士の胸へ、拳が当たった。
甲冑は動かなかった。
下げられた銃口も、上がらなかった。
*
「入口、詰まってる!」
円花が窓際から戻ってきた。
「出ていこうとしてる人がいる。水が来るって!」
シエリは画面を見ていた。
工事の記録を辿る。その先の資料を開こうとして、何度も止められた。
手元の記録から、参照先を探し直す。
文字を打ち込み、画面が切り替わるのを待つ。
時間がかかった。
その間にも、外の声は大きくなった。
ようやく、一枚の図面が開いた。
Noah's Ark。
シエリは身を乗り出した。
見覚えのある区画と、自分の知らない設備が、一つの図面に収まっている。
工事の番号を照らす。
補強した場所。閉鎖した通路。密閉設備と、備蓄の区画。
ばらばらに渡されていた仕事が、ここで繋がった。
「……方舟」
「何?」
円花が訊いた。
「放水路を、そのまま使ってるんじゃない」
シエリは図を指した。
「造り替えてたのよ。この時のために」
一花が、隣から画面を覗いた。
シエリの指を追い、頷く。
外で、子供の泣き声が上がった。
シエリはマイクへ手を伸ばした。
「繋いで」
一花が操作卓へ向き直った。
*
「ちがうの!」
シエリの声が、アークへ響いた。
鋭いハウリングが走り、一花が音量を下げる。
「入口の人、聞いて。ここは、昔の放水路のままじゃない」
全員が止まったわけではなかった。
怒鳴り声も、足音も続いていた。
シエリは、もう一度言った。
「私たちシュウリヤが、補強してきた場所なの。閉じた通路も、取り付けた設備も、私が見てる」
画面には、工事の記録がある。
自分の名前もあった。
「今、全体の計画を確認した。水を集めるためじゃない。水が戻ってくる時、人を守るために改造されてる」
円花が窓へ走った。
様子を見て、まだ、と手を振る。
「計画の名前は、ノアズ・アーク。方舟よ。食糧を集めたのも、レールを補強したのも、ここへ避難するためだった」
シエリは息を継いだ。
女王を信じろ、と言えばいいのだろうか。
自分には、言えなかった。
「私は、女王に大切な人を殺された」
円花が振り返った。
「ヤマサンを」
口にすると、喉が詰まった。
シエリはマイクの台を握った。
「あの人が戻らないことは、変わらない。今の放送で、なかったことにもならない」
部屋の外で、声が少し減った。
「でも、ここに備えがあるのは、本当なの」
誰かが信じてくれるまで、言わなくてはならなかった。
「あの人は言ってた。人ひとり分の笑顔があったら、世界は少しマシになるって」
火の前で笑った顔が浮かんだ。
渡された、半分のあんパン。
「私、もう誰も失いたくない。みんなにも、失ってほしくない」
涙が落ちた。
机の上へ落ちる前に、袖で拭った。
「お願い。いま出口へ押し寄せたら、入ってくる人が助からない。まず、道を空けて」
声が震えた。
言い直さず、そのまま続けた。
「倒れてる人がいたら、起こしてあげて。立てない人には、肩を貸して。私も、ここでできることをするから」
*
「……シェリーだ」
入口近くで、一人の男が言った。
「酒場で歌ってた、シェリーだよ」
隣の女がスピーカーを見た。
「シエリさん?」
「あの人、ここの工事もやってたんだ」
男は前を見た。
座り込んだ老人の周りで、人の脚がもつれている。
「そこ、ちょっと空けてくれ」
肩を入れ、老人の腕を取る。
一人では支え切れず、隣の男へ顔を向けた。
「反対、頼む」
返事より先に、手が伸びた。
二人で老人を起こした。
荷物が残っていたが、拾うのは別の人が引き受けた。
道が少し空いた。
「子供、通して!」
女が腕を上げた。
誰かが横へ寄り、その後ろも、少しずつ動いた。
疑いが消えたわけではなかった。
それでも、目の前で転びそうな人を、押しのけずに済むだけの場所ができた。
騎士が門の脇へ立った。
武器を背へ回し、両腕で人の流れを分ける。
今度は、その腕にすがる者がいた。
*
「空いた」
円花が言った。
「入口、通れるよ」
シエリはマイクから顔を離した。
息を吸うと、胸が痛かった。
一花が通信を受けている。
「次の避難者、来る。門、もっと開けるって」
シエリは頷いた。
画面へ目を戻す。
まだ、避難の終わっていない駅がある。数字の向こうに、人がいる。
机の下で、工具が転がった。
シエリは足で受け止めた。
傾きが、増していた。
「円花。空いてる区画、確認して」
「分かった」
「一花は、各駅からの連絡をお願い。私は設備の状態を見る」
一花が頷いた。円花が扉を開けた。
その向こうで、重い門が動いていた。
入ってきた子供へ、誰かが手を差し出す。
荷物を抱えた女が立ち止まり、その手が繋がるのを待っている。
隣り合う人々が互いに肩を貸し、なだめ合い、寄り添うことで絆が生まれていく。
――それは、レギーナが夢見ていた〝家族〟の形だった。




