欺瞞の罠、深淵へ誘う餌
1. 朝の騒乱と冷静な目覚め
早朝の静寂を打ち破るかのような喧騒に、リアナの意識はゆっくりと浮上した。寝室の窓越しに聞こえるのは、伯爵家で働く者たちの驚愕と熱狂の入り混じったざわめき。
「……うるさいわね」
低く、不機嫌な独り言をこぼした直後、寝室の扉が勢いよく開け放たれた。
「リアナ様! 大変です!」
エリーの取り乱した姿に、リアナは眉をひそめ、冷ややかな視線を向けた。
「エリー、扉は静かに開けるよう教えたはずよ」
「そんな場合ではありません! 外を見てください!」
エリーは駆け寄るや否や、遮光用のカーテンを力任せに引き裂くように開き、窓を全開にした。朝の澄んだ空気と共に、清々しい風が吹き込んでくる。
「うーん……心地よい香りね。ポチ、おはよう」
リアナが窓の外へと視線を向けると、庭の象徴である「ポチ」が、枝をゆったりと揺らして朝の挨拶に応えた。
「で? 一体、何がそんなに大変なの?」
リアナは寝間着のまま、優雅に身を乗り出した。大勢の人が集まっている気配を感じるが、彼女はそれを遮断し、エリーに詰問する。
「ポチの幹の根元に……大量の金貨と装飾品などが、山のように置かれているのです!」
リアナは小さく首を傾げた。伯爵家で、領主の許可なく金品を放置するような不心得者は存在しない。
「ポチがどこからか盗んできたというわけではないのでしょう?」
「いえ……植物であるポチにそんな芸当ができるはずもなく。全く、何が起きているのか分かりません!」
「とりあえず着替えが先よ!」
「あ……すぐにお着替えを用意します」
リアナはエリーに手伝ってもらいながら手早く着替えを済ませると、窓の外へと視線を向けた。確かに、ポチの太い幹の根元には、朝日を受けてきらきらと輝く金貨や宝飾品が山積みになっている。
リアナはポチの方へ目をやった。ポチは相変わらずゆったりと枝を揺らしているだけだ。
「ポチ、あなた何かしたの?」
枝がさわさわと揺れる。
「……よく分からないけれど、否定はしないのね」
ため息をひとつついてから、リアナは部屋を出ようと立ち上がった。
「エリー、行くわよ」
リアナは部屋を出てポチのある裏庭へと向かった。リアナが到着するとエリオンが険しい顔でリアナを問い詰める。
「リアナ、一体どういう事だ?」
「全く分かりませんわ、お父様。今朝、エリーから報告を受けて驚いているところです」
リアナは無辜の表情で答える。だが、彼女の視線は、枝の間で何かを察したように蠢く「ジュニア」に注がれていた。
「ジュニア、これはどういう事かしら」
ジュニアはリアナの問いかけに、枝を激しく揺らし金品を勢い良く掘ると、そこには横たわる一人の男が居た。
「……何だと?」
その顔を見た騎士の一人が、息を呑んでエリオンに駆け寄り、何事かを耳打ちする。エリオンの表情が、驚愕から深い怒りへと変わった。
「裏ギルドの人間か……おい、事情を聴くため叩き起こせ」
騎士の一人が男の胸ぐらを掴み、激しく揺さぶる。
「おい! 起きろ! 何があった!」
男は悲鳴と共に飛び起きた。しかし、その顔は見るも無残だった。強酸の粘液を浴びたのか、両目の皮膚がただれ、瞼が癒着して光を遮断していた。
「こ、ここは何処だ! クソ……何も見えねー! 誰だ、そこにいるのは!」
男は狂ったように腕を振り回した。騎士がその腕を制圧しようと近づくと、男はさらに取り乱し、何かに怯えるように絶叫した。
「来るな! 寄るなッ! ……またあの影が、あの魔物どもが来るぞ! 助けてくれッ!」
「魔物……?」
エリオンは忌々しげに男を見下ろした。裏ギルドの構成員が、これほどまでに脆く崩れ去るとは。男の語る「魔物」が何を指すのか、エリオンと騎士たちは察した。
「連行して全て吐かせろ。裏で誰が糸を引いているのか、洗いざらいだ!」
「はっ!」
騎士たちに引きずられていく男の悲鳴が、伯爵家に響き渡る。男の顔は恐怖に歪み、二度と戻れない地獄の淵を覗いた者の形相をしていた。
リアナは、連れて行かれる男をただ見つめるだけだったが、エリオンはリアナを見て溜息をついた。魔物で思い浮かぶのが、リアナが名前をつけたと報告のあった魔物たち。
「また、リアナ絡みか……」
エリオンの呟きはポチの枝葉に吸い込まれ、誰の耳にも届かなかった。
2.露見した悪意
リアナが厨房で、いつものように食材の確認していた時のことだった。報告書を携えたラウルが駆け込んできた。
「リアナ様、先ほど捕らえた裏ギルドの男がすべてを自供しました。カロルが裏ギルドに対し、貴女の誘拐を依頼していたようです」
リアナは卵を割り、ボウルで軽やかに混ぜながら、平然と問い返す。
「あら、そうなの。……それで、いつ誘拐するつもりだったのかしら?」
「本日……貴女様が午前の日課のために伯爵家を出た直後に犯行に及ぶ手筈だったようです」
誘拐という極めて暴力的な手段。しかし、リアナにとってそれは、むしろ好都合な「好機」であった。カロルが誘拐というカードを切ったということは、彼がそれだけ焦っており、一発逆転を狙っているという証左に他ならない。
「私を誘拐して、その隙にスラムで何かを行うつもりだったのね」
「恐らくは……炊き出しの拠点を潰し、住民を再び自分たちの支配下に置くのが狙いでしょう」
リアナはクスクスと笑い、混ぜ終わった卵液をフライパンに流し込んだ。その眼差しには、慈悲の欠片もない。
「うーん……膿を出すにはちょうどいいわね。ねえ、ラウル。カロルに対して、『令嬢を無事に誘拐し、監禁した』と報告する様に手配してくれるかしら」
「裏ギルドの構成員だと言えば疑わないわよ。誘拐は、他者の知らない情報だからすぐに信じるわ」
「これで動いてくれれば、彼らは確信犯として自ら罠に飛び込んでくるわ。誘拐という犯罪の証拠を自ら突き出させるのよ」
リアナの計画は、情報を操作することで、カロルを完全な法的・道義的詰みへと追い込むことであった。誘拐という言葉を言った瞬間、カロルはスラムの全権限を剥奪される名分を与えることになる。
「炊き出しの現場には、アロンとロバートたちに代わって、他の騎士を二人派遣してちょうだい。誘拐の偽装が決して悟られないように、徹底的に『隙』を見せる演技をさせるの」
リアナは手際よく調理を終えると、温かい朝食を皿に盛り付けた。
「カロルは、私が消えたスラムで、最後の勝ち誇った笑いを浮かべるはずよ。……その笑みが、彼の人生で最後になることにも気づかずに」
ラウルは背筋が凍るようなリアナの冷徹さに、ただ深く頭を下げるしかなかった。カロルという小悪党が、リアナという怪物の影に踏み込んでしまったのだ。
キッチンに漂う焼きたての香ばしい匂いとは対照的に、スラムの運命は今、静かに、そして確実に終焉へと向かって加速していた。
「アロイス、悪いんだけど炊き出しが大量に必要になると思うわ。準備をお願い」
「畏まりました」
スラムの貧困と差別の歴史がリアナによって塗り替えられる。
3.わがまま令嬢の狂気的な奇策
ラウルとロバートの顔が、困惑で歪んでいた。リアナから提示された作戦は、あまりにも突飛で、「悪戯」と「粛清」を混同したかのようなものだったからだ。
「え? いや……あの……本当にやるのですか? 貴族として、あまりに前代未聞と言いますか……」
ラウルが引き攣った笑みを浮かべ、ロバートもまた信じられないものを見る目でリアナを見つめる。しかし、リアナはただ、一切の躊躇を感じさせない甘美な微笑みを返すのみであった。その瞳の奥には、これから始まる「劇」に対する愉悦が渦巻いている。
「クッ……分かりました……。お望み通りに」
主の強固な意志に屈したラウルとロバートは、死刑宣告を受ける囚人のような面持ちで部屋を辞した。
二人が去った後、リアナは指先でテーブルを叩きながら、愉しげに独り言を呟き始めた。
「クスクス、頼んだわよ、助さん、格さん。……お銀はエリーね。そうすると弥七はアロンかしら。うっかり八兵衛は、ジュニアにやってもらおうかしら」
彼女の脳裏には、前世で見た時代劇の光景が色濃く焼き付いている。スラムの悪党を「勧善懲悪」の形式で断罪し、あまつさえその過程を完璧な「劇」に仕立て上げる。
リアナにとって、領地の浄化はもはや公務や治安維持ではなく、最高のエンターテインメントへと昇華されていた。
特に「うっかり八兵衛」に指名されたジュニアは、その役目を完璧にこなす予感がした。小柄でありながら不器用な動きを見せ、うっかりと敵の武器を絡め取り、うっかりと建物の屋根を落とす。その「うっかり」が、カロルの取り巻きたちにとっては死神の鎌となるのだ。
(さあ、準備は整ったわ。カロル、貴方はこれから、人生で一度きりの最高にスリリングな舞台に立つのよ)
リアナは鏡の前で、高笑いの練習をする。完璧だった。その顔には、一滴の罪悪感も、迷いもない。
その横でジッとリアナを冷ややかな目で見つめるエリーが居た。
窓の外では、陽光がスラムの路地を照らしている。だが、そこに向かって歩みを進めるのは、平和をもたらす領主の娘ではなく、悪を遊戯として蹂躙する、麗しき魔王であった。
舞台の幕は上がった。スラムの汚濁を洗い流す、前代未聞の「お白洲」が、今、動き出そうとしている。




