淑女の抱擁と、巨大な後ろ盾
1.執事の困惑と天然の罠
エリオンに確認する様に仰せつかった執事のセバスは、エントランスに張り詰めた空気を察し、静かに姿を現した。
「これは、どういった状況なのでしょうか?」
エルザは屈託のない笑みを浮かべ、事の経緯を説明する。彼女にとって、エリオンの「領外・お茶会禁止」という命は、あくまでその場限りの制限であり、来客の貴婦人に見せることまでは想定していなかったのだ。
セバスの鋭い視線がリアナに突き刺さる。リアナは表情を崩さず、しかし冷徹なまでの演技力で応じた。
「あら、私とお母様は何も仕掛けてないわよ。父様の言いつけ通り、領地内でしか使っていないもの」
「確かに、旦那様はそのように仰っておりました」
セバスは昨日のエリオンの厳しい警告を記憶している。しかし、リアナの表情には、計算された狡猾さが隠されていることを、ベテランの執事である彼は本能的に嗅ぎ取っていた。
「ジョアンナ侯爵夫人の前で、うっかり試作品を使った姿を見せてしまったのがいけなかったのね。侯爵夫人がどうしても使いたいとおっしゃるのだけれど……父様が許可を下すはずもないし」
リアナはため息をつき、悲劇の令嬢を演じる。
「だから、サンプルはあるけれど、父様の許可なく渡すわけにはいかないと説明していたところよ」
その「サンプル」という単語に、ジョアンナ侯爵夫人が食いついた。
「サンプルがあるのですか!」
「あら、私としたことが失言でした。撤回させていただきます」
「いいえ、撤回はさせません! あるのですね、サンプルが?」
夫人の瞳に宿る熱情は、もはや貴婦人の気品を超えた「執着」だった。リアナは申し訳なさそうに眉を下げる。
「……確かにございますが、まだ試作段階なのです。肌に影響が出ないか厳重に確認中でして……そんな危険な物を、侯爵夫人にお渡しするわけにはいきません」
「構わないわ! もし何かあったとしても、伯爵家に一切の責任を追及することはございません! 私がその責任を負いましょう!」
美の欲求の前では、侯爵夫人の理性など無力なものだ。リアナは内心で舌なめずりをした。ここからが、最終段階の布石である。
「はぁ……仕方ないですね。セバス、悪いけれど、父様に事情を説明して判断を仰いでもらえないかしら、私とお母様には権限がないので」
「……畏まりました。少々お時間を賜ります」
セバスはリアナの微笑を見て、すべてが彼女の掌の上で進行していることを悟った。執務室へと向かう彼の背中は、重苦しい予感に満ちている。エリオンにとって、ジョアンナ侯爵夫人という巨大な勢力を敵に回すか、あるいは領地の秘密を差し出すか。二択の苦渋を強いることになるからだ。
(さて、父様はどう動くかしら? 拒絶すれば夫人の機嫌を損ね、承認すれば私が石鹸などの販路を確立する。どちらにせよ、私の勝ちだわ)
セバスが執務室の扉を叩く。その扉の向こうでは、エリオンが再び頭を抱えることになるだろう。リアナの美の革命は、こうして伯爵家の防波堤を易々と越えていく。
2.執務室の戦慄
執務室の扉を開けたセバスの顔色は、この世の終わりを迎えたかのように青ざめていた。重厚な扉の向こう、エリオンは山積みの公務に追われながらも、娘リアナが引き起こすであろう「嵐」の予感に胃を痛めていた。
「旦那様……」
「セバスか、どうだった? またリアナが何か……」
セバスの言葉が紡がれるより早く、エリオンは事態を察知した。ユーグが開発したという例の洗浄剤。それが社交界の重鎮を巻き込み、伯爵家を飲み込もうとしている。
「クソッ! あのわがまま娘が……! 今すぐリアナを呼べ!」
エリオンは執務机を激しく叩き、立ち上がった。石鹸の利権というものは、歴史的に見ても血生臭い利害が絡む、極めて根の深い代物だ。伯爵家が手を出せば、王都の有力貴族たち――それこそ公爵家との軋轢は必至である。
「なぜ分からん……! なぜこれほどまでに無防備に火種を撒く!」
エリオンの咆哮が執務室に響く。しかし、時すでに遅し。リアナの算盤は、エリオンの懸念を遥かに超えた速度で回転していた。
しばらくして、扉が再び開かれた。リアナは、背後にエルザとジョアンナ侯爵夫人という最強の布陣を従え、執務室へと入室した。
「お父様、お呼びでしょうか?」
リアナは何食わぬ顔で微笑む。その純真無垢な少女の顔を見て、エリオンは怒鳴り散らそうとした。しかし、視界の端に映ったジョアンナ侯爵夫人の姿に、エリオンの喉は凍りついた。
「なっ……!?」
「お父様、どうかされましたか? あまりの驚きに言葉を失うなんて、失礼ですよ?」
リアナが可憐な声で追い打ちをかける。エリオンは頬をピクリと震わせながら、絞り出すように声を上げた。
「クッ……いや……こ、これはジョアンナ侯爵夫人……なぜこのような場所に?」
「ええ、直接お伺いしたほうが良いと思いまして、リアナ嬢に無理を言いましたの」
ジョアンナ夫人の眼差しは、エリオンがこれまで見てきたどの貴婦人よりも鋭く、そして飢えていた。リアナは、侯爵夫人に耳打ちしていたのだ。「父様には、あなたの気持ちを直に伝えてください。そうすれば、父様も折れるしかない」と。
エリオンは冷や汗を流しながら、言い訳を模索した。
「いや、しかし……夫人はご存知でしょう? 石鹸の利権というものは、王都のコーリン公爵家のお抱え商会が独占している。我々、伯爵家が手を出すなど、不可能なのです」
エリオンは「石鹸」という言葉を出し、夫人の足を止めようとした。しかし、それはリアナが用意した、最大の「墓穴」だった。
「え? 石鹸もあるのですか?」
「え……? ええ、まあ、石鹸の件でわざわざお越しになられたのでは……?」
エリオンの失言に、リアナが心の中でほくそ笑む。
(あら、お父様……墓穴を掘りましたね)
「リアナ嬢、石鹸もあるのですか? 」
「え……あ、はい……確かに石鹸のサンプルもございます……ですが、まだ試作段階でして……」
リアナはわざとらしく困った表情を浮かべ、裾を握りしめた。これを見たエリオンは唖然とした。自分が防ごうとしたはずの「秘密」を、自らの口で暴いてしまったのだ。
「素晴らしいわ、リアナ嬢。その石鹸も、ぜひ私に使わせてちょうだい!」
ジョアンナ夫人の興奮は、もはや抑えようがなかった。エリオンは必死に弁明を試みる。
「夫人! それは王都の商習慣を無視する行為です!コーリン 公爵家との関係を考えれば……!」
「コーリン公爵家? 知りませんわ! 私が欲しいのは、今、この場にある美の結晶です!」
侯爵夫人の理性は完全に霧散していた。エリオンは執務椅子に崩れ落ち、頭を抱える。彼が見ていたのは、娘が描いた壮大な「美の革命」という名の侵略の全貌であった。
リアナは父の絶望的な姿を慈しむように見つめ、そして静かに侯爵夫人の手を取った。
「お父様も、領民の生活を向上させるためには、侯爵夫人の情熱を無視できないはずですわ。ねえ、お父様?」
逃げ場はない。リアナの微笑みは、もはや父への敬意などではなく、支配者の微笑そのものだった。エリオンがどれほど足掻こうとも、一度動き出した「美の連鎖」は、もはや誰にも止められない。リアナは、伯爵領の衛生面を確保する為、さらなる一手を打つ。
3.侯爵夫人の宣戦布告
エリオンが懸念を口したが、リアナはすでにその懸念を粉砕するだけの準備を終えていた。
「ジョアンナ侯爵夫人。石鹸を世に出すことは、コーリン公爵家の既得権益を脅かし、彼らを敵に回すことを意味します。そうなれば、オルフェウス伯爵家など、彼らによって押しつぶされる恐れも有ります……」
リアナが、現実的なリスクを説く。
「そうならない為に、侯爵家にお力添えいただけますと幸いです」
「……リアナ!お前は一体何を……」
エリオンが驚愕する中、ジョアンナ夫人は静かに、しかし断固とした口調で宣言した。
「分かりました。グレイハルト侯爵家、そして私の実家であるデュラン公爵家が、この事業の正式な後ろ盾となりましょう」
その言葉の重みに、執務室の空気が凍りついた。ジョアンナ夫人はデュラン公爵家の次女であり、現在はグレイハルト侯爵家の現当主に嫁いだ身。彼女にとって、この「美」を独占し、社交界に流通させることは、侯爵家と公爵家にとっても莫大な利益をもたらす好機以外の何物でもないのだ。
リアナは父の驚きを横目に、さらに踏み込んだ。
「もし可能であれば……デュラン公爵家の方にもお使いいただけると、完璧なのですが……」
それは、単なる「顧客の拡大」を遥かに超えた一手だった。ジョアンナ夫人の母、すなわち公爵家の前当主夫人をも取り込む。それはコーリン公爵家の独占を完全に突き崩し、王都の最高権力層から「オルフェウス伯爵領の製品こそが正義である」というお墨付きを得ることに他ならない。
(海老で鯛を釣る……いいえ、鯨を釣り上げるようなものだわ)
ジョアンナ夫人は、娘として母に美を届けたいという親孝行、そして社交界の頂点に立つ者としての誇りを刺激され、高揚感を隠そうともしない。
「ええ、お母様にも必ず届けますわ。この素晴らしい香りと質感を、あの方が喜ばないはずがありません」
エリオンはただ、目の前で繰り広げられる「大取引」に呆然とするしかなかった。先ほどまで自分が抱えていた「公爵家との軋轢」という恐怖が、リアナの一言によって「最強の防壁」へと書き換えられてしまったのだ。
「お父様、これでコーリン公爵家の圧力も問題ございませんよね?」
リアナが小悪魔のような微笑を父へ向ける。エリオンは深く溜息をつき、降伏するように頷いた。
「あ、ああ……はぁ……セバス……お茶を用意してくれ。最高級のやつだ。……娘の顔を見ていると、どうにも胃が痛くてな」
「……今、ご用意いたします」
執事のセバスは、リアナの冷徹なまでの先見性に敬意すら覚え始めていた。彼女の手中には、既に領地の経済基盤と、王都の社交界の支配権が握られている。
リアナの計画は、もはや止まることを知らない。コーリン公爵家の独占を崩し、その残骸の上に自らの美と衛生の帝国を築く。その最初の一歩が、今、この小さな執務室で確固たるものとなった。




