女性の圧力と、エマの憂鬱
1.商会主の覚悟
スラムでの説明を終えたリアナは、休む間もなく馬車を走らせ、ゼノの商会へと向かった。先触れを受けていたゼノは、すでに商会の玄関で恭しく礼をして待機していた。
「ゼノ、悪いわね」
「いえ、問題ありません」
ゼノ商会の応接室へとやって来たリアナは、すぐにスラムの再開発を説明する。
「今のスラムがある場所に、石鹸工房と住居を建設してちょうだい」
リアナは畳み掛けるように指示を出す。
「建設の雑用については、スラムの男手を使うわ。彼らに労働の対価として支払う給金は伯爵家が負担する。ゼノ、貴方はあくまで監督役として、専門の職人と資材の手配に集中しなさい」
ゼノは複雑な顔で眉をひそめた。
「承知いたしました。……ただ、現在進めている砂糖工房の建設と新たな住居の建築で、私の抱える職人はすでに限界まで稼働しております。これ以上の人手を確保するのは、容易ではありません」
リアナは扇を閉じ、冷たくも慈愛に満ちた(ように見える)笑みを浮かべた。
「なら、他領から職人を呼び寄せるしかないわね」
「……よろしいのですか? 領地外から人を招くとなれば、相応の費用と警護が必要になりますが」
「構わないわ。但し、身分がしっかりしていることが条件よ。一番楽で安心なのは、今使っている職人たちの伝手を頼ることね」
それは、リアナがいつも鍛冶職人のバロンに対して行っている「理不尽な要求」を、今度はゼノにも実行せよという命だった。バロンはリアナの無茶振りに文句を言いながらも、結局は最高の成果を持ってくる。リアナはゼノにも、その「限界突破」の精神を求めていた。
「ゼノ、貴方も分かっているでしょう? 私が欲しいのは『今のままでできること』ではなく、『今の限界を超えて作り出される利益』よ」
ゼノは深々と頭を下げた。リアナのその強引なまでの支配力と計画性が、結果として領地を急速に塗り替えていくことを、彼は肌で理解していたからだ。
「……承知いたしました。親方のサンチェスさんの伝手を辿り、早急に職人を手配出来ないか確認を取ります」
「ええ、頼んだわよ。こっちでもお父様に聞いてみるわ、石鹸工房は私の悲願への最優先事項よ」
「心得ております」
それだけを言い残すとリアナは午後の講義の為、足早に伯爵家へと戻って行った。
冷ややかな威圧感を残して去るリアナの背中を見送りながら、ゼノは商会の書類に山積みの注文を書き加えた。リアナという少女に目を付けられた以上、商会の平和な日常は遠い過去の物となったことを、彼は痛いほど悟っていた。
2.次なる一手
その日の午後、リアナの講義に華を添えるように、優雅に髪をなびかせたジョアンナ侯爵夫人が伯爵家を訪れた。
玄関先で母エルザとリアナ、そして執事のセバスが出迎える。ジョアンナは挨拶もそこそこに、重厚な書状をエルザへと差し出した。デュラン公爵家と、グレイハルト侯爵家からの連名である。
「あらあら、セバス。これを渡しておいてちょうだい」
エルザが涼やかに命じると、セバスは恭しく書状を受け取り、主であるエリオンが待つ執務室へと足早に向かった。
リアナは書状の内容を推察しながらも、まずは目の前のジョアンナ夫人の状態を確認した。
「ジョアンナ夫人、その後、皮膚に異常などは出ておりませんでしょうか?」
リアナの問いかけに、ジョアンナは心からの笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、全くありませんわ。母もあのお品をとても喜んでおりました。それで、リアナ嬢……あのお品、いつ正式に発売されるのでしょうか?」
リアナは困ったように眉を寄せ、あらかじめ用意していた台詞を口にする。
「それが……まだ決まっておりません。工房の場所と人員は確保したのですが、肝心の工房を建てる職人が不足しておりまして。どこかに、腕のいい職人がいれば良いのですけれど……」
それは、あからさまでありながらも、ジョアンナの母心と社交界の欲求を突き動かすための、「撒き餌」のような言葉であった。
「それなら、グレイハルト侯爵家が職人を手配いたしましょうか?」
ジョアンナの即答に、リアナは少しだけ芝居がかった迷いを見せた。
「それは、有難い申し出ですが……お父様がなんと言うか……」
「心配いりませんわ。先ほどお渡しした書状にも、その旨をしっかりと明記してございますから」
実は、当初デュラン公爵家とグレイハルト侯爵家は、伯爵家の後ろ盾となる見返りとして、売り上げの数パーセントを配分する契約を予定していた。しかし、領地経営に決して口を出さないジョアンナとその母マルサがトリートメントの虜となり、「優先販売権」を執拗に主張した結果、公爵と侯爵の両名も折れざるを得なかったのである。
書状には、後ろ盾としての権利を保持しつつも、製造される製品をデュラン公爵家とグレイハルト侯爵家に優先的に卸すという、リアナにとって極めて好条件な取引が記されていた。
リアナは心の中でほくそ笑む。トリートメント一つで、巨大権力から職人、そして確実な販路までを手に入れたのだ。彼女にとって、社交界は単なるお茶会の場ではない。領地を豊かにするための、最高に効率の良い市場であった。
3.ラウルの疾走
リアナは伯爵家へ戻るや否や、騎士のラウルに一つの荷物を託した。それは、彼女が密かに進めていた「石鹸とトリートメントのセット」である。
「今日はもう出歩かないから、ラウル、悪いけれどこれをミリアの工房へ届けてくれるかしら」
「畏まりました」
ラウルは短く応えると、馬を駆って夕闇の迫る道を走り出した。往復四時間の道のりだが、リアナの命とあれば迷いはない。二時間後、ミリアの工房へ到着したラウルは、門を叩き、リアナの伝言を忠実に守って荷物を手渡した。
「こちらは先日お話しした試作品になります。使い方はミリア嬢ならご存じと伺っておりますので」
ラウルはそれだけ言い残すと、休息も取らずにすぐさま伯爵家への帰路についた。
ラウルが去った後、ミリアの工房ではエマが怪訝な顔で木箱を覗き込んでいた。
「リアナ様からの荷物ね。……多分、石鹸だと思うけれど」
「もう完成したの? ちょっと見てみましょう」
ミリアが封を開けると、中から現れたのは見たこともないほど洗練された製品の数々だった。
その中の一つの木箱を開けるとゆずレモンの爽やかな香りが、埃っぽい工房を一瞬にして華やかな空間へと塗り替える。
「何これ、凄く良い香り! 本当に石鹸なの?」
驚くエマをよそに、ミリアは次々とラベルを確認する。そこには、この世界の言葉ではない文字が躍っていた。
「シャンプー……トリートメント……ハンドクリームに香水まで」
「石鹸がどうしてここまで進化するの?」
エマの困惑を横目に、ミリアは待ちきれない様子で水を張った桶を用意した。石鹸を軽く濡らして手で擦り合わせると、瞬く間に真っ白な泡が沸き上がった。
「ええっ!? 何これ、本当に石鹸?」
信じられないという表情のエマに対し、ミリアは夢見るような瞳で、懐かしそうに目を細めた。手から溢れる大量の泡と、工房を包み込むゆずレモンの香りが、かつて彼女が知っていた世界を鮮明に呼び覚ます。
この世界で流通している硬く、汚れも落ちにくい石鹸とは根本から違う。
「ええ、石鹸よ……。やっと……やっと本当の石鹸に会えたわ」
ミリアの声は震えていた。リアナという支配者が生み出した「異世界の技術」は、この地の常識を覆すだけでなく、ミリアの心の奥底にあった記憶の欠片を優しく洗い流していった。
リアナの計画は、ただ領地を豊かにするだけではない。人々の心を、懐かしさと驚きで満たし、彼女という存在をより一層不可欠なものへと変えていく。
ミリアの手の中で消えていく泡は、やがてこの領地を席巻する新しい時代の前触れでもあった。
4.鼻をくすぐる贅沢な芳香
石鹸を皮切りにミリアの手によって、次々と瓶の封が切られていく。そのたびに、工房の中の空気が塗り替えられていくようだった。
「こっちはローズね。うん、バラの良い香り」
ミリアがうっとりとした表情で差し出した瓶を、エマがおずおずと嗅いだ。バラの華やかで上品な香りが鼻腔をくすぐり、エマは思わず目を見開いて呆然と立ち尽くした。
「えっ……何これ、すごい……。今まで嗅いだことのある花の匂いとは全然違う!」
エマの驚きをよそに、ミリアはさらに別の陶器の瓶を手に取る。
「こっちは、ジャスミンね」
立て続けにジャスミンのエキゾチックで甘美な香りが漂い、エマは慌てて次の瓶へと手を伸ばす。
「えっ、えーーー! また違う匂いなんだけど……! 一体どういうことよ、これ! このまま商品化されたら、とんでもない価値になるわ……私たち、これってロイヤリティを貰えるのかしら?」
エマの切実かつ強欲な問いかけに、ミリアは少し考え込んでから首を横に振った。
「ん? 無理じゃないかな。石鹸のレシピに関する契約だけだもの。このトリートメントや香水は、別枠よ」
(まあ、私が教えたんだけど……教えた以上の物が届くなんてね)
「そ、そうだけど……! 何で石鹸を作るレシピからここまで技術が飛躍するのよ……。石鹸を作るための知識と、こんな複雑な香水やクリームを作る知識は、根本から違うはずじゃ……」
エマは納得がいかない様子で、テーブルに並べられた美しい瓶たちを見つめた。彼女にとって、このラインナップは「技術の進化」というレベルを遥かに超えた、まるで魔法のように思えた。
ミリアはリアナの顔を思い浮かべる。あの冷徹で合理的、かつどこか浮世離れした少女が、この素晴らしい製品を生み出したのだ。
実際には、リアナではなくユーグが作り出したのだがミリアたちはユーグの存在を知らない。
「エマ、落ち着いて。リアナ様にとっては、石鹸もトリートメントも、全部『生産品』の一つに過ぎないのよ。私たちはその一部分を教えただけよ……」
そう言いつつも、ミリアの心には隠しきれない高揚感があった。目の前にあるのは、かつての記憶と同じ匂い、そしてこの世界には存在しなかったはずの「豊かさの欠片」だ。
「いい? エマ。これはただの石鹸の延長じゃないわ。リアナという人間が作る、新しい生活の形なのよ」
工房の片隅で、香水のほのかな香りが夜の闇に溶け込んでいく。リアナが送り込んできたのは、単なる商品ではなく、領地の未来そのものだった。エマは呆然としながらも、これらの製品が市場に出回ったとき、一体どれほどの人間が、この製品の虜になるのかを想像し、背筋が寒くなるような高揚を覚えずにはいられなかった。
後日、実際に入浴で使ったエマは、自分の肌と髪の潤いが明らかに違う事に歓喜したと同時に落胆した。
「これはもう手放せないんだけど!どうすればいいのよ!」
販売に対するロイヤリティの契約はしたが、販路の契約はしていない為に今度はいつ入手出来るかも分からない事に落胆したのだ。




