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メトロジェイルの歌姫  作者: 羽月楓


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【第16話】幼い仕返し

 バイクの音が聞こえた時、シエリは椅子から立ち上がった。


 琥珀も通路へ出た。

 直ったガジュが、肩のそばを飛んでいる。

 途切れなくなった声を、ヤマサンにも聞かせたかった。


 ミナトが歩いてきた。


 一人だった。


 服の片側が濡れ、肩には擦れた跡がある。

 両腕で、何か大きなものを抱えていた。


「……ヤマは?」


 シエリが、その後ろを見た。


「ミナト。ヤマ、どうしたの」


 ミナトは足を止めた。

 抱えていたものを、少しだけ持ち上げる。


 ヤマサンのペンデュラムだった。


 大きなリール。無骨な金具。

 出かける前、あの人が肩へ掛けていたもの。


「柱のとこに、これだけ……」


 ミナトの声が止まった。


 琥珀は、彼の手を見た。

 指の間に、乾いた血が残っている。


 脚に力が入らなくなった。

 壁に手をつき、そのまま座り込む。


「何よ、それ……」


 シエリは笑おうとした。

 口元だけが、わずかに動いた。


「道具だけ持ってきて。本人は?」


 ミナトが首を横に振った。


 小さな動きだった。

 だがその一動作が、どんな言葉よりも残酷な答えを突きつけていた。


 シエリは見開いた目のまま、それを見なかったことにするように、もう一度、通路の先を見た。


 重い沈黙。

 放送の予告音が鳴り、それが途切れた。


 いつもと同じ、短い旋律。

 続いて、女王の声がした。


『メトロジェイル全市民に告ぐ。罪人のお知らせだ』


 ミナトの腕に力が入った。

 抱えた金具が、かちりと鳴る。


『本日、四名の命を処分した。うち一名はアークの住民、罪人の名はヤマサン。資源を浪費し、無駄な労を費やしていた愚か者だ』


 琥珀はスピーカーを見上げた。


 あの手が、苗の根元へ土を寄せていた。

 鍵盤の上で、琥珀の声を待っていた。


『他の三名は、私に叛き、外の世界に潜伏していた者たちだ』


 名前は、読み上げられなかった。


『諸君らに残された時間は限られている。生きるための努力を怠るな。これを最後の忠告と思え』


 放送が終わった。


 誰かが、遠くで籠を置いた。

 その音だけが、やけにはっきり聞こえた。


「処分って、何」


 シエリの視線が、ミナトの顔とペンデュラムの間を動いた。


「さっきまでいたじゃない。帰ってくるって言ったのよ。一時間か、そこらだって」


 ミナトは答えなかった。


「もう帰ってこないって言うの?」


 シエリが一歩、後ずさる。視線は揺れ惑い、定まっていない。


「そんなの、ありえない」


 部屋へ戻ったかと思うと、ヘルメットをつかんで飛び出していた。


「シエリ!」


 ミナトが呼んだ。

 止まらなかった。


 駆けていく靴音を、琥珀は聞いていた。

 自分も立たなくては、と思った。

 ヤマサンが待っているのかもしれない。


 違う、と頭のどこかで分かっていた。

 それでも、ここに座ってはいられなかった。


 ミナトがペンデュラムを持ち直した。


「俺が近くにいれば……」


 通路の奥で、シエリのバイクが唸った。

 ミナトは顔を上げた。


 琥珀の腕を引き、立ち上がらせる。

 そのあと、ミナトは一度だけ頷いた。


「乗って」


 *


 押上駅の出入口で、シエリはバイクを停めた。

 スタンドを出し損ねた車体が、背後で傾く。

 振り返らずに、シャッターへ走った。


 金属板の向こうで、風が唸っていた。


 操作盤を乱打する。

 ボタンが光り、シャッターがゆっくりと持ち上がり始めた。


 ジェットファンの叫び。

 隙間から、白い埃が噴き込んだ。


 シエリは腕で顔を庇った。

 髪が引かれ、頬に細かな破片が当たる。


「ヤマ!」


 声が、外へ届いたかも分からない。


 身体をかがめ、開きかけたシャッターの下へ進んだ。

 あの大きな背中が見えればいい。

 柱の陰でも、建物の中でも、どこかに。


 突風に煽られ、足が滑った。


 全身が闇に拐われかけ、腕を伸ばす。

 つかむものがなかった。


 手首を、背後から引かれた。


「戻れ!」


 ミナトの声だった。

 シエリは引き戻され、内側の壁へぶつかった。


「放して!」

「外には出るな!」


 シエリは腕を振りほどこうとした。

 けれど立ち上がれなかった。

 開いたシャッターの向こうには、風と、灰色に霞む空しかない。


「……ヤマ」


 口から、息と一緒に名前が落ちた。


 ミナトが手を緩める。

 シエリは膝を抱えるようにして、顔を伏せた。


 琥珀は、少し離れた壁際に立っていた。

 ガジュが風に煽られ、肩へぶつかった。

 両手で抱き止める。


 シエリが顔を上げた。


 その目が、琥珀で止まった。


「あんたのせいよ」


 琥珀は動けなかった。


「あんたの荷物を、取りに行ったんでしょ。そんなもの、欲しがらなければ」


「違う」


 ミナトが言った。


「ギターは俺だ。ヤマサンは別の――」

「だったら、どうして止めなかったの!」


 ミナトの口が閉じた。


 琥珀は、自分の指先を見た。

 母のギターを抱えるところを、想像していた。

 ピアノと一緒に弾きたいと言った。


 欲しいと、言わなければ。


 ミナトが違うと言ってくれたことより、その言葉の方が、頭の中で大きくなった。


 花を植えた。

 一緒にご飯を食べた。

 また聴かせてくれと、言ってもらった。


 あまりに穏やかな世界は、ほんの薄いベールに過ぎなかった。


 何かが変わった気がしていた。今の世界の方がいいなんて考えてた。


 夢の中のステンドグラスが浮かんだ。

 光が差している。色が重なり、美しいままに細いひびが走っている。


 でも、そうだった、ここは死と隣り合わせの――

 終末世界。


 割れる前から、ひびはあったんだ。

 自分が、見ないでいただけだった。


 結局、わたしはわたし。世界は世界なんだ。


 *


「……あの白い花」


 シエリが言った。

 琥珀は顔を上げられなかった。


「デイジー。私が一番好きな花なの」


 ミナトは操作盤へ向かっていた。

 閉鎖のボタンを押すと、シャッターが重く鳴り、下がり始めた。


「ヤマは、いつも私のためだけに育ててくれてたのに」


 シエリは濡れた頬を拭いた。


 琥珀の口元が動いた。

 お手伝いをしたから、もらったのだ。

 でも、その説明をして何になるのか、分からなかった。


「あんたは、何も言わないのね」


 シエリが立ち上がった。


「違うんだシエリ」


 ミナトが操作盤から振り返った。


「何とか言いなさいよ」


 肩をつかまれた。

 琥珀の身体が、壁へ押しつけられる。


『シエリさま、手を放して、落ち着いてください』


 ガジュが二人の間へ浮かび上がった。

 修理されたばかりの、澄んだ声だった。


『コハクは、答えたくないわけじゃ――』


 シエリの手が、球体をつかんだ。


 この子には、まだいる。


 何も言わなくても、代わりに話してくれるものが。

 そばにいて、名前を呼んでくれるものが。


「……ふざけないで」


 指が、ガジュの継ぎ目へ掛かった。

 そこをどう開けるか、シエリは知っていた。

 何を抜けば、何が失われるのかも。


 小さな蓋が外れた。


「シエリ、何して――」


 ミナトがシエリの腕を引く。


 薄い記憶媒体が、引き抜かれた。

 羊の顔が消える。


 琥珀が手を伸ばした。


 シエリは、その手の届かない足元へ、媒体を叩きつけた。


 かかとが落ちた。


 硬い音がした。


「やめろ!」


 もう一度。


 ミナトが彼女の身体を琥珀から引き離し、背後へ押しとどめる。


 ガジュが床へ落ちた。

 丸い身体が転がり、壁に当たって止まった。


 シャッターが閉まり切った。

 風の音が、厚い鉄板の向こうへ遠のいた。


 琥珀はしゃがんだ。


 小さな破片が散っていた。

 黒い欠片。銀色の薄片。

 指で寄せると、さらに細かなものが、その下から出てきた。


「……ガジュ」


 シエリは、琥珀の背中を見ていた。


 泣き叫ばれると思った。

 怒るか、すがるか、何かが返ってくると思った。


 琥珀は、破片を拾っていた。

 ひとつずつ。見落としたものがないか、手を止めて確かめながら。


 同じように失えばいい。

 一瞬前、自分がそう望んだことが、シエリには分かっていた。


 足元を見た。

 靴の底に、小さな銀色がついていた。


 *


 短い電子音が鳴った。


 琥珀の手が止まった。

 壁際で、ガジュに光が灯っている。


 顔を上げた。


『おはようございます、お嬢様』


 球体が、ゆっくりと浮かび上がった。


『私めは執事のガジェットと申します。何なりとお申し付けくださいませ』


 琥珀は瞬きをした。


 知っている。

 この挨拶を、知っている。


 赤いリボンの箱があった。

 大きな手が、それを差し出していた。


 三歳の誕生日。


 父は、いつものように机へ向かってはいなかった。

 琥珀の前に立ち、少しだけ腰をかがめていた。


「おめでとう」


 顔を見上げると、父の口元がかすかに動いた。

 笑っていたのかもしれない。


 箱の蓋を開けた。

 光る球体が、ふわりと浮かんだ。

 顔を覗き込むように近づくと、向こうも、こちらへ顔を向けた。


『おはようございます、お嬢様』


 同じ声だった。

 一言も、違わなかった。


「まんまる……」


 琥珀が呟いた。


 球体は、静かに待っていた。

 その呼び名を懐かしがることも、いつものように言い返すこともなかった。


 まんまるから、ガジュになった。

 毎日、名前を何度も呼んだ。いつでも返事をしてくれた。

 羊が笑うようになった。

 余計なことを言って、琥珀を怒らせるようになった。


 バッグの中に、必ずいた。

 シェルターの中で最後に話した相手も、この声だった。


 琥珀は掌を開いた。


 十五年が、そこに乗っていた。

 元の形が分からないほど、小さくなって。


『お嬢様。ご用命をどうぞ』


 返事ができなかった。


 帰ってきて。


 それを、どう頼めばいいのか分からなかった。


 痛いほどの静寂があった。


 ミナトが、琥珀のそばへ膝をついた。

 ハンカチを広げ、掌の下へ差し入れる。


 琥珀は破片を移した。

 最後の一つが指に残り、なかなか離れなかった。


「持って帰ろう」


 琥珀は頷いた。

 ガジュの身体も、腕の中へ収めた。


 シエリは壁際に座り込んでいた。

 ミナトが近づくと、顔を背けた。


 彼は、すぐには何も言わなかった。

 足元に置いていたペンデュラムを持ち上げ、彼女の前へ差し出す。


「ヤマサンから、預かってるものがある」


 シエリの目が、金属の器具へ動いた。


「これのほかにも。アークにあるんだ」


 返事はなかった。

 けれど、両手が伸びてきた。


 ペンデュラムの重さが、その腕へ移る。

 シエリは胸元へ抱え、顔を伏せた。


 *


 帰りは、ミナトのバイクに三人で乗った。

 サイドカーに座ったシエリは、ペンデュラムを抱えたまま動かなかった。

 琥珀はミナトの背中で、ガジュ丸をしっかり抱えていた。


 トンネルの灯りが、順番に後ろへ流れる。


 ガジュの画面は点いていた。

 そっと触れると、こちらへ顔を向ける。


 何も言わなかった。

 琥珀も、何も頼まなかった。


 頬に冷たいものが触れた。

 拭おうとして、両手が塞がっていることに気づいた。


 そのまま、涙が風に流れた。


 エンジンの振動が身体に伝わる。

 琥珀は包みを落とさないように指を曲げ、ガジュの身体を抱き直した。


 その丸さだけは、いつもと同じだった。


 

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