【第12話】ライダースーツの女
「もう、くったくたや。汗だく、大盛り、つゆだくや……」
ヤマサンがシャツの胸元をつまんで、ぱたぱたと風を入れた。
「誰も注文してねえよ」
ミナトも息を切らしていた。
黒いピアノの脚の下から、運搬用の板を引き抜く。手伝ってくれた男たちが腰を伸ばし、ようやく終わった、と顔を見合わせた。
ヤエチカを出てから、数時間が過ぎていた。
通路の角では曲がり切れず、一度戻った。段差の前では人を呼び、狭い扉では全員で息を合わせた。琥珀にできたのは、先へ走って扉を押さえることと、応援することくらいだった。
それでも、ここまで来た。
第一立坑の丘。花壇のそばに設けた平らな場所で、ピアノはもう誰の手にも支えられずに立っていた。
「おおきに。今度、野菜持ってくわ」
「腰が治る野菜にしてくれよ」
男たちが笑いながら帰っていく。
ミナトも台車と運搬の道具を片付けに下りていった。
ヤマサンは鍵盤の蓋を開けた。
額の汗を拭き、両手をズボンで念入りに拭いてから、椅子に腰を下ろす。
ぽん、と一音。
琥珀は顔を上げた。
店で聴いた時よりも、音が遠くまで伸びていく。
高い立坑の壁に返り、少し遅れて耳へ届いた。
「ええなあ」
ヤマサンがもう一度鳴らした。
今度は、低い音を添えて。
「コハちゃん。ちょっとだけ付き合うてくれへん?」
琥珀は自分を指さした。
「せや。作戦の予行練習や」
あの作戦だ。
肝心なところは、まだ何も教えてもらっていない。
琥珀が首を傾げると、ヤマサンは笑って鍵盤へ向き直った。
「ワイが弾くさかい、好きに歌うてみて。歌詞も要らん。鼻歌でもええで」
左手がゆっくり動き出す。
低い音が二つ、間を空けてもう一つ。右手がその間へ、短い旋律を差し込んだ。
琥珀はピアノのそばに立った。
まずは聴いていた。革靴の中で、足の指が拍子を取る。
繰り返しが分かってきたところで、小さく息を吸った。
声をひとつ、置いてみる。
ヤマサンの右手が止まった。
間違えたのかと思って口を閉じかけると、その人は顎をちょいと上げた。
続きを、と言うように。
琥珀がもう少し歌う。
歌い終えるのを待って、ピアノがよく似た節を返してきた。最後の音だけ、いたずらのように跳ね上がる。
思わず笑ってしまった。
次は琥珀も、そこを跳ね上げてみた。
「そうそう」
ヤマサンの指が弾む。
母の映像を、思い出した。
何度も見たコンサート。母は歌の途中でピアニストを振り返り、笑っていた。相手も笑い、譜面にはなさそうな長い演奏を始める。
その時の母は、少しも困った顔をしていなかった。
わたしも、あそこに入りたい。
幼い頃、画面の前でそう思った。
母が亡くなったあとも、同じ箇所を繰り返し再生した。
琥珀は、ヤマサンの手元を見た。
自分が息を吸うと、音が少し静かになる。声を伸ばすと、そこへ和音が重なる。
待ってくれている。聴いて、返してくれている。
次の節は、さっきより大きな声で歌えた。
*
拍手が聞こえた。
琥珀は振り返った。
丘の下に、人がいた。籠を抱えた女性。作業着の男。子供の肩に手を置いた母親。その後ろにも、立ち止まっている人がいる。
いつから。
吸った息が、喉につかえた。
声が切れたことに気づいた人たちが、いっそう強く手を叩く。
「いいぞ!」
琥珀は両手を握った。
何かしなくては。頭を下げるのか、続きを歌うのか。それとも、お礼を。
考えるほど、どこを見ればいいのか分からなくなった。
ピアノが静かになった。
ヤマサンは両手を鍵盤に置いたまま、琥珀を見ていた。
「おーい、コハク」
台車を片付けたミナトが、坂を上がってきた。
「そんなに固まんなよ。試験じゃねえんだから」
琥珀は彼を見た。
「みんな、歌が聞こえたから来ただけだろ。俺もそうだし」
ミナトは花壇を避けて脇へ回ると、その場にしゃがみ込んだ。
どうやら、そこで聴くつもりらしかった。
「続き、ある?」
急かす調子ではなかった。
琥珀は答えられず、ヤマサンへ目を戻した。
「ここで終わってもええで」
大きな手が、鍵盤をそっと押す。
さっきの曲の、最初の音だった。
「まだ遊び足りんかったら、もうちょいやろか」
琥珀は唇を結んだ。
怖さは残っていた。後ろを向く勇気も、まだなかった。
けれど、さっきの続きをしたかった。
もう一度、ピアノに返事をしてみたかった。
小さく、頷く。
「よっしゃ。上手に歌わんでええねんで。アドリブや。違う音が出たら、ワイがついていったる」
左手が動き始めた。
琥珀は目を閉じた。
まず、足の指で拍子を取る。
次に、息を吐く。
口を閉じたままの細いハミングを、ピアノに重ねた。
ヤマサンは、ちゃんと拾ってくれた。
ひとつ歌えた。
もうひとつ、続いた。
母の笑った顔が浮かぶ。
画面の向こうで、誰かの演奏に耳を傾けていた顔。
琥珀は少しずつ口を開いた。
さっきほど大きな声にはならなかった。それでも、途中でやめずに最後の音まで歌えた。
ヤマサンと目が合う。
二人で頷き、同じところで音を切った。
静かになった丘へ、拍手が戻ってきた。
琥珀の肩が小さく跳ねる。
けれど今度は、顔を上げられた。
「素敵だったわ」
籠を抱えた女性が言った。
「もう少し聴いていたかった」
「……ありがとう」
言ってから、琥珀は唇に手を当てた。
女性は笑って、連れの人と坂を下りていった。
ごく普通に。お礼を言われた人が、そうするように。
ミナトが立ち上がるのが見えた。
琥珀は自分の袖をつまんだ。いま、と伝えたかった。
けれど、次の言葉は出てこなかった。
ガジュ丸を目の前に抱える。
「……いま、わたし」
『聞こえたよ、コハク』
画面の羊が頷いた。
『ちゃんと、ガガガ……ありがとうって言えてたね。ガガガ……』
琥珀は笑った。
少しだけ、目が熱くなった。
ミナトも笑っていた。こちらに何か言いかけて、やめて、それからピアノを軽く指さした。
「また聴かせてくれよ」
琥珀は頷いた。
今度はさっきより、大きく。
*
部屋へ戻る通路で、ヤマサンが急に足を止めた。
「は、早かってんな!」
前方に、オレンジ色のライダースーツを着た女性が立っていた。
片手にヘルメットを抱えている。波打つアッシュブロンドの髪をかき上げると、袖の金具がかちりと鳴った。
「なに。その言い方」
「いや、まだ先や思うてたさかい!」
「仕事が早く終わったの。悪い?」
「悪ない悪ない。そら、ええこっちゃ!」
ヤマサンが、いつになくどぎまぎしている。
女性はその脇を通り、ミナトの前へ来た。
「久しぶりね、ミナト」
「おう。元気そうだな、シエリ」
「顔、見せないじゃない」
伸びてきた手を、ミナトが半歩退いてかわす。
「外に出てたんだよ」
「私もよ」
これが、シエリ。
ガジュを直してくれるかもしれない人。
琥珀は端末を両手で持ち直した。
女性の目がこちらへ向く。慌てて頭を下げたが、顔を上げた時には、もうヤマサンを見ていた。
「で?」
「ん?」
「頼みたいことがあるんでしょう」
「ああ、せやせや。こっちや」
ヤマサンが歩き出す。
琥珀はその後について、自分の部屋の扉を開けた。
卓上の水差しに、デイジーが咲いていた。
出かける前よりも、一輪、花びらが開いている。
琥珀は少し嬉しくなって、振り返った。
シエリも、花を見ていた。
それから、壁のタペストリーへ目を移した。
「ここ?」
「せや。コハちゃんに使うてもろてんねん」
ヤマサンは、琥珀へ笑いかけた。
「さっきの、よかったなあ。今度はちゃんと人呼んで、コンサートせえへん?」
琥珀は目を丸くした。
すぐに、首を横へ振る。
「まあ、今すぐ決めんでもええ。ギターも弾けるんやろ? あれとピアノでも、やってみたいなあ」
その言葉に、琥珀の手が止まった。
母のギター。
白い胴。金色の金具。小さな自分の身体にも抱えられるよう、母が用意してくれた一本。
シェルターを出た時には、持ってこられなかった。
まだ、あそこにあるだろうか。
さっきピアノへ返した節を、頭の中でなぞってみる。
今度は、自分の指で音を添えて。
琥珀はガジュ丸へ顔を寄せた。
「……ギターがあったら、やってみたい。家に、取りに行きたいの。ミナトに、そう伝えて」
「聞こえたよ」
すぐ隣から声がした。
琥珀は顔を上げた。
ミナトが笑いをこらえていた。
「最後の、伝えて、まで」
顔が熱くなる。
琥珀は端末で口元を隠した。
『通訳の仕事を、奪わないでほしいな。ガガガ……』
「お前は早く直してもらえ」
ヤマサンが笑った。
シエリは、笑わなかった。
その時、通路のスピーカーが低く唸った。
サイレン。
琥珀は扉の外を見た。
知っている音だ。〝目〟が近づいている。
けれど、前の警報を聞いてから、まだそれほど経っていない。
「……早いな」
ミナトが呟いた。
ヤマサンも、腕時計を見ている。
「せやな。さっき来たとこみたいなもんやのに」
二人は一度、目を合わせた。
ミナトが何か言う前に、ヤマサンが手を打った。
「よし。ミナト、ワイも行くわ」
「ヤマ」
シエリの声が、はっきりと割って入った。
「あんた、ハンターじゃないでしょう」
「道具は使える。忘れてへんで」
「そういう話をしてるんじゃないの」
彼女は、ヤマサンの袖をつかんだ。
「今、早すぎるって言ったばかりじゃない。外の様子も分からないのに、何をしに行くの」
ヤマサンは一瞬、ミナトへ目をやった。
「ちょっと、用があんねん」
「どんな」
「帰ったら……話すさかい」
琥珀はガジュを持ち上げた。
ギターなら、あとでもいい。
そう伝えようとした時、ヤマサンがこちらを向いた。
「コハちゃんのギターは、ミナトが見てくるさかい。今日はここで待っといてな」
琥珀はミナトを見る。
「白いギターだろ。ケースに入ってる?」
頷く。
「分かった」
シエリはまだ、袖を放していなかった。
「何かあったらどうするの」
さっきより、低い声だった。
ヤマサンの笑顔が少し静かになった。
「帰ってくる。一時間か、そこらや」
「そんなの、分からないでしょ」
「帰ってこんとあかん理由があんねん」
シエリが彼の顔を見上げた。
ヤマサンは、いつもの調子を取り戻すように笑った。
「びっくりするで。楽しみにしとってな」
彼女の指が、袖から外れた。
「……勝手にすれば」
「せや。ガジュ丸、頼むな。コハちゃんの大事な相棒やねん」
返事を待つ間もなく、ヤマサンは通路へ出た。
ミナトがその後を追う。
やがてバイクのエンジンがかかり、二人の声と一緒に遠ざかっていった。
*
琥珀は扉のそばに立っていた。
部屋にはシエリがいる。ガジュを渡さなくては、と思った。
けれど、彼女は手を出さなかった。
水差しのデイジーを見ている。
ヤマサンが、育てた花。
その視線に気づいて、琥珀も花へ目を向けた。
何か、説明した方がいいのだろうか。
お手伝いをして、もらったのだと。
ガジュに囁こうとしたところで、シエリが振り返った。
「コハちゃん、さん」
琥珀は顔を上げた。
さっきまで何度も呼んでもらった名前が、知らない呼び方に聞こえた。
「あんた、なんでここに住んでんの?」
答えを探して、唇を動かそうとする。
声になる前に、さらに次の言葉が来た。
「ここ、私の部屋なの」
シエリは、開いたままの扉へ目を向けた。つめたい針が琥珀の胸に深く差し込まれる。
「出てってくれる?」




