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わがまま伯爵令嬢の料理改革  作者: のほほん


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リアナの職人たちと、終演へのプロローグ

1.完璧なる護衛と、工房の日常


朝の澄んだ空気の中、リアナは視察のために伯爵家を後にした。裏ギルドが壊滅したとはいえ、残党の蠢動を警戒し、ラウル、ロバート、アロンといった精鋭がリアナを囲む。その足元では、まるでペットのように無邪気な様子でジュニアがトコトコと歩みを進めていた。


リアナの向かう先は、領内の最重要拠点の一つであるユーグの工房だ。衛生用品の開発だけでなく、前世の食文化を再現するための醤油、味噌、酒といった発酵食品の生産を一身に任せている。


工房の扉を開けると、そこには寝食を忘れて研究に没頭するユーグの姿があった。


「おはよう、ユーグ。例のサンプルは出来ているかしら」


リアナが微笑むと、ユーグは虚ろな目でこちらを向いた。


「リアナ様、おはようございます……。お約束通り、リアナ様用の無香料に近いサンプルをご用意しております。それと、匂いを改良した石鹸などのサンプルも、三セット仕上げました」


その報告を聞き、リアナは溜息をつく。ユーグの顔色は悪く、視点も定まっていない。


「ユーグ、貴方……食事と睡眠はとっているの?」


「……はい」


リアナはユーグの気の抜けた返答に溜息をつく。


「はぁ……睡眠と食事をあまりとっていないようね」


リアナの鋭い指摘に、ユーグは言葉を詰まらせた。


リアナはエリーに視線を送る。


「エリー、至急、ユーグのために栄養のある食事と、休息を確保できる環境を手配しなさい。私の資産を減らすより、貴方の頭脳を失う方が、この領地にとっては大損失よ」


「はい、分かりました」


エリーが手配に動く中、ユーグは夢遊病者のように説明を続けた。彼は自分の健康よりも、成果を見せることが主への忠誠だと信じているようだった。


「……今回の香りは、バラとジャスミンの花から抽出したエッセンスと、ゆずレモンから得たエッセンスに果皮の香りをアクセントに加えております。酸化を防ぐための独自の保護剤も配合し、香りの持続性を高めました」


リアナは差し出された繊細な陶器の蓋を開け、手首に一滴を垂らす。


「あら……。これは、とても優雅で気品のあるバラの匂いね。こっちは……深みのあるジャスミンね」


「はい。バラとジャスミンの調合比率を微妙に変え、いくつかのパターンを試作いたしました。これらは、社交界で最も好まれるであろう『高貴』と『神秘』を体現したものです」


リアナは手首を合わせ、立ち昇る香りを嗅ぎ分ける。その香りは、先日のジョアンナ侯爵夫人を虜にした月香蜜とはまた違った、洗練された香りであった。


(この匂いなら、公爵夫人の嗅覚も確実に狂わせられるわね……)


ユーグの天才的な調合能力は、リアナの「美の戦略」を支える最強の武器である。リアナは、この工房がゆくゆくは王都のブランドの心臓部となることを確信し、満足げに微笑んだ。


「素晴らしいわ、ユーグ。貴方の努力は、必ず伯爵家を……いいえ、この世界を豊かにする糧となるわ」


リアナの言葉の意味を理解できていないユーグだったが、主からの賞賛に、心なしか頬に赤みが戻った。エリーが食事を持って戻って来るとリアナは工房を後にし、次なる目的地へと向かった。



2.鍛冶と木工の職人たち


鍛冶工房の熱気の中に足を踏み入れると、バロンが巨大なハンマーを振るっていた。リアナの指示で進められている油や砂糖の圧搾機製作は、彼女の食文化革命における最重要基盤である。


「バロン、圧搾機の進捗はどうかしら」


「リアナ様! 三台目の微調整に入っております!」


バロンの鍛冶工房では金属部品の加工が、ハンスの木工工房ではそれを収める頑丈な桶や動力源となる水車の製作が同時進行している。リアナが想定する量産体制は、職人たちの予想を遥かに超えていた。


「あら、仕事が早いわね」


「へい、慣れてくると妙なもので、コツを掴むのが楽しくてしょうがねぇや!」


笑うバロンに対し、リアナはさらりと追撃をかける。


「そう。期待してるわよ。……あ、あと最低七台、頑張ってちょうだいね」


「……え?」


バロンの笑みが凍りついた。三台作って満足していた男の顔には、十台という数字がどれほどの重圧であるかが明確に刻まれている。しかし、リアナは振り返ることもなく、優雅に工房を後にした。


「リアナ様、バロンさんがあんな顔を……」


(いえ、あの様子だとあと十台どころか、リアナ様のことですからさらに増えるでしょうね……)


エリーは内心でそう呟きながら、絶望する職人を背に馬車へと乗り込んだ。


視察は順調に進んだ。ビックが管理する貯水池、黄金色に実りつつある田んぼ、そして教会と孤児院。領地はリアナの改革によって、かつてないほどの活気を見せていた。


そして、馬車はいよいよスラムへと向かう。道中、リアナは車窓の景色を眺めながら呟いた。


「視察も終盤ね。今の所、何も起こらないわね」


エリーは小さく頷く。


「はい……。昨夜、大規模な魔物の群れが暴れまわったようですから。残党も、根こそぎ片付いたのでしょう」


「そうね……魔物が大量発生したら、いくらなんでも気づくわよね」


リアナが不思議そうに首を傾げると、エリーの視線がスッと凍りついた。リアナのその問いかけが、あまりに他人事すぎていたからだ。


エリーは冷ややかな眼差しをリアナに送ったが、リアナはどこ吹く風で、純粋な疑問を浮かべている。


「あら、エリー? 私、何か変なこと言ったかしら?」


「……いえ、何でもございません」


エリーは言葉を飲み込んだ。リアナ様が名前を付けて可愛がっているジュニアやポチこそが、昨夜の惨劇の実行犯である――という真実を口に出すのは、あまりにも恐ろしかった。


リアナは満足そうに微笑んでいる。彼女にとって、昨日起きたことは「魔物の発生」という不可抗力であり、その副産物として領地が綺麗になった、という認識なのだろう。そのあまりの無自覚な残虐さに、エリーは背筋に冷たいものを感じた。



3.舞台は整った


リアナが視察を行なっている頃、スラムの広場では、騎士のコーリーとナムルが、まるで日常の一部であるかのように大鍋を火にかけていた。漂う食欲をそそる香りは、飢えたスラムの住民たちを誘うと同時に、飢えた「害獣」を惹きつける餌でもあった。


「……本当に来るのかな。相手は随分と慎重な様子だが」


「どうだろうな。だが、カロルと接触した密偵は、確かにリアナ様から預かったリボンを渡したと言っていたぞ」


コーリーが少し呆れたように笑う。リアナが用意したのは、ただのありふれたリボンだった。しかし、それを手渡した相手が「リアナ様が身につけていたものだ」とうそぶいた瞬間、それはカロルにとって、誘拐が成功したことを示す何よりの証明書へと化ける。


「適当なリボンを渡されたって話だが、あんなので本当に騙される奴がいるのか?」


「誘拐の話を知っているのは、カロルの腹心と裏ギルドだけだ。もし俺たちが『リアナ様を連れ去られた』と噂を流せば、欲に目が眩んだ奴らは確認もせずに飛びついてくるだろうよ」


ナムルは淡々と作業を続けながら、周囲の空気を探る。スラムの路地裏には、明らかに一般の住民とは異なる、粘つくような視線がいくつも張り付いていた。


「……こっちを監視している連中がいるな」


ナムルの低い声に、コーリーもわずかに表情を強張らせる。住民のそれとは明らかに違う、獲物を狙う獣のような殺気。カロルの取り巻きたちだ。


「ああ、ずいぶんと分かりやすい殺気だ。隠す気もなさそうだな」


「リアナ様からは『行動を起こすまでは放っておけ』と言われている。……誘拐の事実に、彼らが自ら手を貸して踏み込んでくる瞬間を待つ。それが狙いだからな」


二人の騎士は、まるで何も気づいていないかのように、炊き出しの準備を続けた。しかし、その手はいつでもつかに手が届く位置にある。


スラムの影で、カロルの腹心たちが密談を交わしているのが見える。彼らにとって、今は亡き裏ギルドの残滓を拾い集め、この「好機」を独占したいという欲望が、理性を上回っていた。


彼らは知らない。「裏ギルドが令嬢の誘拐に成功した」と確信しているその計画こそが、リアナという名の巨大な渦に自ら飛び込む、死の舞踏であることを。


コーリーとナムルは、大鍋から立ち上る湯気を眺めながら、今日、このスラムからすべての「膿」が掃き出されるであろうことを確信していた。


騎士が乗った馬が、遠くからこちらへ向かってくる足音が聞こえ始めた。広場を囲む視線が、一気に鋭さを増す。


「……さて、劇の始まりだな」


騎士たちは静かに、しかし確実に、獲物が網にかかるのを待っていた。



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