白き泡の洗礼と、効率的な栄養管理
1.忌み地の民家
次の日の朝、スラムから少し離れた一軒の民家に、重々しい足音が近づいていた。
そこに派遣されたのは、伯爵家のリアナから指名された料理人三名――ハマン、ファルケン、コルン、そして彼らを護衛する一人の騎士である。さらに、彼らの手には大量の食材が抱えられていた。
スラムの周囲には、ぽつりぽつりと空き家が点在している。それもそのはず、まともな領民は治安と衛生面からスラム周辺を徹底的に避けていたからだ。この辺りに細々と暮らしている者たちもまた、領民の中では底辺に近い、日々の糧を得るので精一杯の者たちばかりだった。
だが、前日のうちにリアナの命を受けたスラムの男たちが送り込まれ、その空き家周辺の掃除は徹底的に行われていた。室内に真新しい調理台が搬入され、準備が整ったその場所へ、やがて続々と「昼食担当」に指名されたスラムの女性たちがやってきた。
総勢五十名を超える女性たちが次々と家の中に吸い込まれていく。その異様な光景を、少し離れた場所から覗き見ていた近隣の住民・ルンバは、青ざめた顔で呟いた。
「な、なんだ……? 女たちばかりがあの家に入っていったぞ……。まさか、人身売買か何かじゃ……」
家の中は、これまでのスラムの常識からはかけ離れた緊張感に包まれていた。戸惑う女性たちの前に立った料理人たちは、いきなり包丁を握らせるような真似はしない。最初に課されたのは、生存のための「絶対儀礼」だった。
「最初に、ここへ入ったら必ず手を洗いなさい」
ハマンが厳かに告げる。
「手には、目に見えない、身体に病気をもたらす小さな虫がついている。それを綺麗に洗い流すための行為だ。いいか、これを怠れば、お前たちの大切な家族が、お前たちの手で病に倒れ、最悪の場合は死ぬことになる」
「死ぬ……」
スラムの住人たちは、これまで身近な人間が原因不明の病でバタバタと倒れ、命を落としていく光景を嫌というほど見てきた。食事や不衛生が病の原因になり得るという現実を突きつけられ、女性たちの顔色が変わる。
「作業中、汚れた場所に触れた場合も、毎回、手を洗うこと。……では、見本を見せます」
ハマンがテーブルの上に置いたのは、ユーグ特製の「匂いの無い石鹸」四つだった。
階級の低い領民の間で、石鹸は贅沢品であり、日々の糧にも事欠くスラムの住人に至っては、その存在すら知らない者が大半である。彼女たちは、目の前にある白くて滑らかな塊を好奇と畏怖の入り混じった目で凝視した。
「このように、石鹸を水で濡らし、手で擦ると泡立ちます。この泡を使って、手全体を洗ってください。指の間、爪の中まで入念にお願いします」
「では、順番にやっていってください」
スラムの女性たちは見様見真似で石鹸を手に取り、水で泡立てては恐る恐る手を擦り合わせた。
「……おい!洗った手で服を触るな!」
ファルケンの一喝が飛ぶ。
ハマンの性格上強くは言えない。逆にファルケンは料理長だけあってこういう時には役に立つのだ。
だが、そんなファルケンもリアナに散々言われ続けている。宮廷料理長の威厳は、リアナの前では存在しない。
リアナが掲げる「食の安全と徹底した衛生管理」は、こうして文字通り、底辺からの叩き上げとして強制されていく。
さらに、調理台の脇には、この世界のエレクトロニクスや魔法すら凌駕しかねない「新しい衛生商品」が並べられていた。
それは、ゆずレモンの柑橘系の皮から抽出した成分と、「ビック」の粘液を掛け合わせて作られた、世界初の食器用洗剤である。
これから始まる大量調理のあと、汚れたまな板や鍋を綺麗に洗い上げるため、その試作品が静かにスタンバイしていた。リアナの脳内にある現代の常識は、このファンタジーの世界において、無慈悲なまでの清潔さと効率の革命を引き起こしつつあった。
2.丼物という合理的選択
衛生指導を終えた料理人たちが、次に女性たちを促したのは調理の基本工程――食材の洗浄であった。
今回のメニューの主軸となるのは、この世界でいずれは、主食となる予定の「ポロの実」である。
リアナが定めた当面の工房の昼食の方針は、一貫して「丼物」であった。
毎日、異なる献立を考える手間を省き、日替わりで五日間のローテーションを組む。これにより、調理手順が標準化され、配膳や片付けにかかる時間と手間を最小限に抑えることができる。さらに、食器の数自体を減らせるため、洗い物の負担も劇的に軽減されるという計算だった。
しかし、その中身については、リアナの冷徹かつ周到な健康管理の思想が反映されていた。
今後、スラムの労働者である「大人たち」に対しては、白米ではなく「玄米」の状態でポロの実の炊き出しを行う方針となっていた。
その理由は明確である。現状の生産力において、大量の白米を安定して供給し続けることは不可能に近い。だが、それ以上にリアナが重視したのは栄養面だった。精製されていない玄米には、ミネラルやビタミンなど、過酷な労働を耐え抜くために不可欠な様々な栄養素が豊富に含まれている。
一方で、玄米にはわずかながら毒素(アブシシン酸やフィチン酸など、消化器系への負担となる成分)が含まれていることも、リアナの知識にはインプットされていた。そのため、身体の成長段階にあり、消化器官が未発達な「子供たち」に対しては、これまで通り安全な白米を用いたおにぎりを提供するという厳格な差別化が図られていた。
料理人のハマンが、巨大な木桶の前に立ち、集まった女性たちに声を張り上げる。
「では、全員こちらに集まってください」
彼の指先には、二種類のポロの実が示されていた。
「見ての通り、この茶色のポロの実が『玄米』、そしてこちらの白いポロの実が『白米』です。品種は一緒ですが精製する過程が違います。洗い方も炊き方も全く異なるので、絶対に混同しないように気をつけてください」
女性たちは緊張した面持ちで、ハマンの手元を注視する。
「特に玄米に関しては、ただ洗えばいいというわけではなく。表面をサッと水で洗ったあと、毒素を抜き、芯まで柔らかくするために、最低でも半日は水に浸けておかなければ食べられません。……まずは、今日の夜に向けた分の玄米の準備から始めます!」
料理人たちの指示に従い、スラムの女性たちは恐る恐る水桶に手を伸ばす。
効率化されたメニュー構成、徹底された衛生観念、そして栄養価まで計算された食の管理――リアナの引いたレールの上で、労働者たちの胃袋を支えるための泥臭くも精緻な厨房の歯車が、音を立てて回り始めた。
「ちなみに、玄米の仕込みを忘れると夜の炊き出しは出来ないので、そこは絶対に忘れないでください」
ハマンの厳格な声が、広い調理場に響き渡る。
大人用の玄米は、前日のうちにリアナ自身が伯爵家の厨房で直接レクチャーし、仕込みの工程が徹底されていた。朝に仕込んで夜の炊き出しへ、夜に仕込んで翌朝の炊き出しへ――このローテーションを崩すことは許されない。もし水に浸す時間を怠れば、玄米は硬いまま残り、労働者たちの胃袋を支える食事計画は一瞬で瓦解してしまうからだ。
「朝と夜、このルーティンを身体に染み込ませてください。いいですね?」
「は、はい……!」
女性たちは一斉に頷き、緊張を滲ませながらもメモを取るかのように真剣な眼差しを向ける。
3.白米の研ぎと、根菜の包丁さばき
仕込みの注意を終えると、次は子供用の白米へと工程が進む。
「次に、白米を洗います」
ハマンがボウルを掲げ、手本を見せた。
「木桶に白米を入れ、最初は素早く研いですぐに水を捨てます。この時、米を一緒に流してしまわないように気をつけてください。あとは綺麗な水を入れ、優しく混ぜ合わせながら二回ほど洗い、土鍋に移します。そのあと、少し白米に水を含ませるために休ませておきます」
白米の扱いを一通り教え終えると、今度はもう一人の料理人・コルンが前に出た。本日の汁物である「野菜たっぷりの豚汁」の調理指導である。
「ここからは野菜の洗い方と切り方です。指示通りの大きさに揃えてください」
料理教室を兼ねた炊き出しとはいえ、参加しているスラムの女性たちは、日頃から細々と自活や家庭の食事を経験してきた者たちばかりだ。最初は令嬢の配下である料理人たちを前にして酷く緊張していたが、包丁を握り、野菜を目の前にすると、自然と長年培った手つきが蘇っていく。
大鍋に水と特製の天響茸の出汁が張られ、まずは火の通りにくいジャガイモと人参が投入される。
グツグツと心地よい音を立てて水面が揺れ、根菜特有の甘い香りが調理場いっぱいに広がっていく。
ジャガイモが十分に柔らかくなったタイミングを見計らい、残りの食材が次々と放り込まれ、一煮立ちさせられる。最後に芳醇な味噌が溶かし込まれると、力強い香りが、女性たちの緊張を少しずつ和らげていった。
(自分たちの手で、これだけの食事を作っている……)
スラムの住人として、日々の飢えや不衛生な泥水に怯えていた彼女たちが、今やリアナの敷いた合理的かつ衛生的なシステムの中心で、温かな昼食を形作っている。それは単なる労働の始まりではなく、彼女たちが「領民」として社会に組み込まれ、生きるための自立を掴み取るための確かな第一歩であった。




