【第24話】人ひとり分の笑顔があれば
塔が大きく揺れ始める、少し前。
シエリは、ヤマサンの部屋で横になっていた。
灯りはつけていない。
扉の隙間から入る光が、床を細く照らしている。
その先に、靴が揃えてあった。
棚には歯ブラシがある。壁に掛けたシャツは、袖をまくったままだった。
シエリはシーツを引き寄せた。
洗剤と、土と、少し汗の混じった匂いがした。
息を吸う。
ここにいる気がした。
顔を上げなければ、まだそう思っていられた。
外では、さっき歌が聞こえていた。
ギターと、あの少女の声。
シエリは耳を塞がなかった。
塞ぐこともできなかった。
コハちゃんにも歌うてもろた。
おまえにも聴かせたい。
枕元に、手紙がある。
何度も開いた折り目が、柔らかくなっていた。
あの日、引き止めた手を放さなければ。
勝手にすれば、なんて言わなければ。
もっと前に、伝えていれば。
自分の気持ちを。
何度考えても、最後には同じ通路へ戻った。
笑うヤマサン。袖から離れる、自分の指。
その指が、別のものをつかむ。
球形の端末。
継ぎ目。蓋。記憶媒体。
シエリはシーツから手を離した。
直し方を知っていた。
だから、壊し方も知っていた。
「……コハクちゃん」
声が、枕に吸い込まれた。
「ごめんなさい」
琥珀は泣き叫ばなかった。
破片を拾っていた。
細かな欠片まで、ひとつずつ。
「ガジュ丸……ごめんなさい」
言っても、二人はここにいなかった。
シーツを握っているだけでは、誰にも届かなかった。
シエリは顔を覆った。
誰にも会いたくなかった。
誰かに、このままでいいと言ってほしかった。
だけど思い浮かんだのは、そんなことを言いそうにない男の顔だった。
*
「おーい。大丈夫かいな」
あの日も、大きな声だった。
世界が裏返り、ミユウがいなくなった日。
シエリは、途中で切れたトンネルの内側に座っていた。
外には空があった。
何かが燃える臭いが、風に運ばれてきた。
遠くで続いていた叫び声が、一つ減り、また一つ、聞こえなくなった。
背後にも、人はいた。
助けを呼ぶ人。名前を呼ぶ人。動ける人が、動けない人を引きずっていく。
シエリには、どの声も遠かった。
「立てるか?」
目の前に、大きな靴が来た。
埃まみれの男が、膝へ手をついて覗き込んでいる。
「ここ、崩れるかもしれへん。奥へ行こ」
手が差し出された。
シエリは、その手を見た。
「……落として」
男が黙った。
シエリは外を見た。
ミユウが消えた方を。
「もう、誰もいないの」
自分の声なのに、よく聞こえなかった。
「帰るとこも……」
男がしゃがんだ。
こちらと、トンネルの縁の間へ、大きな身体が入った。
「そっちは、連れていかれへん」
静かな声だった。
「奥には行ける。肩、貸すで」
シエリは首を振った。
立つ理由がなかった。
男は袋へ手を入れた。
少し潰れた、あんパンを出す。
「これ、一個あんねん」
シエリは見なかった。
「半分食わへん?」
返事をしなかった。
男は袋を開け、パンを二つに割った。
「ほら。あんパンやから、あーん、言うて」
シエリは顔を向けた。
男は、ひどく真面目な顔で半分を差し出していた。
「……何、それ」
「今の、あかんかった?」
返事をする代わりに、涙が出た。
もう出ないと思っていたのに、顎から落ちた。
男はパンを持ったまま、待っていた。
「食べるんは、あとでええ。持っとき」
シエリの掌へ、袋ごと載せる。
「なくしたら、ワイが半分損するさかいな」
馬鹿みたいなことを言う。
そう思いながら、シエリは袋を握った。
空いた手を、男が取った。
「よっしゃ。片足ずつや」
立ち上がると、膝が震えた。
男は何も言わずに肩を貸した。
大きな背中に腕を回す。
知らない人の服に、涙と鼻水がついた。
「……ありがとう」
「おう。礼は歩きながら聞くで」
二人はトンネルの奥へ進んだ。
火のそばに座った時、ようやく寒かったのだと気づいた。
指をかざすと、皮膚がじりじり痛んだ。
肩も、膝も痛い。
飲み物を渡され、少し口に含むと、喉まで痛かった。
隣の男が、パンを食べていた。
大きな身体なのに、小さくちぎって口へ運んでいる。
「……名前」
シエリが言うと、男が顔を向けた。
「ワイか? ヤマサンでええで」
「私は、シエリ」
「シエリな。覚えた」
それから少し、黙って火を見た。
「……一人に、なっちゃった」
口にすると、息が詰まった。
ヤマサンは頬を掻いた。
「ほな、ひとまず、ワイがおる」
シエリが見ると、その人は少し困ったように笑った。
「親戚のおじさんくらいに思うといてな。勝手に親戚追加サービスや」
「勝手すぎる」
「返品は、落ち着いてから受け付けるわ」
シエリは俯いた。
口元が、ほんの少し動いた。
パンを一口、食べた。
甘かった。
飲み込んでから、涙が出た。
ヤマサンは何も言わず、飲み物を近くへ寄せた。
まだ、温かいものを飲みたい。
寒くない場所にいたい。
この人に、もう少しここにいてほしい。
生きたいという気持ちが、そんな小さな欲から戻ってきた。
「人ひとり分の笑顔があったらな」
ヤマサンが火を見ながら言った。
「世界は、ほんの少しマシになるんや」
シエリは鼻をすすった。
「……こんなになっても?」
「せやなあ。全部は、どうにもならんけど」
ヤマサンがこちらを向いた。
口を大きく開き、笑ってみせる。
「どや。今、ちょっと貢献したで」
シエリは吹き出しかけた。
泣いていたせいで、変な音になった。
「ほら、二人分や」
ヤマサンが笑った。
シエリはパンを持つ手を、膝へ下ろした。
火が、その大きな横顔を照らしていた。
世界は壊れたままだった。
それでも、さっきいたトンネルの縁より、ここにいたかった。
*
「……ヤマ」
シエリは、暗い部屋で顔を上げた。
パンの味まで、覚えていた。
肩を借りた時の、服のごわつきも。
その人が、自分だけのために花を育てていた。
それを知った時には、もう、ありがとうと言う相手がいなかった。
シエリは手紙を開いた。
ワイら、笑てるはずやで。
指で、その一行を押さえる。
「……まだ、笑えない」
声に出すと、少し息が通った。
笑わなくては、と言われたわけではなかった。
あの時も、先に笑ってくれたのはヤマサンだった。
返事をするように、紙を畳む。
ベッドの縁へ脚を下ろした。
立ち上がると、思ったよりも身体が重かった。
テーブルの写真へ目を向ける。
ヤマサンの口元は、見慣れた形に緩んでいた。
「助けてもらったくせに、私……」
続きを言えなかった。
自分がされたことと、琥珀にしたこと。
並べると、目を逸らしたくなった。
けれど、目を逸らしたままではいられなかった。
シエリは工具入れを引き寄せた。
蓋を開ける。
ガジュを直した時の工具が、決めた位置に収まっていた。
同じ手が、ここにある。
壊した年月は、戻せない。
謝る言葉は、相手のいる場所で言わなくてはならない。
まず、扉を開けよう。
通信機が鳴った。
*
「シエリ!」
ミナトの声だった。
息が切れている。
「太陽の動きが遅い。目も終わらないんだ」
シエリは通信機を耳へ押し当てた。
「……どこにいるの」
「東京タワー。ソラもいる。ヨホウシの観測、確かめてくれ。今、一日が何分になってるか」
シエリの手が止まった。
ファンの回転数が読めない、という話ではない。
太陽が遅い。
それが本当なら、この街が立っている向きまで変わる。
「いつから?」
声が、仕事をする時の調子になった。
「気づいたのは今だ。でも、もう一時間以上――」
通信に雑音が混じった。
向こうでソラが、何か言っている。
「分かった。記録と照らすわ。そっちで見えてること、全部送って」
シエリは工具入れを閉めた。
上着を取り、袖へ腕を通す。
「急いでくれ」
「やってる」
いつものように返してから、通信機を頬と肩で挟む。
「ミナト。聞こえる?」
「聞こえてる」
「私が確かめる。分かったら、すぐ知らせる」
答えが出るかは、まだ分からなかった。
調べるための機材はある。
放送局に置いたコンピューターなら、集められた観測記録へ当たれる。
シエリは手紙を上着の内側へ入れた。
写真は、テーブルに残した。
「……行ってくる」
返事はなかった。
扉を開けた。
廊下は、思っていたより明るかった。
眩しさに目を細め、シエリは走り出した。
途中で、食器の載った棚が目に入った。
空になった器が、重ねてある。
そうだ、誰かが来ていたのだ。
返事をしない自分のところへ。
足は止めなかった。
放送局へ続く角を曲がった。
工具入れが腿に当たり、金属が短く鳴っていた。
その音を聞きながら、シエリは走った。




