【第9話】博士の研究
旧・押上駅。
無風、快晴。
逆さの街の探索が始まる。
ペンデュラム・ギアが低い唸りを上げた。ミナトが右腕の鉤爪をビルの梁へと投げ放つと、金属線が空を割り、張り詰める。そして振り子のように彼の身体を一気に対岸へと運んだ。
風圧が切るのは、彼の笑みだ。
遠心力に抗いながらも、すでに次の鉤爪を左腕で射出している。
肉体そのものが計算式のような、無駄のない動き。それは幾度となく身を投げて鍛え上げたパルクールの勘と筋力が生み出す、しなやかな一連動作だった。
その時、前触れなく鉄製の窓枠が悲鳴を上げ、固定していた鉤爪が弾け飛んだ。だが、ミナトは慌てない。
わずかに浮遊した瞬間、身体をねじり、反動を利用してワイヤーを再展開。
その婉然たる姿は、まるでCG編集した映画のワンシーンのようだ。
ソラが先導しながら叫んだ。
「スカイツリーの地下街に、未探索の区画がある! ついてきなよ!」
銀色のホバーバイクで思うままに風を切っていくソラ。「俺も乗せてよ」とミナトが言うと、すかさず手で払われる。
「シェリーさんと乗るのが夢なんだ、男は絶対乗せねーよ」
*
「シエリな、なんや忙しいみたいや。方南町でレールの補強工事しとんやて。60時間後にはこっち来れるゆうとったわ」
シエリ――〝シュウリヤ〟の一員で、アーク近郊の酒場では〝シェリー〟と呼ばれている。店が静まり返るほど歌が上手いと評判だ。
ヤマサンは工具を広げ、分解されたガジュ丸を前に頭を抱えていた。
心配そうに見守る琥珀。
さっきからガジュ丸のマイクの調子が悪く、時折「ガガガ……」というノイズが混ざっていた。
自信満々にヤマサンが腕を捲ったが、再び組み立て直した時には、なぜかネジが一本余ってしまっていた。
「だ、大丈夫や。シエリは元・科学大学のロボット技術研出身やからな。……なんや、その、とにかくエラいんや」
ガジュ丸を起動させる。普段通り上部のLEDが回転し、間抜けな羊顔を映し出す。今のところ正常に作動しているみたいだ。
「このペンデュラムもそうや。シエリがワイのマグロリールを改造して、最初に試作品を作ったんやで」
『マグロリール?』と琥珀が小首を傾げると、ヤマサンの顔がニヤリと笑う。よくぞ訊いてくれたと言わんばかりに自分の過去の栄光を語りだした。
「ワイはな、昔、一本釣りマグロ漁船に乗っとったんや。えっらいビッグなクロマグロをな、人の腕とリールだけで引き上げる。ギシギシ唸る船、弓なりの竿、巻き上げる度に筋肉パンパンやで!」
興奮気味に語る声に、琥珀の笑顔は引きつる。
波しぶき、うねる海原、カモメの群れ……彼女の頭の中で、見たことの無いマグロ釣りの豪快な光景が想像されていく。
塩気の風が想像の中で頬を撫でた。
「ミナト兄弟もな、よう船に乗ってきよったわ。二人とも度胸あったで。マグロに連れてかれそうになっても絶対に竿から手ぇ離さへんかったわ……」
ふいに、ヤマサンの表情が変わった。
「あの兄弟とは、東京湾沖をよう駆け回ったもんや。あの日まではな」
――それは、地球が軋み、天と地が反転した日。轟音とともに大地は裂け、富士は赤い流涎を垂れ流した。
夕焼けの中、東京湾アクアブリッジは捻れ、足元のアスファルトが歪み、波のように揺れていた。
男は車を走らせた。
ただならぬ東京湾を見つめながら、傾くアクアラインを引き返していた。
やがて、潮の濃い匂いが辺りを包み、次の瞬間には、息を吸い込むように海が水平線へ引いていくのが見えた。
沿岸の海底が露わになった。
ぬめる藻が初めて陽を浴び、黒ずんだ岩肌を飾った。船が係船柱に吊られたまま転げ砕け、まだ動いている魚が泥の上で跳ねた。
そして東京湾は抉られた大地となり、亀裂の入った海床を男に見せつけた――。
「引いてった海を見てな、こりゃあ大津波の前兆や言うて、ワイは高台に逃げようとしたんや」
ヤマサンは紅茶で喉を潤した。
「トンネル入ったところで天地がひっくり返ってな、結局……海も二度と戻ってこんかったわ」
彼女がシェルターにいた間に起こっていた地球の変貌。少し聴いただけでも背筋が凍るような話だ。
『どうしてそんな事が、ガガ……起こっちゃったの?』
*
「あの日、どうしてあんなことが起こったのか。その原因を語るには、十数年前まで遡る。僕がまだ博士の研究所にいた頃の話だ。博士と僕たちは、ひとつの仮説にたどり着いていた」
反転した東京、〝ペンデュラム・シティ〟を翔け巡っていたミナトとソラ。二人は古びた時計店に足を踏み入れていた。
埃かぶるショーケース。その奥には、逆さの大きな振り子時計が飾られている。
振り子部分は斜めに倒れたまま、まるで死にかけた魚のようにビクリビクリと動いていた。
それを横目で見つめながら、ソラが続きを語り始める。
「いまは、一日が一時間。これは、地球の自転速度が急激に加速したせいだ。
けど実は数年前から、不規則に自転が速くなる日が何回かあったんだ。
たとえば、2011年の東日本大震災。
あの時は、地球の自転がたった0.0000018秒だけ速くなった。人間には感じとれない程度だったけど、僕たち研究者は、この些細な現象こそ見逃してはいけないものだと気付いていた」
ソラの声は熱を帯びていく。
「加速の原因として地震による質量移動の他に、地球核のゆらぎ、月の潮汐力、温暖化による氷床の変動が上げられた。
答えはひとつ、もしくは全てかも知れない。博士はそれらを総合して、遠心力が重力を上回る閾値を計算した。
つまり、もし自転がさらに速まれば遠心力は増し、物体が浮き上がる。そんな御伽噺のような現象が現実に起こり得るのか。
……博士はそう考え、夢のような仮説を真剣に数式へと落とし込んだんだ」
ソラが小型プロジェクターを取り出し、壁に複雑な数式と簡略化された地球の断面図を映し出した。
「現在の地球の重力加速度をg、遠心力をFcとしよう。
重力反転が起きるためには、Fcがgを上回る地点、つまり、遠心力が最も強く働く赤道付近で “重力よりも外向きの力が勝つ” 瞬間がまず生まれるはずだ」
ソラは、壁に投影された数式を指でなぞりながら続けた。
「地球の半径はおよそ6,371km。
自転周期は24時間――正確には23時間56分4秒だ。
その結果、赤道上では1秒間に465m移動、時速にして1,674kmの速さで地球は回っていることになる」
波打つようなエフェクトで、スクリーンに数列が流れた。
「現在の重力加速度は9.8m/s²。これに対して、赤道での遠心加速度はわずか0.034m/s²。重力の0.35%しかない。
つまり、以前の地球では人は地面にしっかりと縫いとめられていたということだな」
「そのバランスが崩れてしまった……」
「そうさ。博士の仮説では、自転が加速して遠心力が重力を超える瞬間――
rω²>gという条件が成り立つのは、地球の角速度ωがおよそ0.00124ラジアン毎秒のとき。
それを自転周期に換算すると……」
ソラが一拍置き、数式を指で払う。
「一日の長さが、5,067秒――およそ1時間24分より短くなったとき、赤道付近では遠心力が重力を上回り始める。
それをきっかけに、重力自体もバランスを崩し、ヒトは浮き上がり、世界がひっくり返った。
――見ての通り、博士の仮説は現実になったって訳さ」
淡く光る数式が、まるで世界の終わりを予知した呪文のように壁面を照らしていた。




