【第18話】主のいない丘
歌を口にしてはならない。
女王が丘で告げた言葉は、その日のうちに放送され、メトロジェイル全域の決まりになった。
それから数日が過ぎた。
アークでは、相変わらず野菜が運ばれていた。
水田には人が入り、修理の必要な道具は作業場へ届けられた。食事の時間になれば、湯気も上がった。
何も止まってはいなかった。
琥珀は、通路を歩くたびに耳を澄ました。前には、仕事の合間に誰かが鼻歌を歌っていた。誰かが調子を合わせ、途中から別の曲になって、笑う声がした。
いまは、台車の軋む音だけが近づいて、遠ざかる。
静まり返った水田のそばに、劫火の騎士が立っていた。泥の中で働く人たちは、腰をかがめたまま顔を上げない。
琥珀は足を止めた。
畦の端に、白い花が一輪、挿してあった。デイジーだ。
泥のついた小さな茎が、慎ましく、凛としている。
誰が挿したのかは、分からない。
騎士がこちらを向いた。
琥珀は目を伏せ、また歩き出した。
*
ヤマサンの部屋の前を通った。
シエリは、あれからずっと彼の部屋に閉じ籠ったまま出てこない。
置いていった食べ物の器は、次に来た時には空になっていた。
今日も、扉は閉まっている。
琥珀は前に立ち、片手を持ち上げた。
叩こうとして、やめた。
顔を見たら、何を言えばいいのだろう。
どんな返事が欲しいのかも、まだ分からなかった。
あの人も、悲しいのだ。
それは分かる。
でも、ガジュ丸を思い出すたびに聞こえてくる音がある。
かかとが落ちた、硬い音。
琥珀は手を下ろした。
扉のそばに置かれた空の器を拾い、通路の棚へ移した。
いまは、それだけにした。
シエリは大切な人を喪った。
ガジュとはまた新しい関係を築けばいい。
「……行こう、ガジュ」
『かしこまりました』
丁寧な声が、すぐに返った。
振り返ると、球体が浮かんでいる。
いつもの高さで、いつもの距離に。
琥珀は少しだけ、歩く速さを落とした。
「ねえ、ガジュ」
『はい。お呼びでしょうか、お嬢様』
やはり返ってきた声は出会った頃と同じ執事の口調。
胸の奥がキュッと痛む。
第一立坑へ続く通路には、ほかに誰もいなかった。
琥珀は壁に沿って歩きながら、言葉を探した。
何から話していたのだろう。
初めて会った次の日に。
その次の日に。
頭の中で、惚けた声が何度もリフレインしている。
思い出せなくてもいい。絆は説明書のないもの。
自然に任せればいい。
一度築けた絆。なら、もう一度、きっと。
『何かお困りでしょうか』
琥珀は首を横に振りかけた。
「……話がしたいだけ」
『承知いたしました。では、お嬢様のことを教えていただけますか。今後の会話のために、記録いたします』
琥珀はガジュ丸を見た。
画面の律儀な羊の顔が、静かに待っている。
「わたしの名前は、琥珀」
『コハク様ですね』
「様は、つけなくていい」
『では、コハクとお呼びしてもよろしいでしょうか』
頷いた。
『承知いたしました、コハク』
足が止まった。
同じ名前なのに、呼び方が違った。
こんなにきちんと、一音ずつは呼ばなかった。
それでも、もう一度聞きたかった。
「……うん」
また歩き出す。
ガジュがついてくる。
「好きな食べ物はね」
言いかけて、考えた。
シェルターにあった缶詰の名前が浮かんだ。そのあとに、アークで食べた野菜が浮かんだ。
「まだ、知らないものがいっぱいあるの」
『お好みのものが見つかりましたら、お知らせください』
「この前、一緒に食べた……」
そこで、言葉が止まった。
ガジュは何も食べていない。
それでも、食卓にはいた。
変な音を出して、みんなが笑った。
「……みんなで、ご飯を食べたの。ヤマサンっていう人のところで」
『ヤマサン様』
琥珀は頷いた。
「ピアノが、弾ける人でね」
足元を見ながら、続ける。
「手が大きいの。わたしが歌うのを、待ってくれるの」
琥珀は思い付いたことを少しずつ話した。
ガジュ丸は急かさなかった。
十五年という隙間を、二人はゆっくりと、言葉ひと粒ずつ埋め直していった。
*
風に揺れる数本の白い花。
丘は、花畑とは言えないほど殆どがもう枯れてしまっていた。
丘の中央には、小さな石が置かれていた。
ヤマサン、と名前が彫ってある。
その下には、何も埋まっていない。
ソラが、石の前にしゃがんでいた。
しばらく動かず、やがて膝を払って立ち上がる。
「なあ。人が死んだら、上と下、どっちに行くんだろうな」
琥珀に気づかないまま、ソラは立坑を見上げた。
「空が下なら、天国も下か。じゃあ、地獄は上……つまり」
途中でやめて、琥珀の靴音に顔を向けた。
「来たんだ」
琥珀は頷いた。
石の前に膝をつき、両手を合わせる。
踏まれた場所は、土が露出していた。残った花も多くが俯き、白かった花びらの輪郭が茶色くなっていた。
琥珀は水をやりに来ていたが、どれくらいが適量なのか、もう隣から教えてくれる人はいなかった。
「なんや、えらい小っちゃい墓石やなあ。魂、はみ出てまうわ」
後ろで、ソラが言った。
琥珀は振り返った。
ソラは少し口元を上げたが、すぐに下を向いた。
「……って、言いそうだろ」
琥珀も、ほんの少し笑った。
似ていなかった。
でも、ヤマサンなら、きっとそんなことを言う。
石のそばに残った花を、指で起こした。
手を離すと、また傾いた。
ソラは待っていた。
「ミナトたち、集まってるんだ」
琥珀が顔を上げる。
「一緒に来てくれる?」
今度は、笑っていなかった。
*
放送室の扉を開けると、円花と一花が振り向いた。
ミナトは奥の椅子に座っていた。
壁には、青い月と星が残っている。
琥珀が歌った時と、同じだった。
「こっち、座って」
円花が椅子を引いてくれた。
琥珀は頭を下げ、その端に腰を下ろす。
テーブルに、お菓子はなかった。
畳まれた地図と、ペンが数本置いてある。
ソラが扉を閉め、静かに息を吸い込む。
「集まってもらったのは、作戦の話をするためだ」
地図を広げる。
赤い印のそばに、東京タワー、と書いてあった。
琥珀はそれを見た。
初めて外へ出た時の、赤い鉄骨が浮かぶ。
その上に立っていた女王も。
ソラがペンを取った。
「作戦名は、東京タワー・ドッカン作戦」
誰も笑わなかった。
円花が口を開きかけ、ミナトを見た。
彼は腕を組んだまま、地図を見ていた。
「……それ、どういう意味?」
ソラは別の紙を重ねた。
逆さまの東京タワーが描かれている。
「女王の放送設備は、ここにある」
ペンの先が、下の方を指した。
「元は地上二百五十メートルのトップデッキ。今は、下へ降りた先だ。女王専用の放送ブースがあるはずだ」
「罪人のお知らせの……?」
一花が訊いた。
「ああ。各地の受信設備を通じて、あそこから街全体へ流してる」
ソラは図を押さえた。
「女王を、その放送ブースに誘い出す」
琥珀は、息を飲んだ。
「A班が囮。B班は移動を見ながら、A班が退避するタイミングを指示する。女王がブースへ入ったら、エレベーターを止めて孤立させる」
「待って。エレベーター、動いてるの?」
円花が身を乗り出した。
「逆さまだよ?」
「改造されてる。女王たちは今も使ってるんだ」
ソラはそこで、一度ミナトを見た。
ミナトが小さく頷く。
「それで……ドッカンって、何」
一花の声がした。
ソラの指が地図を二度指す。
「C班が爆破する」
片方の手のひらを広げて、無音でドッカーンと付け足した。
「女王を閉じ込めたまま、タワーを落とすんだ」
円花の身体が、椅子へ戻った。
一花は図を見つめている。
琥珀は、紙の下端を見た。
描かれたタワーの、その先には何もない。
落とす。
ソラが言った一言から、ヤマサンの名前が離れなくなった。
ミナトが拾って帰ってきた、あの大きなリールが浮かんだ。
女王を、同じ空へ。
ミナトを見た。
彼は琥珀を見返さなかった。
「……ほかの人は」
ガジュ丸の近くへ顔を寄せる。
小さく囁くと、画面がこちらを向いた。
『ほかの方も、巻き込まれるのでしょうか』
以前のような言い方ではなかった。
けれど、質問は届いた。
「だから、隔離する」
ソラが答えた。
「そのために、班を分けるんだ。細かい話は、これからする」
琥珀は頷けなかった。
ソラも、頷くのを待たずに図へ目を戻した。
誰かを殺す話をしている。
この部屋で。
あの人と同じ食卓を囲んだ、自分たちが。
それでも、やめようという言葉は出てこなかった。
何もしなければ、女王はまた誰かの名前を読み上げる。
その声は、ここにあるスピーカーからも流れる。
琥珀はガジュ丸を見た。
「……わたしたちだけで、できるの?」
『こちらの五名で、実行可能な計画なのでしょうか』
ガジュ丸が伝えた。
ソラが口を開く前に、一花が指を図へ置いた。
「外……ずっと嵐」
タワーの輪郭を、短くなぞる。
「準備する人は……どうするの。目を待つ?」
誰も、すぐには答えなかった。
〝目〟の予測。
その言葉を出すだけで、部屋にいない人の顔が浮かんだ。
ミナトが、組んでいた腕をほどいた。
「そこは、協力者がいる」
低い声だった。
琥珀は顔を上げた。
円花も、一花も、彼を見ている。
「嵐の中で、動ける連中だ」
ソラは何も言わなかった。
ペンの蓋を閉め、その手をテーブルに置いた。
ミナトが一人ずつ、顔を見た。
「革命派さ」




