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その一文字、港を沈めます

「王都の標準版にも、同じ赤が入ります」


 リオの言葉に、地下書庫の空気が止まった。


 だが、外では満潮の鐘が鳴り続けている。石壁の向こうから、波が防潮壁を叩く重い音が響いた。


 ミラは王都魔導院の標準契約印を一度だけ見た。


「それは後で聞く。今は港を沈めないことが先」


「はい」


「必要なものを言って」


 判断が速い。


 王都なら、まず責任者を呼び、次に許可書を探し、最後に会議になる。その間に満潮は来る。だがミラは違った。疑っていても、危険だと判断した瞬間に動ける。


「原本への仮校閲承認。代官印。結界管理者の立会い。できれば、港の鐘を鳴らす人に避難指示を」


「ハンス!」


 ミラが入口へ声を飛ばす。


 すぐに、白髪交じりの大柄な男が駆け込んできた。潮に焼けた顔。分厚い手。港の現場で働いてきた人間の足音だった。


「代官様、満潮です。防潮壁の光が妙に薄い。嫌な感じがします」


「港務長ハンス。今から防潮結界に緊急修正を入れる。倉庫前の人を下げて。鐘は三連打。避難合図」


「修正? 誰が」


 ハンスの視線がリオへ向く。


「王都の若い書類係に、港の命綱を触らせるんですか」


「責任は私が取る」


 ミラは即答した。


「この人が間違えていたら、私が罰を受ける。この人が正しければ、あなたの倉庫の人間が助かる。どちらを優先する?」


 ハンスは一瞬だけ黙り、歯を食いしばった。


「三連打ですね」


「お願い」


 ハンスが走り出す。


 鐘の音が変わった。低く、短く、三つ。港のざわめきが地下室まで届く。


 リオは息を整えた。


 防潮結界の原文に赤を入れる。ただし正式更新ではない。ミラの緊急承認による仮校閲だ。満潮が過ぎるまで、発動方向だけを一時的に読み替えさせる。


 便利な技術ではない。


 仮校閲は、契約文の上へ薄い布をかけ、その布へ赤を入れるようなものだ。原文は変わらない。だから長くは持たない。複雑な契約なら、反動で別の条文がずれることもある。


「リオ」


 ミラが代官印を押した紙片を差し出した。


「緊急承認。対象は防潮結界第三条。期限は満潮終了まで。修正理由は、あなたが言った一文そのまま」


「ありがとうございます」


「礼は後。赤を入れて」


 リオは赤鉛筆を握った。


 王都で使っていたものと同じ、ただの赤鉛筆だ。高価な魔導筆ではない。書けば芯が減り、強く押せば折れる。けれど、リオにはこれがいちばん合っている。


 原文の上に、承認紙を重ねる。


 第三条。

 満潮時、過剰潮圧を港内へ逃がし、結界負荷を減ずる。


 港内。


 線を引くだけでは足りない。契約呪文は文字数も余白も、息継ぎの位置さえ発動条件に含む。


 リオは「内」の右へ小さな校閲記号を書き込んだ。


 置換。

 対象方向、外。

 満潮終了まで。

 代官承認により仮適用。


 赤線が紙面へ沈んだ。


 次の瞬間、地下室の魔法灯が青く揺れる。


「何が起きた」


「結界が読み替えを始めました」


 リオの視界で、黒い朱線が震えていた。赤を入れた第三条ではない。王都魔導院の標準契約印の縁にある黒い線だけが、まだ消えない。


 やはり、ただの誤字ではない。


「港へ」


 ミラが走り出した。


 リオも契約書を抱えて後を追う。外へ出ると、風が強い。潮の匂いが濃い。低い倉庫の前では、ハンスが職人たちを怒鳴りながら下がらせていた。


「綱を置け! 命のほうが高い!」


 防潮壁の向こうで、波が膨らむ。


 青白い結界光が一度、内側へ倒れた。


 リオの喉が鳴る。


 遅かったか。


 そう思った瞬間、赤を入れた第三条が光った。


 倒れかけた結界光が、紙をめくるように反転する。港の内側へ流れ込もうとしていた潮圧が、防潮壁の外へ押し返された。白い波が壁の向こうで砕け、しぶきだけが高く上がる。


 水は来なかった。


 桟橋の板が濡れただけで、港の内側には一滴の潮も走らない。


「……止まった」


 誰かが呟いた。


 ハンスが防潮壁とリオを見比べる。


「今の、本当にこいつが?」


「こいつ、ではなくリオ・アステル」


 ミラの声には、さっきまでの警戒だけではないものが混じっていた。


「王都魔導院から来た呪文校閲官です」


 職人たちの視線が集まる。リオは居心地の悪さに肩をすくめた。


「まだ仮です。満潮が終わるまでしか持ちません。正式更新には過去版の照合と再署名が必要です」


「それでも、倉庫は沈まなかった」


 ハンスが低く言う。


「うちの若いのも、まだ桟橋にいた。助かった」


 リオは何と返せばいいかわからず、ただ頭を下げた。


 王都では、赤を入れても誰も見なかった。見たとしても、細かいことを言うなという顔をされた。


 だが今、港の人たちは防潮壁を見ている。濡れなかった桟橋を見ている。沈まなかった倉庫を見ている。


 何も起きなかったことが、初めて成果として見えていた。


「リオ」


 ミラが隣に立つ。


「正式更新に必要なものは」


「過去版。契約者一覧。防潮結界を使う港の標準契約写し。それから、今回の仮校閲を正式な修正に変える再署名です」


「何人?」


「最低でも代官府、港務長、契約書庫組合。王都標準版に触れるなら、本来は王都魔導院の承認も要ります」


 ミラの眉がわずかに動いた。


「本来は、ね」


「勝手に王都標準版を書き換えることはできません」


「でも、同じ誤字を使っている港が他にもあるかもしれない」


「はい」


 リオは防潮壁を見上げた。結界光は安定している。けれど、彼の視界にはまだ黒い朱線が残っていた。消えたのは満潮の危機だけだ。もっと大きな問題は、紙面の奥に沈んだままだった。


「僕が王都にいた頃、防潮結界の標準版は校閲済みとして扱われていました。印があるから安全だと、誰も一文字ずつ見直さない」


「その印に、あなたは赤を見た」


「はい」


 ミラは少し考え、坂の上の代官府を見た。


「今日はあなたの勝ち。けれど、私はまだ全部を信じたわけじゃない」


「それで構いません」


「構うわ。信じないままでは、契約に判を押せない」


 ミラはリオへ向き直る。


「だから証拠を積みます。過去版を出す。契約者を集める。あなたは赤を入れる理由を、誰にでもわかる言葉で説明して」


「わかりました」


「それと」


 ミラは声を少し落とした。


「王都が見落としたのか、見落としたことにしたのか。そこも調べる」


 リオは答えなかった。


 王都魔導院の標準契約印。黒い朱線。校閲済みの印に残った、消えない違和感。


 もし単なる誤字なら、まだ救われる。

 だが、もし誰かが意図して通したものなら。


「代官様!」


 港の端から、若い見張りが駆けてきた。


「灯台です。灰塩岬の灯台結界が、さっきから明滅しています。船が一隻、沖で進路を取れずにいます」


 ミラがリオを見る。

 リオも岬のほうを見た。


 夕暮れの灯台に、薄い魔法光が点いたり消えたりしている。その根元に、赤い揺らぎが見えた。


 誤字ではない。

 禁則語だ。


 リオは思わず呟いた。


「防潮結界だけじゃない。灯台の呪文にも、同じ癖があります」


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