【第23話】託された約束
『しばらく二人にしてくれ。コハクの命は保証する』
女王からの通信は、それだけだった。
ミナトは展望デッキへなだれ込み、内壁へ背を預けた。
肩を動かすたびに痛みが走る。ソラに巻かれた布の下を脈が打っていた。
下のトップデッキに、琥珀がいる。
立ち上がろうとすると、ソラが腕を出した。
「待て」
「いつまでだよ」
「今、飛び込んだら――」
「分かってる!」
声を荒らげた途端、胸が痛んだ。
ミナトは咳き込み、口元を拭った。
ソラは腕を下ろさなかった。
「命は保証するって言った。あいつは、嘘はつかない」
「俺は信じない」
「……分かってるよ」
ソラの声が落ちた。
ミナトは通信機を握り直した。
呼びかけても、女王からの返事はない。
C班も、応答しない。
窓の外は、明るかった。
ソラが時計を見た。
そのまま動かなくなった。
「……おかしい」
「何が」
ソラは窓際へ歩いた。
眼下の水膜が、太陽の光を細かく返している。
「まだ昼だ」
ミナトも外を見た。
「もう、とっくに夜になってるはずなんだ。一日の半分なら、三十分だろ」
ソラは時計と空を、交互に見た。
「そういえば……目も、一時間以上続いてる。こんなこと、今まで一度も……」
風は戻っていなかった。
静かな街が、二人の頭上に広がっている。
「予測が、外れたんじゃないのか」
「目だけなら、そうかもしれない。でも、太陽まで……」
ソラが窓枠へ手を置いた。
「自転が遅くなってるとしたら」
言葉が止まる。
ミナトは、その横顔を見た。
「遅くなったら、どうなる」
「僕らを今の地面に押しつけてる力も、変わる」
ソラは足元へ目を落とした。
「ここが、足場じゃなくなるかもしれない」
その足場が、低く鳴った。
*
放送ブースのモニターが揺れた。
琥珀は壁に手をついた。
床の下から、太い金属をねじるような音が上がってくる。
次の瞬間、踵が浮いた。
転びかけた身体が、壁の方へ流れる。
背負ったギターのケースが当たり、肩へ衝撃が返った。
バッグから光が漏れた。
『省電力モード、解除』
ガジュが、開いたファスナーの間から顔を出した。
「ガジュ……何、この音」
琥珀は手を伸ばした。
球体が浮き上がる。その動きも、いつもより不安定だった。
『コハク、落ち着いてください。まずは温かいダージリンティーを――』
琥珀は答えられなかった。
ガジュ丸の後ろに見えた空が、赤かった。
遠くで、山が煙を噴いていた。
逆さまの富士。
山頂から吐き出された灰が、空へまっすぐ落ちていかない。
大きな塊のように滞り、その縁だけがゆっくり崩れている。
赤い筋が斜めに垂れていた。
琥珀は足を踏ん張った。
けれど、どちらへ体重を掛ければいいのか分からなかった。
レギーナも、窓の外を見ていた。
「……早すぎる」
その呟きに重なって、ガラスが割れた。
「コハク!」
窓枠の向こうに、ミナトがいた。
銀色のホバーバイクに乗り、こちらへ腕を伸ばしている。
琥珀は顔を上げた。
生きている。
「こっちだ。手、出して!」
琥珀は走ろうとした。
身体が横へ流れ、膝をつく。
ミナトがさらに身を乗り出した。
ソラが機体を寄せる。ファンの風が、割れたガラスを室内へ押し流した。
伸ばした指が触れた。
ミナトの右手が、琥珀の手首をつかんだ。
引き上げられる。
ケースが窓枠へ当たったが、ソラが手を伸ばして押し出してくれた。
琥珀は機体へ膝をついた。
ミナトの上着をつかむ。
温かかった。
顔を見る間もなく、ミナトが身体の向きを変えた。
銃を持った右手が、窓の奥へ向けられる。
レギーナが立っていた。
「待って」
琥珀はミナトの腕へ手を掛けた。
「ミナト、待って」
「離せ」
声が低かった。
琥珀は手を離せなかった。
ミナトの腕が震えている。肩の布に、血が滲んでいた。
『コハク!』
ブースの中から、声がした。
ガジュが、窓へ向かっていた。
けれど気流に押し戻され、同じ場所で上下している。
「ガジュ!」
琥珀が手を伸ばす。
あと少しのところで、球体が横へ流れた。
その必死な球体を、すっと伸びたレギーナの手が掴んだ。
琥珀の息が止まった。
レギーナはガジュ丸を見ていた。
顔の表示から、外殻の継ぎ目へ。
その下の細い線へ、指先を添える。
「……ガジェット」
レギーナは確かにそう呼んだ。
ガジュ丸が、レギーナへ顔を向けた。
『お手数ですが、私をコハクのもとへ――』
「そうか」
レギーナは、両手で球体を支えた。
「そういうことか、博士」
琥珀はレギーナの顔を見た。
訊きたかった。
どうして、その呼び名を言ったのか。
床がまた鳴った。
ソラが機体を立て直す。
「長くは止まれない!」
レギーナが窓へ近づいた。
ミナトの銃口は、その胸を追った。
彼女は銃を見た。
その腕をつかむ、琥珀の手も。
「選別の時が、来た」
レギーナが言った。
「私が用意した順序に、従ってはくれなかった」
窓の外へ目を向ける。
富士の噴煙は、なお膨らんでいた。
「神が選ぶのだと、思っていた。私が、その役目を任されたのだと」
声は、琥珀が初めて聞くほど小さかった。
レギーナはそっと、ガジュ丸を差し出した。
琥珀は片手をミナトの腕に残し、もう片方を伸ばす。
レギーナは急かさなかった。
琥珀が球体を胸へ抱くまで、下から支えていた。
「皆、家族を演じていた。私の前で、そうするしかなかったのだろう」
背後で、モニターの映像が乱れた。
街を映した画面に、いくつも線が走っている。
「それを、嘘のない世界だと呼んでいた」
レギーナは自分の白い袖を見た。
「嘘を見ていなかったのは、私の方だった」
ミナトは何も言わなかった。
銃は下がらなかった。
レギーナも、許しを求めなかった。
「私はもう、必要のない人間らしい」
琥珀の指が、ミナトの袖を握った。
必要な人間。
不要な人間。
自分へ向けても、この人は同じ言葉を使う。
レギーナは窓枠に手を置いた。
膝が折れかけ、そこで身体を支える。
「……約束を、守れそうにない」
誰に話しているのか、琥珀には分かった気がした。
「すまない、博士」
大きな衝撃が来た。
窓枠が斜めへずれた。
ソラが機首を外へ向ける。
「ここから離れるぞ!」
ミナトがまだ、銃を向けていた。
琥珀はガジュ丸を抱き、ミナトの胴へもう片方の腕を回した。
彼の呼吸が、背中から伝わった。
浅く、速かった。
デッキに残ったままのレギーナが遠ざかる。
琥珀は顔を上げた。
「あなたも、生きて!」
叫んでいた。
声が出ていた。
ミナトの腕から力が抜けていくのが分かった。
琥珀は、まだレギーナを見ていた。
「あの日、家族だって……言ってくれたじゃない!」
駅の出口で、自分を引き上げた手。
ヤマサンを奪い、ミナトを空へ投げた手。
さっき、ガジュ丸を返してくれた手。
どれも、同じ人の手だった。
「一緒に、新世界を歩もうって!」
許したとは、言えなかった。
何もなかったことには、できなかった。
でも、そこに残って死ぬことが、守れなかった約束の果てだとは思えなかった。
レギーナが顔を上げた。
唇が動いた。
声は、ファンの音で聞こえなかった。
ありがとう。
そう見えたのは、琥珀の願いだったのかもしれない。
*
塔の根元で、光が弾けた。
遅れて、爆音が届いた。
赤い鉄骨の間から、黒い煙が噴き出す。
仕掛けられていた爆薬の一つが、爆ぜていた。
もう一度。
ソラが急に機体を傾ける。
琥珀はミナトへしがみついた。
東京タワーが傾いていた。
ずっと頭上にあった大地から、離れようとしていた。
鉄骨が順に曲がり、繋ぎ目が裂けていく。
トップデッキの窓が、光を返している。
その中で、レギーナは自分に一喝し、壁に手をついて立ち上がった。
床が傾いていた。
椅子が滑り、机にぶつかる。
膝を折って踏みとどまり、操作卓まで進んだ。
通信が、また届いていた。
各区からの報告。命令を求める声。揺れと、崩落。
今度は、切らなかった。
マイクの前へ腰を下ろす。
まだ、電源が生きている。
一緒に、新世界を歩もう。
自分の言葉を、あの少女は覚えていた。
「……嘘つきになるところだったな」
レギーナは卓上の表示を確かめた。
消えた回線もある。
だが、まだ届く場所がある。
胸元のペンダントが、机に触れた。
レギーナはそれをしっかりと軍服の内側へ戻した。
過去にしたことは、変わらない。
いま窓から落ちても、何一つ返せない。
それでも、これから起きることを、知っている。
まだ生きている人間に、伝えられることがある。
指を伸ばした。
フェーダーを上げる。
マイクのランプが点いた。
「メトロジェイル、全市民に告ぐ」
足元で、塔が軋んだ。
レギーナは操作卓の縁を握り、マイクへ顔を近づけた。
「――さあ、ラストコールだ」




