【第17話】手紙
アークの中央通りが封鎖され、重厚な装甲車列がゆっくりと進んでいる。
車体は光沢のあるパール色で統一され、その上には金の紋章が燦然と輝いていた。
沿道に並ぶ市民たちは、劫火の騎士たちが放つ無言の威圧に押され、息を潜めるしかなかった。
先頭車両の扉が音もなく開く。
そこから降り立ったのは、純白の軍服をまとった女王。裾には銀糸の刺繍が緻密に施され、歩くたびに淡い光が波紋のように揺らめいた。
彼女の周囲には、まるで空気そのものが硬化したかのような緊張が張り詰めている。誰ひとり声を上げず、ただ女王の靴音だけがコンクリートに高く響いた。
その瞳は、アーク全体を見下ろすかのように冷ややかで、琥珀の歌が芽吹かせたささやかな色彩を、一瞬で無音に変えてしまうものだった。
以前から女王は、メトロジェイル全域を劫火の騎士の視点モニターを通して監視していた。とりわけアークの住民たちには苛立ちを覚えていた。
花畑をこしらえ資源や労力を「無駄」に費やしていた者もいれば、作業の手を止め歌を口ずさむ者、視線が宙を漂い仕事を滞る者。
そのひとつひとつが彼女の秩序にとっての誤差だった。
その時、急ぐミナト達の姿が女王の横目に追われていた。
*
バイクを降りた三人は、ゆっくりと丘へ上がる……そして、息を飲んだ。
視界に一面に広がる白と黄色のデイジー。
風に揺れる無数の花びらが、星屑の絨毯のようにキラキラと光を反射させている。
ほのかに漂う甘い香りが、閉ざされたシエリの心の氷を優しく融かしていく。彼女はゆっくりと手を伸ばして一輪の花を掴んだ。
頬にあてる。
「デイジーが……こんなに」
冷たく柔らかい花びらは揺れ、彼女の生命を撫でてくれているようだった。
丘の中央には一台のピアノがあった。シエリはその前で立ち止まり、椅子に座る。
ヤマサンが座っていた椅子だ。
鍵盤に彼のペンデュラムをそっと置くと、装具のいびつな形が切ない和音を奏でた。
ミナトが封筒を差し出す。
シエリが膝の上でそっと封を解くと、中から依れた手紙と、乾ききった二輪のデイジー、それから手描きの地図がこぼれ落ちた。
手紙の端には、押し花を貼るための糊がはみ出し、指紋もくっきりと残っている。
シエリは震える指で紙を広げる。消しゴムの跡とインクのかすれ文字が、彼の不器用な温度をそのまま残していた。
――おいでや、デイジーの丘
「この日、ワイらはもう笑てるはずやで」
最初の一文には、何度も書き直した跡があった。同じ言葉が薄く、濃く、行間がずれたりもしている。次の行に進むたび、彼の声が耳の奥で蘇る。
「シエリ。約束の六○時間後、この地図の場所に来てほしいんや。
ここはな、いまワイがこっそり作てる花畑や。
おまえが帰ってくる頃にちょうど満開になるはずや」
言葉が、胸の奥を鋭く貫く。もうあの人はいない。
「ピアノも置いたで。弾いてるとこ見たことないやんな? ビックリするで。あとな、コハちゃんに歌ってもらう手筈も整えた。完璧や。
シエリには一番ええ席、デイジーに囲まれた特等席を用意しとる。最後まで聴いてくれ。最後にな、渡したいもんがある」
渡したいもん――その横に、彼が小さく「プレゼント」と書き足している。
見慣れた笑い顔が目に浮かび、同時に喉の奥が焼けるように痛くなる。
「この日は、きっと笑てる。笑てるはずやで」
最後の一行に、大粒の涙が落ちた。
「笑えんわ……」
シエリの口角が少しだけ上がる。
握りしめた手紙から、二輪の押し花がはらりと落ちた。その白と黄色は、まるで寄り添って眠るように足元で揺れていた。
柱の影からは、主を喪ったカブが首を傾げ、琥珀を見つめている。
――この世界は、やっぱり残酷だ。
琥珀は胸の奥で静かに呟き終えると、躊躇なくカブを抱き上げた。
その時だった。
ザク……ザク……と土を踏みしだく重い音が、丘の静寂を裂く。
ミナトの瞳に鬼火が宿る。
その視線が捉えたのは、劫火を纏いし純白――このメトロジェイルを統べる、冷徹なる絶対的秩序主義者。自らを、コードネームで〝レギーナ〟と名乗る者。
重力反転以前は国家の危機管理部門に籍を置き、緊急事態の指揮を執っていた。地下移住の混乱期、揺らぐ秩序を鉄の規律で縛りあげ、やがてその手腕から市民に〝女王〟と呼ばれるようになっていた。
後ろに銃を携えた数名の騎士たちを従え、まるで我が庭といった表情で彼女は丘を登ってきた。
不揃いの靴の音が無造作にデイジーを踏みにじり、花弁に泥が捺されていく。
シエリはピアノを見つめたまま、その迫を背中で感じ取っていた。
騎士たちが一斉に銃口をこちらに向ける。
冷気が肌を刺す。
そして、女王の第一声が澄みきった空気を圧し、轟いた。
「規律を守らず、役目を果たさぬ者は、もはや私の家族ではない」
彼女は丘を見渡し、刃のような声で時を斬る。
「まずは、無駄な時間と労力を使ったものを排除した」
その言葉に、シエリの瞳が大きく開く。鼓動が頸動脈を震わせている。
「見せしめ……? 命を何だと思ってるの……」
シエリが唇を噛み、背中を向けたまま問い返す。握った掌に爪が食い込んでいる。
女王はわずかに唇を歪める。
「限られた生存圏に〝感情〟など不要だ」
そして顎を上げて見下し、片手を仰いだ。
「我々は地球という生命体に寄生するもの。
私がふるいをかけ、不要な〝癌〟は切除していく。
新世界、新人類の黎明のために」
かつて、その非人道的なやり方に抗った者もいた。白円の旗を掲げた反女王派〝革命派〟、その創立者カイト。しかし、その旗印を掲げた者たちも次々と奈落の闇へと消えていったのだった。
女王の氷の眼差しが、次に琥珀に向けられた。
「そして、漆黒の歌姫。お前の歌を禁ずる。労働者には悪影響のようだ。今回は警告に留めておいてやる。以上だ」
琥珀の眉がかすかに動く。
肩の上でカブが睨みをきかせる。
しかし女王は瞬き一つで視線を断ち、踵を返して淡々と丘を下りはじめた。
女王の脳裏にはひとつの疑念が渦巻いていた。
〝目〟の急旋回や長時間の滞在という異常行動。そして、これまで出現していなかった二つめの〝目〟の発見。レギーナにとって想定外の事態が二度も、しかも立て続けに起きた。
彼女は、この原因を探る中で、ひとつの異質な因子に行き当たっていた。市民の感情の揺らぎ……その震源が〝琥珀の歌〟だったということだ。
この世界は〝音〟で出来ている。かつて、そう唱えた科学者がいた。
生命体を含め、万物は振動と周波数によって形を保ち、変化し続けている。
もしあの歌の波長が、予測不能のバタフライエフェクトを引き起こしていたのだとしたら――。
レギーナは心の杭を打ち直す。
レールから逸脱するわけにはいかない。
計画を完遂しなければならない。それがあの人との約束だから。
刻限はもう、迫っている。
〝地球の自転は、すでに減速を始めているのだ〟




