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誤字を直すだけの地味職

 潮の匂いは、王都の書庫にはなかった。


 馬車を降りた瞬間、湿った風が頬を叩いた。荷台から下ろされた革鞄は一つだけ。中身は着替えが少しと、赤鉛筆が三本、古い校閲定規、それから王都魔導院の辞令。


 リオ・アステル。


 王都魔導院、呪文校閲官。


 本日付で、辺境港セイレンベル代官府付けを命ずる。


 辞令にはそう書かれている。だが、王都で聞かされた言葉はもっと短かった。


「誤字を直すだけの地味職は、もう要らん」


 ガレス院長は、そう言って笑った。


 新呪文の発表が近い。校閲に時間を取られると、貴族たちへの披露が遅れる。事故が起きていないなら、お前の仕事など成果ではない。そういう理屈だった。


 リオは反論しなかった。


 反論しようにも、事故が起きなかったことを証明するのは難しい。赤を入れたから壊れなかった呪文。直したから暴走しなかった契約。誰にも見えない失敗の手前で止めた仕事は、いつも「何も起きなかった」で終わる。


 そして、何も起きなければ、何もしていないのと同じに扱われる。


「……ここが、セイレンベル」


 リオは港を見た。


 石造りの堤防が湾を抱き、沖には灰色の灯台が立っている。だが、活気は薄い。桟橋の半分は閉じられ、倉庫の戸には休業札が目立った。遠くの防潮壁には、青白い魔法光が薄く走っている。


 防潮結界だ。


 満潮や嵐の夜、港へ押し寄せる海水を契約呪文で押し返す大型魔法。王都でも講義だけは受けたことがある。港の命綱と言っていい。


 その光を見た瞬間、リオの足が止まった。


 結界の魔法光に、一本だけ黒い朱線が重なって見えた。


「……おかしい」


 普通の誤記なら、赤くにじむ。禁則語なら、文字の輪郭が逆さに揺れる。改ざん痕なら、紙面の端が焦げたように見える。


 だが、あれは違った。


 赤なのに黒い。黒なのに、校閲記号のようにまっすぐ結界文を貫いている。


「あの、防潮結界の原文はどこにありますか」


 リオは近くにいた港の男に声をかけた。男は荷縄を肩にかけたまま、怪訝そうに眉を寄せた。


「原文? あんた、王都から来た人か」


「はい。今日から代官府付けになったリオ・アステルです」


「ああ、噂の。王都で余った書類係だって聞いてるが」


 悪意はなかった。だから余計に、胸の奥が少しだけ沈んだ。


「書類係でも構いません。防潮結界の契約文を確認したいんです」


「そんなもん、代官様に聞いてくれ。今日は満潮が早いんだ。こっちも暇じゃねえ」


 男はそう言って、桟橋へ戻っていった。


 満潮が早い。


 その言葉に、リオはもう一度結界を見た。黒い朱線は防潮壁の中央、契約式の主文が刻まれているあたりから伸びている。


 放っておけない。


 勝手に契約は直せない。権限者の承認、契約者の再署名、過去版との照合。大型契約を動かすには手続きが要る。王都で何度も叩き込まれた規則だ。


 それでも、見えてしまったものを見なかったことにはできなかった。


 リオが代官府へ向かおうとしたとき、港の坂道から若い女性が降りてきた。


 淡い灰色の上着に、実用的な短い外套。護衛を連れていないのに、周囲の職人たちが自然に道を空ける。年はリオと近い。だが、目つきはずっと鋭い。


「あなたがリオ・アステル?」


「はい」


「ミラ・ヴェントです。セイレンベルの臨時代官をしています」


 彼女は短く名乗ると、リオの革鞄に視線を落とした。


「王都からの辞令は確認しました。呪文校閲官、でしたね」


「はい」


「この港に必要なのは、倉庫契約を通す人手と、防潮結界を維持する予算です。王都の書庫で赤を入れていた人に、何ができるのかはまだ分かりません」


 厳しいが、筋は通っていた。


 王都のように人も金も余っている場所ではない。よく分からない左遷者を歓迎する余裕など、この港にはないのだろう。


「分かります。ただ、防潮結界の原文を見せてください」


「着任早々、命令ですか」


「命令ではありません。確認です」


「理由を一文で」


 リオは防潮壁を指さした。


「満潮時に、港の内側へ潮圧を逃がす契約になっている可能性があります」


 ミラの表情が変わった。


 一瞬だけ、警戒よりも先に理解が走った顔だった。


「……外へ、ではなく?」


「はい。防潮契約なら、過剰な潮圧は外へ逃がすはずです。でも今見えている文脈だと、内側へ流す形になっています」


「見えている、とは?」


「僕には、危険な呪文の文脈が赤く見えます。誤字、禁則語、改ざん痕。正確には、原文を見ないと断定できません」


 ミラはすぐには信じなかった。


 当然だ。初対面の男が港に来ていきなり「結界が危ない」と言い出したのだ。信じる方がおかしい。


 だが、彼女は笑いもしなかった。


「来て」


 短く言って、ミラは踵を返した。


 代官府は港を見下ろす石造りの建物だった。案内された地下室には、契約書を収めた鉄扉の書庫がある。ミラが鍵を開けると、湿気を吸った紙と古いインクの匂いが流れ出した。


「防潮結界の原文はこれです。写しは閲覧できますが、原本の修正権限は代官府にあります」


「ありがとうございます」


 リオは机の上に広げられた契約文へ目を落とした。


 古い羊皮紙に、青い魔法文字がびっしりと並んでいる。署名欄にはセイレンベル代官府、契約書庫組合、王都魔導院の標準契約印。


 文字の列を追った瞬間、リオの視界に赤が走った。


 防潮結界、第三条。


 満潮時、過剰潮圧を港内へ逃がし、結界負荷を減ずる。


 リオは息を止めた。


「ありました」


「どこ」


「第三条です。本来は『港外』です。ここが『港内』になっている」


 ミラが羊皮紙を覗き込む。


「……たった一文字?」


「はい。たった一文字です」


 リオは赤鉛筆を取り出した。だが、紙には触れない。まだ権限がない。


「でも、この一文字で、防潮結界は満潮の圧を港の内側へ逃がします。結界そのものは正常に働いているように見えるはずです。だから、誰も誤作動だと気づかない」


 地下室の窓が、低く震えた。


 潮が上がっている。


 遠くで鐘が鳴った。港の満潮を知らせる鐘だ。


 ミラの顔から血の気が引いた。


「今夜、どうなる」


「満潮の山が来た瞬間、防潮壁の内側に水が走ります。桟橋の低い倉庫から浸水します。人が残っていれば危険です」


「修正は」


「できます。ただし、原本に赤を入れるにはあなたの承認が要ります。契約者の再署名も必要です。本来なら過去版との照合も」


「本来なら、ということは」


「時間が足りません」


 ミラは机を見下ろしたまま、数秒だけ黙った。


 外の鐘が二度目を打つ。


 リオは赤鉛筆を握りしめた。王都では、赤を入れるたびにため息をつかれた。遅い、細かい、発表に間に合わない。何度もそう言われた。


 けれど、ここでは違う。


 この一文字の先には、紙ではなく港がある。倉庫がある。働く人がいる。


「修正理由を一文で」


 ミラが言った。


 声は震えていなかった。


「第三条の『港内』は発動方向を反転させ、満潮時に潮圧を港へ流入させます」


「十分。責任は私が取る」


「ミラ代官」


「あなたは赤を入れて。私は署名を集める」


 その言葉に、リオは初めて彼女の顔をまっすぐ見た。


 疑っている。まだ完全には信じていない。それでも、危険を聞き流さない人の目だった。


「分かりました」


 リオは赤鉛筆の先を紙面の上に置いた。


 そのとき、彼の視界に別の赤が浮かんだ。


 第三条の誤字ではない。羊皮紙の右下、王都魔導院の標準契約印。その印の縁に、同じ黒い朱線が細く走っている。


 リオの手が止まった。


「どうしたの」


「……この契約、セイレンベルで書かれたものじゃありません」


「防潮結界は王都の標準契約を写したものよ。辺境港の多くが同じ型を使っている」


 ミラの声がわずかに低くなった。


 リオは、赤鉛筆を持つ手に力を込めた。


 王都の書庫で、何度も見た印だった。標準契約印。校閲済みの証として押される、王都魔導院の印。


 だが、その印に黒い朱線が入っている。


 つまり、誤りはこの港で生まれたものではない。


 もっと上流にある。


「ミラ代官」


「何」


「この誤字、辺境だけの問題じゃありません」


 外で、三度目の鐘が鳴った。


 満潮まで、もう長くない。


 リオは王都魔導院の標準契約印を指さした。


「王都の標準版にも、同じ赤が入ります」


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