想定外の熱狂と、領民の選別
1.麗しき分配
帰路に就く馬車の中、窓の外を流れる風景を眺めながら、リアナは今日という一日を振り返り、実に満足げに呟いた。
「楽しかったわね」
その言葉に、同乗していたエリーは複雑な表情で視線を落とした。先ほどスラムでリアナが見せた、あまりに冷徹でいて、かつ人を惹きつけるカリスマ性を思い出していたからだ。
「リアナ様、本当に良かったのですか? あのような突き放し方で」
「ん? 何のこと?」
「あの場の住人たちは、リアナ様に完全に圧倒されていました。あの状況で『移住しろ』と命じれば、全員が従ったはずです。なぜあえて、彼ら自身に選択させたのですか?」
リアナは扇を指先で優雅に弄びながら、肩をすくめた。
「そこはどうでもいいわね。他人に決められる人生なんて、何が面白いの? 私は自分の領地を豊かにしたいのであって、意志のない人形を集めたいわけじゃないもの」
彼女の瞳には、慈悲などという曖昧な感情は存在しない。そこにあるのは、効率と有用性という冷酷な指針だ。
「他人に決められる人生は、苦労さえ気にしなければ楽なのよね。でも、その『楽』を覚えてしまった人間なんて、結局はすぐに誰かの傘下に入って怠惰に溺れるだけよ。私には不要だわ」
エリーはリアナの言葉の深淵に触れた気がして、思わず身震いした。
「そんなものなんですかね」
「そんなもんよ。……それからエリー、石鹸とゆずレモンの保護剤のセット、侍女たちで使っていいわよ」
エリーの顔色が、一瞬にして喜びで明るく染まった。
「本当ですか! 本当に本当ですか!」
「ええ、構わないわ。精一杯働いてくれる侍女たちには、それなりの華やかさが必要だもの」
リアナは扇を閉じ、満足そうに微笑む。
「バラとジャスミンの方は、約束していた通りにミリアに渡すわ」
「ありがとうございます! 皆、きっと喜びます!」
エリーが感極まって頭を下げるのを横目に、リアナは再び窓の外へと視線を移した。スラムの住人たちが明日、どの道を選ぶのか。彼女にとっては、どちらに転んでも「領地の最適化」に過ぎない。
馬車の揺れに身を任せながら、リアナは静かに目を閉じた。粛清は終わった。次なる「娯楽」と「改革」の準備を、彼女はすでに脳内で開始していた。
伯爵家へと続く道すがら、後方から蹄の音が激しく響いてきた。それはロバートが駆る馬車であった。本来、貴族の馬車を追い抜くことは無礼極まりない行為であるが、ロバートの表情は焦燥に満ちていた。
すれ違いざま、ラウルが馬の手綱を操りながら問いかける。
「何かあったのか?」
ロバートは短く頷き、声を張り上げた。
「ああ、炊き出しが圧倒的に足りなくなった!」
ラウルが僅かに目を見開く。スラムの住民たちの選択が始まったことを意味していた。
「そうか、リアナ様には言っておく」
「助かる!」
ロバートはリアナの馬車を追い抜く際に丁寧な一礼を捧げ、そのまま速度を緩めることなく走り去っていった。その必死な背中を見送り、ラウルは馬を馬車に並走させてリアナに報告を投げかけた。
「リアナ様、先ほどのロバートからの報告によれば、炊き出しの量が足りなくなったとのことです」
リアナは窓から外の景色を眺めていたが、報告を聞いても動揺する様子はなかった。彼女にとって、これはある意味で予想通りの「結果」であった。
「そう、分かったわ」
ロバートが貴族の馬車を追い抜くという不敬を働いたことについても、リアナは咎めるどころか、特に気にも留めていないようだった。彼女が求めているのは、形式的な礼儀よりも、目の前の問題に対する迅速な解決である。
(住民たちがこれほどまでに炊き出しに殺到する……。カロルという支配者を失った途端、空腹という本能が解放されたのね)
リアナは微かな笑みを浮かべる。住民たちが「自分で決める」ことを選んだ結果、今日という日を生き抜くために、より強く食を求めたのだ。
「エリー、厨房に連絡を入れておきなさい。予備の食材を全てスラムの料理に回すように」
「はい、すぐにお手配いたします」
リアナは扇で口元を隠し、満足げに呟く。
「食えるものがあるという安心感……それは人間を従順にする最も強力な鎖よ。これから彼らは、その鎖を自分から求めてくるわ」
スラムの住人たちが「自由」を選択した代償は、今後、リアナという領主に対する「絶対的な依存」となって返ってくる。彼女は着々と、スラムという場所を自分の強固な領地の一部へと変貌させていく。
馬車は、伯爵家の門へと滑り込んでいく。今日は掃除が一段落したが、彼女の領地経営における野望は、まだ始まったばかりであった。
2.選別の始まり
伯爵家に戻ったリアナが様子を確認しようと厨房へ向かうと、そこはすでに戦場と化していた。いつもの整然とした調理場とは違い、従業員たちが限界を超えた速度で手を動かしている。
「すぐにポロの実を炊け!」
「ロックバードの肉をくれ!」
野菜を切る者、肉を捌く者、大鍋をかき混ぜる者。誰に指図されるでもなく、全員が極限の連係プレイで作業をこなしていた。そこに漂うのは、休息を許さないほどの凄まじい熱気である。
入り口に立つリアナに気づいたアロイスが、焦った様子で声をかけた。
「あ、リアナ様! ……」
「私に構ってる暇があるなら作業を続けなさい」
「あ、はいっ!」
リアナは表情一つ変えず、厨房の活気を見つめる。ここが自分の領地の心臓部なのだと、彼女は誇らしく感じていた。
そんな混乱の中、ロバートがリアナの姿を見つけ、慌ただしく駆け寄ってきた。
「リアナ様、先程は……失礼をいたしました」
ロバートは深く頭を下げる。先ほど馬車を追い抜いたことへの謝罪だろう。だがリアナにとって、貴族の馬車を追い抜くか否かなど、些細な形式論に過ぎない。
「気にしなくていいわよ。優先すべきことを優先しただけでしょ」
リアナにとっての最優先事項は、貴族としての体面を守ることではない。スラムの住民という「領地の資産」をどう動かすか、ただそれだけであった。
「で? 何人が移住希望なの?」
リアナが淡々と問うと、ロバートは緊張を滲ませて答えた。
「はっ! 全員です。総勢三百四十二名です」
「そう。……で、世帯数は?」
「あ、はい。百十二世帯になります」
「大人は何人かしら」
「二百三十七人になります」
リアナは少しの間、思考を巡らせる。
「ふーん……。六十世帯残して、残りは移住してもらいましょう」
リアナの言葉に、ロバートは息を飲んだ。
「え? 全員ではないのですか?」
「ええ、他にやってもらうことがあるのよ」
リアナの頭の中には、すでに次の計画が組み上がっていた。スラムの跡地には、衛生的かつ効率的な石鹸工房や加工場を建築する。そして、ユーグの工房の近くには、石鹸や香水の原料となる植物を栽培する広大な農園を作る。
百十二世帯全員を移住させるのでなく、スラムの跡地に残す者には「石鹸の工房と農園」に携わってもらい、移住する者には「砂糖や油の工房」に携わってもらう事で、領地経済の循環に組み込むつもりなのだ。
リアナは窓から見える、これから変貌を遂げるはずの領地を見つめた。
ただの救済ではない。これは、彼女という支配者のもとで、領地全体を巨大な一つの工場へと作り変えるための、冷徹で緻密な選別であった。
3.領地の地図を塗り替える
リアナは、キッチンの喧騒を背に、まるで盤上の駒を動かすかのように滔々と構想を語り始めた。
「砂糖、油、ゆずレモンの工房で働く人、ユーグの石鹸の原料となる植物を育てる人、そして石鹸などの製造工房で働く人。この三つに分類して配置する予定よ。特に石鹸工房は、あの汚れたスラムの跡地を更地にして、一から作り直すわ」
彼女が語る計画は、単なる復興の域を遥かに超えていた。それは領地そのものを一つの巨大な生産拠点へと変貌させる、壮大な産業革命の青写真だった。
隣で話を聞いていたロバートは、あまりの規模の大きさに言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしている。
リアナが石鹸の工房を伯爵家がある街に置くことの意味を理解していた。情報の搾取、あるいは野盗を装った襲撃の警戒の為、手元に置いておく。
「エリー、ゼノにスラムの跡地の活用法を伝えてちょうだい」
「……はい、承知いたしました。どのような内容でしょうか?」
「工房の建設と、そこで働く者たちのための住居建設を同時に行ってもらうわ」
エリーは即座に手帳を取り出し、メモを取ろうとしたが、ふと我に返り、心配げな声を漏らした。
「リアナ様……今、そんな過密スケジュールを突きつけたら、ゼノさん死んでしまいますよ……」
その懸念に対し、リアナは全く動じる様子もなく、扇で口元を隠してクスクスと笑った。
「死なないわよ。ゼノは自分で壁を塗ったり、木を削ったりするわけじゃないもの。彼はあくまで、腕のいい職人たちを手配する窓口になるだけよ。彼に必要なのは筋肉じゃなくて、交渉術と根気だわ」
リアナにとって、ゼノは「動くための要石」に過ぎない。彼にどれだけの負荷がかかろうと、それが領地の発展という目的に資するならば、使い倒すことになんら躊躇はない。
「ロバート。今の話、理解できたかしら? 移住させる者たちには、それぞれの適性に合わせた職を与えるわ。何もせず食わされるだけの『飼い犬』ではなく、自分の手で利益を生み出す『生産者』として育て上げる。それが、私の領地の在り方よ」
ロバートは、リアナの瞳の奥にある計算し尽くされた冷徹さを目の当たりにし、背筋が凍るような思いをした。
「……理解しました」
リアナは満足げに頷くと、踵を返してエリオンの居る執務室へと向かった。彼女の歩く先には、これから自分の手によって形作られる理想郷が広がっている。スラムの跡地が、やがては領地の利益を稼ぎ出す黄金の工房へと変わる日を想像し、リアナは上機嫌で鼻歌を口ずさむ。




