伯爵の困惑と、冷徹なる通達
1.父への報告
父エリオンの執務室の重厚な扉を開け、リアナは平然と足を踏み入れた。そこには、相変わらず書類の山と格闘する伯爵の姿がある。
「お父様、スラムの住人の移住計画と、跡地の利用についての説明に参りました」
リアナは前置きもそこそこに、本題を切り出した。
「住人の半分程度を砂糖工房での雇用の為、移住させます。残りの住人は石鹸や香料の原材料栽培、および工房での生産業務に従事させます」
それを聞いたエリオンは、ペンを放り出し、椅子から勢いよく立ち上がった。
「まてまて! 何故、石鹸なのだ! 石鹸の生産など、まだ許可した覚えはないぞ!」
リアナは扇で口元を覆い、呆れたように小さく息を吐いた。
「あら、まだ諦めていなかったのですか? デュラン公爵家とグレイハルト侯爵家からは必ず販売の依頼が来ますわよ。お父様は、お断りになられますの?」
「そ、それは……」
言葉を詰まらせるエリオンにリアナが追い打ちをかける。
「両家に知られた以上は、先手を打って生産体制を整えるべきです!」
エリオンは、後に引けないことは重々理解しているが、娘にハメられたことが納得いかないのだ。
だからといって娘を責めたところで、何も変わらないことも理解している。
「クソ!わがままを許すのも、今回だけだからな!」
「ええ、心に刻んでおきますわ」
後ろで聞いていたエリーは思った、「すぐに消せるだろうな」と……
2.泥にまみれた忠誠心への嫌悪
翌日、リアナは再びスラムを訪れていた。リアナが広場の中央へと足を進めると、昨日とは比較にならないほどの速さで、住人たちは次々と地面に這いつくばった。泥や汚水が混じる地面に額を擦りつけ、彼らは必死に自らの帰属をアピールする。
しかし、その光景を冷ややかな瞳で見下ろしていたリアナは、露骨に眉をひそめた。
「うーん……衛生的に悪いわね。全員、立ちなさい!」
そのあまりに淡々とした、しかし有無を言わせぬ命令に、住人たちは困惑して周囲を見渡した。これまで自分たちを支配していたのは「恐怖」であり、跪くことは身を守るための唯一の防衛本能だったからだ。
「これからは平伏ではなく、立礼をしなさい。背筋を伸ばして、相手の目を見て敬意を払う。それが私の領地での最低限の作法よ」
「え……しかし、それは……」
住人たちにとって、それはあまりに高尚で、自分たちには過ぎたことのように思えた。躊躇する彼らの態度に、リアナは心底うんざりした表情を浮かべる。
「はっきり言って迷惑なのよ! 私の領地でいつまでも土を食べているような真似をされては、こちらの品位に関わるわ。分かったわね!」
その圧倒的な圧に、住人たちは一斉に肩を震わせ、慌てて立ち上がった。泥を払い、おずおずと背筋を伸ばすその姿は、昨日までの「家畜のような群れ」から、わずかながら「人間としての尊厳」を取り戻しつつあるように見えた。
3.人として
「これから貴方たちの居住について説明するからよく聞いてちょうだい」
リアナは扇を閉じ、広場に集まった者たちを見下ろした。
「まず、移住するのは五十二世帯。残りの六十世帯は、ここに残ってもらうことになるから」
その言葉が告げられた瞬間、住人たちの間に広がる空気は一気に沈んだ。「やっぱりか……」と、誰からともなく漏れる溜息。特に長年この地に根を張り、老骨に鞭打って生きてきた高齢者たちの肩の落としようは、計り知れなかった。追放される恐怖、あるいは引き裂かれる生活への不安が、彼らの表情を歪める。
リアナはそんな彼らの落胆を、まるで退屈な芝居でも見るかのような冷ややかな視線で見つめていた。
「あら、勘違いしてるみたいだけど。ここに残っても移住しても、待遇は変わらないわよ」
その一言で、広場の空気がピタリと止まる。
「このスラムには、新しく住居と工房が建つわ。そこで働いてもらう人と、移住先で働いてもらう人を分けるだけよ。場所が違うだけで、やることは変わらないわ」
リアナは扇の先で、広場の端から端をなぞるように指示した。
「高齢の方は、基本的にはここへ残ってもらうわ。工房で使うための植物を育てる農園で働いてもらう予定よ。無理に環境を変えて、体調を崩されても迷惑なのよね」
そこまで告げたあと、リアナは一つだけ付け加えるように口元を緩めた。
「ただ、どうしても家族と移住したいというのなら、連れて行ってもらっても問題はないわ。自分の人生、自分の責任で決めなさい」
その言葉は、絶望の淵にいた住人たちにとって、思いがけない「選択の余地」だった。リアナは冷徹に言い放ちながらも、個々の家族構成や体力までを計算に入れていた。
「何か質問のある人はいるかしら?」
リアナが扇を閉じ、広場を見渡す。その眼差しは鋭く、誰もが息を呑んで硬直するほどの威圧感を放っていた。スラムの住民たちにとって、領主令嬢である彼女に直接話しかけるなど、死を覚悟するに等しい行為である。
しかし、その場には一人だけ、リアナの配下の騎士から「この質問をするように」とあらかじめ指示を受けていた老人のトムがいた。トムは震える足で一歩前に出ると、周囲の住人たちが恐怖に凍りつく中、勇気を奮い起こして手を挙げた。
「あ、あの……」
その光景に、広場にいた住人たちの顔から血の気が引く。令嬢に無作法を働いたとみなされれば、何をされるか分からない。しかし、リアナは咎めることもなく、穏やかですらある冷淡さで視線を向けた。
「何かしら?」
「我々、老人が残った場合、仕事は何をやるんでしょうか……」
トムが絞り出した問いに対し、リアナは迷うことなく明確な答えを返す。
「男の人は、農園で雑草を抜いたり水をあげたり、あとは、育った植物を採取してもらうわ。女性の方は、昼食作りがメインになるわね。」
「昼食作りは、年齢を問わず女性にやってもらうわ。それは、何処に行こうが、一緒よ。その地で、働く人の全員分の料理を作ってもらう予定よ。それに、子供を見てもらう人も必要よね」
リアナは指を折りながら、淡々と老人たちの役回りを告げる。
「他の男性については基本、工房での作業になるわね。……ただ、給金が変わることは現状はないわ」
その説明に、どこからともなく住人の一人が呟いた。
「何処に行っても一緒なのか……」
リアナはその声を聞き逃さず、冷ややかな微笑みを浮かべた。
「ええ、そうよ。あとはここに残りたいか、新しい場所で生活を始めたいかの違いだけよ。それは人それぞれ希望があるでしょうから、自分で決めなさい。但し、移住の世帯数は決まっているから、上限に達した時点で締めるわよ」
冷酷なまでに合理的で、しかし住人たちに「選択」という名の未来を突きつけるリアナのやり方。広場の人々は、彼女が提示した「平等な労働」という現実を受け入れるしかなかった。希望と不安が入り混じる中、彼らはようやく、自分たちの生活が「領主の裁配」という名の秩序の中に組み込まれたことを理解し始めたのである。
4.割れる群衆
「今日から仕事を与えるわ。但し、給金が発生することはないわ」
リアナの冷徹な宣告に、広場に集まったスラムの住人たちの間に不安気なざわめきが広がった。無給の労働。かつてのカロルによる搾取の記憶が、彼らの脳裏を一瞬よぎる。
しかし、リアナが怯むことなく群衆の方へと歩みを進めると、彼女の放つ圧倒的な威圧感と気品に耐えきれず、人々はまるでモーセの海割りのように、慌てて二手に分かれて道を空けた。
群衆の中央を悠然と通り抜けたリアナは、くるりと振り返り、スッと右手を高く挙げた。
「今、私の手が挙がっている側に居る女性は『昼食担当』。そして反対側に居る女性は『晩食担当』になるから、自分の担当をしっかりと覚えておきなさい」
突然の指名に困惑する女性たちをよそに、リアナは矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「これからの炊き出しは、貴方たち自身に作ってもらうわ。食材と指導役の料理人はこちらで用意するから、その者の指示に絶対に従って調理をするように。……分かったわね!」
「あ、はい……!」
女性たちが恐る恐る頷くのを確認すると、リアナは次に、鋭い視線を男性陣へと向けた。
「それから! 母親が調理で居ない間、子どもたちの面倒は男性が見なさい! 誰一人として、無為に遊ばせておく気はないわよ」
リアナの口調は厳しかったが、その内心は極めて現実的な計算に基づいていた。
(伯爵家の厨房のキャパで、さすがに炊き出しをずっとは出来ないのよね……)
これ以上、自邸の料理人たちにスラム全域の炊き出しを負担させるのは物理的に困難だった。そこでリアナが導き出した答えが、スラムの女性たちを労働力として活用することである。
食材は伯爵家が用意するのだから給金が出ないのも当然である。さらに彼女たちに衛生観念と正しい料理の技術を叩き込むための「調理実習」を兼ねている。
やがて工房の昼食を作る仕事を任せる為の予行練習を行う事も、スラムの住民たちに「自立」を促すための、リアナなりの徹底した合理主義の表れであった。




