↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
メトロジェイルの歌姫  作者: 羽月楓


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/29

【第12話】ライダースーツの女

「もう、くったくたや。汗だく、大盛り、つゆだくや……」


 ヤマサンがシャツの胸元をつまんで、ぱたぱたと風を入れた。


「誰も注文してねえよ」


 ミナトも息を切らしていた。

 黒いピアノの脚の下から、運搬用の板を引き抜く。手伝ってくれた男たちが腰を伸ばし、ようやく終わった、と顔を見合わせた。


 ヤエチカを出てから、数時間が過ぎていた。

 通路の角では曲がり切れず、一度戻った。段差の前では人を呼び、狭い扉では全員で息を合わせた。琥珀にできたのは、先へ走って扉を押さえることと、応援することくらいだった。


 それでも、ここまで来た。


 第一立坑の丘。花壇のそばに設けた平らな場所で、ピアノはもう誰の手にも支えられずに立っていた。


「おおきに。今度、野菜持ってくわ」

「腰が治る野菜にしてくれよ」


 男たちが笑いながら帰っていく。

 ミナトも台車と運搬の道具を片付けに下りていった。


 ヤマサンは鍵盤の蓋を開けた。

 額の汗を拭き、両手をズボンで念入りに拭いてから、椅子に腰を下ろす。


 ぽん、と一音。


 琥珀は顔を上げた。

 店で聴いた時よりも、音が遠くまで伸びていく。

 高い立坑の壁に返り、少し遅れて耳へ届いた。


「ええなあ」


 ヤマサンがもう一度鳴らした。

 今度は、低い音を添えて。


「コハちゃん。ちょっとだけ付き合うてくれへん?」


 琥珀は自分を指さした。


「せや。作戦の予行練習や」


 あの作戦だ。

 肝心なところは、まだ何も教えてもらっていない。


 琥珀が首を傾げると、ヤマサンは笑って鍵盤へ向き直った。


「ワイが弾くさかい、好きに歌うてみて。歌詞も要らん。鼻歌でもええで」


 左手がゆっくり動き出す。

 低い音が二つ、間を空けてもう一つ。右手がその間へ、短い旋律を差し込んだ。


 琥珀はピアノのそばに立った。

 まずは聴いていた。革靴の中で、足の指が拍子を取る。

 繰り返しが分かってきたところで、小さく息を吸った。


 声をひとつ、置いてみる。


 ヤマサンの右手が止まった。

 間違えたのかと思って口を閉じかけると、その人は顎をちょいと上げた。


 続きを、と言うように。


 琥珀がもう少し歌う。

 歌い終えるのを待って、ピアノがよく似た節を返してきた。最後の音だけ、いたずらのように跳ね上がる。


 思わず笑ってしまった。

 次は琥珀も、そこを跳ね上げてみた。


「そうそう」


 ヤマサンの指が弾む。


 母の映像を、思い出した。

 何度も見たコンサート。母は歌の途中でピアニストを振り返り、笑っていた。相手も笑い、譜面にはなさそうな長い演奏を始める。

 その時の母は、少しも困った顔をしていなかった。


 わたしも、あそこに入りたい。


 幼い頃、画面の前でそう思った。

 母が亡くなったあとも、同じ箇所を繰り返し再生した。


 琥珀は、ヤマサンの手元を見た。

 自分が息を吸うと、音が少し静かになる。声を伸ばすと、そこへ和音が重なる。

 待ってくれている。聴いて、返してくれている。


 次の節は、さっきより大きな声で歌えた。


 *


 拍手が聞こえた。


 琥珀は振り返った。

 丘の下に、人がいた。籠を抱えた女性。作業着の男。子供の肩に手を置いた母親。その後ろにも、立ち止まっている人がいる。


 いつから。


 吸った息が、喉につかえた。

 声が切れたことに気づいた人たちが、いっそう強く手を叩く。


「いいぞ!」


 琥珀は両手を握った。

 何かしなくては。頭を下げるのか、続きを歌うのか。それとも、お礼を。

 考えるほど、どこを見ればいいのか分からなくなった。


 ピアノが静かになった。

 ヤマサンは両手を鍵盤に置いたまま、琥珀を見ていた。


「おーい、コハク」


 台車を片付けたミナトが、坂を上がってきた。


「そんなに固まんなよ。試験じゃねえんだから」


 琥珀は彼を見た。


「みんな、歌が聞こえたから来ただけだろ。俺もそうだし」


 ミナトは花壇を避けて脇へ回ると、その場にしゃがみ込んだ。

 どうやら、そこで聴くつもりらしかった。


「続き、ある?」


 急かす調子ではなかった。

 琥珀は答えられず、ヤマサンへ目を戻した。


「ここで終わってもええで」


 大きな手が、鍵盤をそっと押す。

 さっきの曲の、最初の音だった。


「まだ遊び足りんかったら、もうちょいやろか」


 琥珀は唇を結んだ。

 怖さは残っていた。後ろを向く勇気も、まだなかった。

 けれど、さっきの続きをしたかった。

 もう一度、ピアノに返事をしてみたかった。


 小さく、頷く。


「よっしゃ。上手に歌わんでええねんで。アドリブや。違う音が出たら、ワイがついていったる」


 左手が動き始めた。


 琥珀は目を閉じた。

 まず、足の指で拍子を取る。

 次に、息を吐く。

 口を閉じたままの細いハミングを、ピアノに重ねた。


 ヤマサンは、ちゃんと拾ってくれた。


 ひとつ歌えた。

 もうひとつ、続いた。


 母の笑った顔が浮かぶ。

 画面の向こうで、誰かの演奏に耳を傾けていた顔。


 琥珀は少しずつ口を開いた。

 さっきほど大きな声にはならなかった。それでも、途中でやめずに最後の音まで歌えた。


 ヤマサンと目が合う。

 二人で頷き、同じところで音を切った。


 静かになった丘へ、拍手が戻ってきた。


 琥珀の肩が小さく跳ねる。

 けれど今度は、顔を上げられた。


「素敵だったわ」


 籠を抱えた女性が言った。


「もう少し聴いていたかった」


「……ありがとう」


 言ってから、琥珀は唇に手を当てた。


 女性は笑って、連れの人と坂を下りていった。

 ごく普通に。お礼を言われた人が、そうするように。


 ミナトが立ち上がるのが見えた。

 琥珀は自分の袖をつまんだ。いま、と伝えたかった。

 けれど、次の言葉は出てこなかった。


 ガジュ丸を目の前に抱える。


「……いま、わたし」

『聞こえたよ、コハク』


 画面の羊が頷いた。


『ちゃんと、ガガガ……ありがとうって言えてたね。ガガガ……』


 琥珀は笑った。

 少しだけ、目が熱くなった。


 ミナトも笑っていた。こちらに何か言いかけて、やめて、それからピアノを軽く指さした。


「また聴かせてくれよ」


 琥珀は頷いた。

 今度はさっきより、大きく。


 *


 部屋へ戻る通路で、ヤマサンが急に足を止めた。


「は、早かってんな!」


 前方に、オレンジ色のライダースーツを着た女性が立っていた。

 片手にヘルメットを抱えている。波打つアッシュブロンドの髪をかき上げると、袖の金具がかちりと鳴った。


「なに。その言い方」

「いや、まだ先や思うてたさかい!」

「仕事が早く終わったの。悪い?」

「悪ない悪ない。そら、ええこっちゃ!」


 ヤマサンが、いつになくどぎまぎしている。


 女性はその脇を通り、ミナトの前へ来た。


「久しぶりね、ミナト」

「おう。元気そうだな、シエリ」

「顔、見せないじゃない」


 伸びてきた手を、ミナトが半歩退いてかわす。


「外に出てたんだよ」

「私もよ」


 これが、シエリ。

 ガジュを直してくれるかもしれない人。


 琥珀は端末を両手で持ち直した。

 女性の目がこちらへ向く。慌てて頭を下げたが、顔を上げた時には、もうヤマサンを見ていた。


「で?」

「ん?」

「頼みたいことがあるんでしょう」

「ああ、せやせや。こっちや」


 ヤマサンが歩き出す。

 琥珀はその後について、自分の部屋の扉を開けた。


 卓上の水差しに、デイジーが咲いていた。

 出かける前よりも、一輪、花びらが開いている。

 琥珀は少し嬉しくなって、振り返った。


 シエリも、花を見ていた。

 それから、壁のタペストリーへ目を移した。


「ここ?」

「せや。コハちゃんに使うてもろてんねん」


 ヤマサンは、琥珀へ笑いかけた。


「さっきの、よかったなあ。今度はちゃんと人呼んで、コンサートせえへん?」


 琥珀は目を丸くした。

 すぐに、首を横へ振る。


「まあ、今すぐ決めんでもええ。ギターも弾けるんやろ? あれとピアノでも、やってみたいなあ」


 その言葉に、琥珀の手が止まった。


 母のギター。

 白い胴。金色の金具。小さな自分の身体にも抱えられるよう、母が用意してくれた一本。

 シェルターを出た時には、持ってこられなかった。


 まだ、あそこにあるだろうか。


 さっきピアノへ返した節を、頭の中でなぞってみる。

 今度は、自分の指で音を添えて。


 琥珀はガジュ丸へ顔を寄せた。


「……ギターがあったら、やってみたい。家に、取りに行きたいの。ミナトに、そう伝えて」


「聞こえたよ」


 すぐ隣から声がした。

 琥珀は顔を上げた。


 ミナトが笑いをこらえていた。


「最後の、伝えて、まで」


 顔が熱くなる。

 琥珀は端末で口元を隠した。


『通訳の仕事を、奪わないでほしいな。ガガガ……』

「お前は早く直してもらえ」


 ヤマサンが笑った。

 シエリは、笑わなかった。


 その時、通路のスピーカーが低く唸った。


 サイレン。


 琥珀は扉の外を見た。

 知っている音だ。〝目〟が近づいている。

 けれど、前の警報を聞いてから、まだそれほど経っていない。


「……早いな」


 ミナトが呟いた。

 ヤマサンも、腕時計を見ている。


「せやな。さっき来たとこみたいなもんやのに」


 二人は一度、目を合わせた。

 ミナトが何か言う前に、ヤマサンが手を打った。


「よし。ミナト、ワイも行くわ」

「ヤマ」


 シエリの声が、はっきりと割って入った。


「あんた、ハンターじゃないでしょう」

「道具は使える。忘れてへんで」

「そういう話をしてるんじゃないの」


 彼女は、ヤマサンの袖をつかんだ。


「今、早すぎるって言ったばかりじゃない。外の様子も分からないのに、何をしに行くの」


 ヤマサンは一瞬、ミナトへ目をやった。


「ちょっと、用があんねん」

「どんな」

「帰ったら……話すさかい」


 琥珀はガジュを持ち上げた。

 ギターなら、あとでもいい。

 そう伝えようとした時、ヤマサンがこちらを向いた。


「コハちゃんのギターは、ミナトが見てくるさかい。今日はここで待っといてな」


 琥珀はミナトを見る。


「白いギターだろ。ケースに入ってる?」


 頷く。


「分かった」


 シエリはまだ、袖を放していなかった。


「何かあったらどうするの」


 さっきより、低い声だった。

 ヤマサンの笑顔が少し静かになった。


「帰ってくる。一時間か、そこらや」

「そんなの、分からないでしょ」

「帰ってこんとあかん理由があんねん」


 シエリが彼の顔を見上げた。

 ヤマサンは、いつもの調子を取り戻すように笑った。


「びっくりするで。楽しみにしとってな」


 彼女の指が、袖から外れた。


「……勝手にすれば」

「せや。ガジュ丸、頼むな。コハちゃんの大事な相棒やねん」


 返事を待つ間もなく、ヤマサンは通路へ出た。

 ミナトがその後を追う。


 やがてバイクのエンジンがかかり、二人の声と一緒に遠ざかっていった。


 *


 琥珀は扉のそばに立っていた。

 部屋にはシエリがいる。ガジュを渡さなくては、と思った。


 けれど、彼女は手を出さなかった。


 水差しのデイジーを見ている。

 ヤマサンが、育てた花。

 その視線に気づいて、琥珀も花へ目を向けた。


 何か、説明した方がいいのだろうか。

 お手伝いをして、もらったのだと。


 ガジュに囁こうとしたところで、シエリが振り返った。


「コハちゃん、さん」


 琥珀は顔を上げた。

 さっきまで何度も呼んでもらった名前が、知らない呼び方に聞こえた。


「あんた、なんでここに住んでんの?」


 答えを探して、唇を動かそうとする。

 声になる前に、さらに次の言葉が来た。


「ここ、私の部屋なの」


 シエリは、開いたままの扉へ目を向けた。つめたい針が琥珀の胸に深く差し込まれる。


「出てってくれる?」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。