【第11話】デイジーの咲く丘
『おはよー、ガハクー。新しいアトリエへようこそー。ガガガ……』
琥珀は、毛布の中で眉を寄せた。
「ガジュ。あなた、わざと壊れたふりしてない?」
返事の代わりに、枕元で羊がにやけた。
目を開けると、壁に見覚えのない布が飾られていた。木や鳥を織り込んだ、北欧風のタペストリー。端の房飾りが、換気口の風に少し揺れている。
また、知らない部屋だ。
でも、今度はすぐに思い出せた。
ヤマサンが貸してくれた部屋。
眠くなった食卓。肩に掛け直されたジャケット。運ばれてくる途中にも、誰かの話し声を聞いていた気がする。
琥珀は身を起こし、タペストリーを眺めた。
前にここで暮らしていた人が、選んだものなのだろう。置いていったのか、戻れなくなったのか。ヤマサンはただ、空いていると言っていた。
触れようと伸ばしかけた手を、膝へ戻した。しばらくは、このまま掛けておこうと思った。もしかしたらこの部屋は、誰かの痕跡を残したまま、静かに主を忘れようとしているのかもしれない。
扉が、軽い調子で叩かれた。
「おはようさん。朝メシ前のひと仕事やでえ」
琥珀は顔を上げた。
起きたら、誰かが来てくれた。
*
第一立坑の丘には、まだ影が多かった。
頭上の筒は暗く、逆さの螺旋階段が途中で闇に溶けている。その下だけを人工灯が照らし、盛られた土の表面に、細かな凹凸を浮かび上がらせていた。
近づくと、湿った土の匂いがする。
ヤマサンが手袋を差し出した。
「まずは、見とってな」
膝をつき、小さな苗を手に取る。根を包む土を崩しすぎないように持ち、掘った穴へ据えた。周りから土を寄せ、指で軽く押さえる。
「深すぎてもあかん。ほら、ここらへんまで」
琥珀は頷き、隣へ屈み込んだ。
手袋の指先を土へ入れる。思っていたより柔らかい。けれど、掘ったところへ苗を置くと傾いてしまい、慌てて片手で支えた。
「せや。そのまま、こっちから土を足して」
言われたとおりにすると、苗が立った。
白い花びらをわずかに覗かせた蕾が、細い茎の先で揺れている。
琥珀は手を離して、しばらく見ていた。
『ガんばれ、コハクー』
肩の横でガジュ丸が言った。
琥珀は土のついた手袋を掲げ、応える。それから、次の苗へ手を伸ばした。
穴を掘り、苗を置き、土を寄せる。
隣の株との間を確かめ、少しだけ植え直す。ヤマサンの手元を何度も見ながら繰り返しているうちに、目の前には、自分が植えた列ができていた。
白い蕾を見ていると、幼い頃に手にした、別の白い花を思い出した。
庭師のフージィの部屋。
小さな鉢に、一輪だけ咲いていた花。
幼い琥珀が欲しがると、彼はしばらく花を見て、それから、いつもの優しい顔で差し出してくれた。
「お嬢様によくお似合いです」
フージィは祖父のような人だった。庭へ出れば手を止めてくれて、花の名前を教えてくれた。
たった一輪だけ置かれていた花。しかしあれは、彼の部屋にあってはいけない花だった。
琥珀はその後、ガラス張りの中庭へ戻そうとした。フージィのためにも、その方がいいと思ったのだ。
あの時は、土がこんなにも心を落ち着かせてくれるものだとは思っていなかった。
「デイジーや」
声に顔を上げた。
ヤマサンが、咲ききった白い花を何本か束ねていた。
「花言葉は、無邪気、平和、それから希望。……ええやろ」
片膝をついたまま、花束を琥珀へ差し出す。
その仕草がお芝居の求婚のようで、琥珀は思わず笑った。
「ハハ。ちょっと夢見させてや。練習や、練習」
ヤマサンは照れたように、花束の向きを直した。
琥珀は手袋を外し、ガジュ丸へ口を寄せる。
『わたしが、もらっていいの?』
「手伝うてくれたお礼や。こいつら、もう咲いてもうたから、作戦にはちょい早いねん」
琥珀は花束と、土の上の蕾を見比べた。
ヤマサンはこの丘の花を、すべて同じ頃に咲かせたいのだ。
「せやけど、コハちゃんには似合う思うてな」
両手で受け取った。
茎は冷たく、白い花びらは灯りの下で、薄く透けていた。
歌のお礼に、食事をもらった。
今日は、土を掘った手に花がある。
琥珀はその手を、花束ごと胸元へ寄せた。
*
朝食の片づけをしていると、柱の向こうから低いエンジン音が近づいてきた。
ミナトだった。今度はバイクの横に、サイドカーを取り付けている。
「朝メシ、今食べたとこやで。お前は?」
「食った。そっちも終わったなら、市場行こうぜ」
琥珀は頷いた。
今朝の皿には、摘みたての葉と、火を通したキノコが載っていた。たったそれだけの食事だったのに、噛んだ時の瑞々しさの感触が、まだ口に残っている。
ヤマサンが立ち上がると、足元をカブが横切った。
琥珀は短く声を上げ、椅子に手を掛けた。
「こら、カブ。コハちゃんの通り道、空けたり」
ヤマサンが拾い上げる。
ミナトは笑いながら、サイドカーを指差した。
「ほら。こっちなら、安全だぜ」
琥珀は用心して座り、バッグを膝へ置いた。
花束は、部屋の水差しに挿してきた。帰ってきたら、あの白い花がある。
そう考えながら、出発を待った。
*
旧・東京駅へ向かう道では、シュウリヤたちが電車の車体を切り分けていた。
ミナトは速度を落とした。
作業灯の下に火花が散り、外された金属板が壁際へ運ばれていく。人が通れる幅を残して、部品が積み直されていた。
天井には、もう電車の来ない線路がある。
その下を通る道を、今は人の手が広げている。
トンネルを抜けると、匂いが変わった。
油で揚げる甘い匂い。その奥に、鼻をくすぐる香辛料。取り引きのいくつもの声が重なり、どれが誰に向けられたものなのか、すぐには分からなかった。
市場ヤエチカ。
バイクを降りた琥珀は、ミナトの傍へ寄った。
裸電球の下に、人の顔がある。布の上へ並べた工具。袋詰めの食料。見たことのある薬の箱。誰かが品物を持ち上げ、その向かいで別の誰かが首を振っている。
円花のルッコラも、ここへ来たのだろうか。
辺りを見回していると、前を歩いていたヤマサンが止まった。
つられて目を向けた先に、黒い大きな箱があった。
ピアノだった。
古いアップライトピアノ。
傷のついた木肌と、黄ばんだ鍵盤。周りを埋める食材や工具とは違い、それひとつで店先の場所を取っている。
「……どうやって運んだんや、こんなもん」
ヤマサンが近づいた。
琥珀も黒い側板を見つめる。あの反転した街で、この重さを支えて移動する人の姿は、どうしても想像できなかった。
「元は、駅に置いてあったストリートピアノさ」
奥から老人が顔を出した。
「ひっくり返って壊れたやつを、アッシが少しずつ直した。何年もかかったよ。……それなりのものと交換してもらわんとな」
ヤマサンは老人を見て、それから鍵盤へ目を戻した。
「触ってもええか」
頷くのを待ち、蓋を開ける。
指先をひとつ、そっと下ろした。
小さな音がした。
市場の声に混じり、すぐに消えた。
今度は、もう少し深く押した。
音が伸びた。
琥珀は顔を上げた。
黒い箱の中から、弦の震えが返ってくる。ガジュ丸のスピーカーとも、母の映像とも違う。ここにあるものが、今、鳴っていた。
「試奏させてや」
ヤマサンが腰を下ろした。
土を寄せていた大きな手。よく見ると大男にしてはしなやかで長い指が、鍵盤の上へ置かれる。
低い音が、二つ。
そこへ、高い音が転がり込んだ。
琥珀は瞬きをした。
指が動くたびに、音が別の音へ追いつき、追い越していく。ヤマサンの肩が揺れた。片足が拍子を取り始める。
途中で、ひとつ、鈍い音が混じった。
彼は少し首を傾けたが、止まらなかった。旋律の形を変え、別の調へするりと移る。さっきまでの濁りも、初めからそこを通るつもりだったように、次の響きへ紛れていった。
幼い頃から弾いてきたジャズの手癖だった。
古い鍵盤を一つずつ確かめながら、ヤマサンは、このピアノがよく鳴る場所を探していた。
周りのかけ声が、少し減っていた。
隣の店で、品物を差し出しかけた人が手を止めている。通りがかりの人が、肩越しに振り返る。
琥珀もガジュ丸を抱いたまま、動けずにいた。
最後の音に、軽い和音が重なった。
ヤマサンが手を離す。
一拍遅れて、拍手が起きた。
「やっぱ、すげえな!」
ミナトが笑っていた。
ヤマサンは照れ隠しのように鼻の下を擦り、老人へ向き直った。
「ええなあ、じいちゃん。これ、ロレックスと交換してや」
袖を捲った。
昨日もらったばかりの時計が、電球の光を返す。
琥珀は思わず、ミナトを見た。
彼は驚くどころか、面白そうに二人を見ている。
老人は時計を覗き込まず、ピアノへ歩み寄った。
蓋の端に掌を置き、木肌を一度撫でる。
「いい腕だな。音が出るようには直したが、こんなふうに鳴るとは思わなかった」
ヤマサンが留め具へ掛けていた指を止めた。
「あんた、ヤオヤだろ。見たことがある」
「せや。アークで野菜やら何やら育てとる」
「なら、時々、野菜を届けてくれないか。そうだな、それでどうだ」
ヤマサンは老人の顔を見た。
それから、大きく頷いた。
「交渉成立や。何年でも届けたるで!」
「そんなに長く生きる気もないがね。ハッハハ」
老人は笑った。
指はまだ、ピアノの縁を撫でていた。
「こいつを直すのが、アッシの生き甲斐だったのさ。今日はここ、明日はあそこ。直しても、また気になるところが出てくる。……その間は、ほかのことを忘れていられた」
琥珀は、鍵盤を見た。
ヤマサンが弾いた音のひとつひとつに、この人が手を掛けていた時間がある。
「ようやく、人に弾いてもらえるところまで来たのだよ」
老人の掌が、木肌を離れた。
「これからは、朝起きて何をしようか、考えんとな」
琥珀は顔を上げた。
生き甲斐は、なくなることもあるのだ。
壊れたり、奪われたりしなくても。大事にして、やり遂げた、その先で。
「じいさんの話、まだあるだろ」
ミナトが言った。
「何年もこれ直してきたんだ。どうやったとか、何が大変だったとか。それだけでも、俺は聞きたいぜ」
老人はミナトを見た。
「ピアノの話ばかりになるぞ」
「さっきまでは、重力だ遠心力だって難しい話ばかり聞かされてたんだ。今度はピアノでいい」
ヤマサンが笑った。
老人もつられ、肩を揺らす。
「ハッハハ。そうか。……語り屋でも始めるかな」
「野菜届けた時に、聞かせてや」
今度は、老人が頷いた。
琥珀は、ヤマサンの腕へ目を落とした。
時計は、まだそこにある。
老人のところへは、これから何度も野菜が届く。
ひとつの交換が終わったのに、その先に、また会う約束ができていた。
ヤマサンがもう一度、鍵盤へ指を置いた。
「これも作戦に追加や」
それは、琥珀に聴こえるだけの声量だった。
朝、土の上へ並べた白い蕾が、琥珀の頭に浮かぶ。
そっか。あの丘で、この音が鳴る。
琥珀は、まだ咲いていない花の列を思いながら、次の一音を待っていた。




