ゼノの苦悩と、狂乱の受注
1.妻の変貌
リアナが伯爵家へと戻った後、ゼノは商会の奥で支度を整えていた。今回の依頼は、領主であるリアナからの「絶対命令」に近い特命である。彼は仕事用の外套を羽織ると、妻のカエラに短く告げた。
「すまないが、リアナ様の依頼で、今から少しサンチェスのところへ出てくる」
「リアナ様の依頼なら仕方ないわね。分かったわ、気をつけてね」
カエラは夫の急な外出に対しても、以前のような不満や不安を見せることはなかった。彼女の態度は、ここ最近で明らかに柔らかく、そして穏やかなものへと変わっていた。
カエラが手で自分の髪をすくい上げ、鏡越しに艶やかな光沢を確認している。それはリアナから贈られた髪のケア用品を使ったおかげであった。指通りが驚くほど滑らかになったその感触に、彼女は時折、頬を緩ませて微笑んでいる。
以前の彼女は、リアナによって多忙になったゼノにあまり構ってもらえないことから常にピリピリとしていた。しかし、リアナという圧倒的な存在から直接「贅沢」と「慈悲」の端々を与えられたことで、彼女の心には余裕が生まれたのだ。
(リアナ様……あの方は、ただ怖いだけの方ではないのね)
カエラにとってリアナは、夫を支配する恐ろしい領主であると同時に、自分という一人の女に自信を取り戻させてくれた「恩人」となっていた。
「遅くなるかもしれない。先に寝ていてくれ」
「ええ、待ってるわ。……ゼノ、無理だけはしないでね」
カエラの優しい言葉を背に、ゼノは商会を飛び出した。彼の思考はすでにサンチェスとの交渉に集中している。
リアナの求める職人を確保するためには、サンチェスを介した強引な調整が不可欠だ。ゼノにとって、リアナの無茶振りはもはや日常であったが、それでも今回ばかりは要求の規模が大きい。
(リアナ様は、この領地をどこへ導こうとしているのか……)
だが、その問いに対する答えは、今やどうでもよかった。リアナが描く壮大な計画の歯車として回り続けること。それこそが、自分と家族に平穏以上の「豊かさ」をもたらすと確信していたからだ。
ゼノの馬車はサンチェスの工房へと急ぐ。リアナの掌の上で、領地の経済は音を立てて加速し始めていた。
2.職人の返答
ゼノが工房に到着すると、サンチェス親方は無骨な手つきで作業を続けながら彼を迎え入れた。
「サンチェス親方、少し相談があるんだが?」
「おう、ゼノさんか。何だ?」
ゼノはリアナからの指令である「新たな工房」と「住居」の建設について切り出した。しかし、リアナから口止めされていた「石鹸」については、あくまで「加工場」とだけ伝え、詳細は伏せた。
ゼノの切実な頼みに対し、サンチェスは腕を組んで深く溜め息をつく。
「……あいにく今は、職人の手は空いてねーな。皆、今の仕事で手一杯だ」
「伝手などは無いだろうか。他の親方でも構わないんだが」
「ゼノさんよ、その伝手を使って今のこの状況なんだぜ?」
サンチェスは苦い顔で首を振った。ゼノが食い下がっても、やはり返答は同じだった。
「他領に伝手は無いか? この領地以外でいいんだ」
「すまねーな、無いな。そもそも俺たちが他領に行く機会なんて、一生ねぇよ」
この世界において、冒険者でもない限り、一般領民が領境を越えることは極めて稀だ。移動の制限以上に、他領に行ったところで基盤もなく、食う当てもないからだ。
「そうですよね……」
「面目ねぇな」
「いや、俺も無茶な相談だとは思っていたんだ」
ゼノは内心で(しかし、困ったな……)と頭を抱える。リアナにこの現状をどう報告すべきか。彼女は「他領から連れてこい」と平然と言ったが、現実は甘くない。
「……現状、どこまで進んでいるか聞かせてもらえるか?」
「おう。長屋は十棟完成した。残りの十棟をいま急ピッチで建築中だ」
サンチェスの工房では、あらかじめ壁や柱を加工しておく「組み立て式」の工法を採用している。土台に壁を嵌め込み、屋根と窯を取り付けるだけの効率的な手法だが、それでもリアナの提示した過酷な工期は、血の滲むような努力の賜物であった。
「昼夜問わず、俺の知ってる職人って職人を叩き起こしてかき集めてこのザマだ。これ以上は、誰かを倒れさせることになっちまうぞ」
サンチェスの言葉は重かった。職人たちはすでに限界に近い。この状況でリアナに「できません」と答えるのか、それとも別の策を強行するのか。ゼノは夕焼けに照らされた伯爵家へと続く道を見つめた。
(リアナ様は、この苦境さえも私の手腕を試す試験と仰るだろうな)
ゼノはサンチェスに礼を言い、重い足取りで馬車へと戻る。職人の確保という難題。リアナという「絶対的な命令者」と、疲弊する「現場」の間で、商会主の苦悩は深まるばかりであった。
3.徒労の報告
夕暮れ時、重い足取りで伯爵家を訪れたゼノは、リアナの前で深々と頭を下げた。
「すいません、お力になれなくて……。他領を含め、職人の確保は現状不可能にございます」
サンチェスとの交渉の果てに得た「限界」という報告。しかし、リアナは扇を広げ、何事もなかったかのように微笑んだ。
「あら、問題無いわ。職人はグレイハルト侯爵領から借りられそうよ」
「え……そ、そうなんですか……?」
ゼノは言葉を失った。自身の苦労は何だったのか、という徒労感がこみ上げる。しかしリアナにとっては、ゼノが職人を確保できようとできまいが、社交界という別のルートですでに解決済みだったのである。
リアナはゼノの内心を察することもなく、次々と指示を重ねていく。
「ああ、それから長屋は十一棟でいいわ。残りはスラムでの用途があるから、そのまま長屋の加工だけは続けてちょうだい。あと、調理用の小屋も併せて作ってもらうわよ」
「え、えぇー……!」
ただでさえ限界に近い現場に、さらなる追加発注。ゼノの悲鳴も虚しく、リアナの冷徹な采配は止まらない。
「言うのを忘れていたわね。長屋と調理小屋が終わり次第、止めていた砂糖工房の建築へ移行してちょうだい」
「……分かりました。調理小屋の建設を追加発注しておきます……移住先が終わり次第すぐに砂糖工房の建設を再開します……」
「お願いするわ」
「は、はい……」
ゼノの顔から血の気が引いていくのが分かった。しかしリアナは容赦なくトドメを刺す。
「あとね、住人の移動用の馬車が四台必要なのよ。ハンスに依頼しておいてくれるかしら」
「四台ですか……。失礼ですが、移動用とは?」
ゼノの問いに、リアナは当たり前のように答えた。
「今、作っている長屋から砂糖工房への、労働者の移動用よ。それに、村で女性たちが作った昼食を工房へ配送する役割も担ってもらうわ」
(長屋から砂糖工房へ……。人員の往来まで完全に管理し、物流まで最適化するつもりか)
ゼノは戦慄した。リアナは単に工房を作るだけでなく、労働者の移動時間や食事の供給までを計算していることに。
「分かったかしら、ゼノ? 貴方には商会主として、私のこの領地を、円滑に回すための『潤滑油』になってもらうわ」
リアナの微笑みはあまりに美しく、そしてあまりに恐ろしい。ゼノはただ「御意」と力なく答えるしかなかった。商会主ゼノの過酷な日々は、まだ始まったばかりであった。
後に毎日の移住先への食材の卸しも商会に振られることを、ゼノはまだ知らない。
4.狂気とも言える「わがまま」
リアナが提示した次なる要求を脳内で整理し、ゼノは再び馬車を走らせた。サンチェスの工房へ舞い戻り、扉を勢いよく開ける。
「親方、すまないが……リアナ様から建築計画の変更と、追加で調理小屋を頼まれた」
その言葉を聞いたサンチェスは、手にしていた金槌を置いて呆れ顔で笑った。
「うお! 帰ったと思ったら戻ってきて変更と追加とは……。世間で噂される『わがまま令嬢』ってのは、伊達じゃないんだな」
ゼノは静かに、しかし力強く応えた。
「ああ、リアナ様のわがままは、絶対だからな。……だが、今この過酷な工期を乗り切れば、領地は劇的に変わる。俺たちも、その恩恵を一番に受けるんだ」
サンチェスはその言葉に一瞬だけ沈黙し、周囲を見渡した。確かに、リアナの依頼が舞い込んでからというもの、この工房は好景気に湧き、伯爵家という確実な支払先のおかげで金銭的な不安とは無縁だった。
「へー、そんなに凄いのか……。確かに、ゼノさんの顔色が最近、疲れてる割に妙に活気づいてると思ってたぜ」
サンチェスは肩を竦めると、すぐに頭を切り替えた。
「残り一棟の組み立てなら問題ねーな。で、調理小屋だ。どんな規模だ?」
「労働者五十人分くらいの食事を作れる規模ですね」
「五十人分か……なら竈は最低でも六つ必要だな。作業人数が読めねーから、調理台は広めに取っておくのが賢明だろう」
サンチェスは慣れた手つきで設計図を書き足していく。彼の中には、すでに引き返せないという覚悟があった。
「すまないな、無理ばかり言って」
「気にするな。乗りかけた船だ。リアナ様が見る未来ってやつ、最後まで付き合ってやろうじゃねぇか」
ゼノはサンチェスに礼を言うと、そのまま足早に木工職人ハンスの工房へと向かった。そこで待っていたのは、「乗り合い馬車を四台」という依頼だった。
ハンスは、頭を抱えて唸った。
「うわ……ついに俺のところにもリアナ様からの無茶振りが来たか……」
ゼノは弁解もせず、ただ小さく一言「すまない」とだけ言い残した。それ以上の言葉は不要だった。リアナという嵐の中に一度足を踏み入れた以上、自分たちにできることは、その嵐を最高の技術で乗り切ることだけだと、彼ら職人たちは知っていたからだ。
ゼノが工房を後にする頃には、領地の至る所で、リアナの設計図を元に新たな物が息づき始めていた。彼女の意志という名の楔が、領地の隅々まで打ち込まれていく。ゼノは、自分が運んでいるのは単なる依頼ではなく、領地の運命そのものだと実感していた。




