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わがまま伯爵令嬢の料理改革  作者: のほほん


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美の洗礼と、二人の女神

1.舞台装置としての美貌


リアナは、ゼノ商会から伯爵家へと戻った直後から、戦場のような忙しさに巻き込まれた。


「リアナ様、お着替えをお願いします! 時間がございません!」


エリーが慌ただしくリアナの身支度を整える。間もなくジョアンナ侯爵夫人による、「講義」の時間だった。エリーは鏡の前でリアナの髪を整えると、リアナは準備していた陶器の瓶を手に取った。中には、ユーグが作成した月香蜜の香水が入っている。


彼女は優雅な仕草で一滴、手首に香水を垂らすと、両手首をゆっくりと擦り合わせた。さらに、耳の裏、首筋へと手首を軽くあてがい、香りを纏わせる。


「……スプレーがあれば、もっと効率的に馴染ませられるのだけれど」


リアナはボソリ呟いた。彼女の知識にある霧状に噴射する道具――アトマイザーの類いは、この世界ではまだ見た事がない。ガラス加工の技術と微細な構造が必要となるため、今の技術力では時期尚早だと理解してはいたが、利便性を追求する彼女にとっては惜しい欠損であった。


「準備は完璧ね。さあ、始めましょうか」


月香蜜の芳香と、前世の技術で実現させたサラサラの髪。彼女は、自らの身体そのものを「最高級の宣伝媒体」として仕立て上げていた。その先にあるのは、社交界という名の権力構造を、美と流行という名の武器で塗り替える計画だ。


「お父様には悪いけれど、最大限に利用させてもらうわ」


リアナは、自分の髪の輝きが父エリオンの権威をも利用して拡大していくことを確信していた。彼女がこのまま成長し、社交界に打って出れば、エリオンは意図せずして領内の「美の特区化」の責任を背負わされることになる。エリオンが執務室で頭を抱える未来は、既に確定事項のようなものだった。


その時、扉を叩く音と廊下からメイドの声が聞こえた。

 

コンコン!


「リアナ様、ジョアンナ侯爵夫人がお越しです」


「分かったわ」


リアナは静かに微笑むと、エントランスへと向かった。そこには、王都の社交界でも一目置かれるジョアンナ侯爵夫人が、優雅な立ち居振る舞いで到着を待っていた。リアナは階段をゆっくりと、しかし背筋を正して降りていく。


その姿を見た瞬間、ジョアンナ侯爵夫人の瞳が驚きで大きく見開かれた。彼女は数多くの貴族令嬢を見てきたが、目の前の少女から放たれる圧倒的な「変化」に言葉を失った。


階段を降りるたびに、リアナの髪がサラサラと波打つ。それは単なる手入れの域を超えていた。光沢、質感、そしてその髪が揺れるたびに立ち昇る、得も言われぬ高貴で甘美な芳香。それらはジョアンナの五感を強制的に支配し、彼女の心を一瞬で虜にした。


「……まあ」


侯爵夫人は、扇で口元を覆いながらも、その瞳には隠しきれない熱情が宿っていた。


リアナはジョアンナの目の前まで歩み寄ると、完璧なカーテシーを行った。


「ごきげんよう、ジョアンナ様。本日もご指導いただけること、心より感謝いたします」


その声の響き、礼の所作、そして何よりその身から放たれる香りが、侯爵夫人の社交家としての本能を刺激する。


「リアナ様……貴女、一体何をしたのですか? その髪……そしてその香りは……」


侯爵夫人は思わずリアナの髪に触れようと手を伸ばしたが、寸前で思いとどまった。社交界の重鎮である彼女にとって、目の前の光景は「見たことのない美の結晶」そのものだった。


「あら、ご興味がおありですか? 実は……」


リアナは、侯爵夫人の好奇心を最大限に引き出すべく、ゆっくりと、しかし計算し尽くした言葉で、製品の存在を匂わせ始めた。


エントランスに漂う月香蜜の香りは、次第に侯爵夫人の意識を現実から切り離していく。ジョアンナは、自分が今、歴史的な転換点に立ち会っていることを直感していた。この少女が手にする「美」が、社交界のパワーバランスを書き換えるということを、この時の彼女はまだ理解していなかった。


リアナは内心で確信していた。今日の講義は、彼女の望む方向へ進む。侯爵夫人という巨大な「拡散装置」を手中に収めることで、彼女の製品は王都の最上層へ瞬時に浸透することになるだろう。


「私が見つけた、とっておきの伯爵家の秘密です」


「秘密……? 貴女のような年齢で、私を驚かせる秘密を隠し持っていると?」


ジョアンナの視線は、リアナの髪と香りに釘付けになっていた。リアナは一瞬、悪戯な笑みを浮かべる。


「ええ。ですが、それはまだ誰にも話していない、伯爵家だけの秘密……お父様からも口外しないように言いつかっております」


リアナはエリオンの名前を出すことで、この製品がいかがわしいものではなく、伯爵家のお墨付きであるという心理的安心感をも与えた。これはまさに、完璧な営業戦略だった。


侯爵夫人は、まるで親友に話しかけるような親密な距離感へと変化した。講義の時間など、もはや二の次となっていた。


「リアナ様、その香りは、あのクッキーの香りですよね?それから、その髪の輝きを保つ秘訣は……すべて教えてください」


リアナの計画は、一歩ずつ、しかし着実に王都の心臓部へ向かって突き進んでいく。スラムの長屋、ゼノ商会の独占販売、そして侯爵夫人を巻き込んだブランド戦略。これらが繋がった時、彼女の領地は、単なる地方伯爵領から、大陸一の「美の聖地」へと変貌を遂げるのだ。



2.芝居がかった拒絶


リアナはかかった魚を逃すまいとさらにジョアンナを追い込む。


「これは、伯爵家だけの秘密なんです……サンプルは有りますが、領外に持ち出すことを、お父様に固く禁じられているのです。非常に貴重なものですから」


リアナは潤んだ瞳で悲劇のヒロインを演じ、ジョアンナ侯爵夫人の目前で「門外不出」の看板を掲げた。それは、より一層その価値を釣り上げるための、周到に用意された芝居であった。


ジョアンナの眼差しには、もはや「指導者」としての威厳は欠片も残っていない。欲望に忠実な、一人の令嬢のような熱が宿っている。


「禁じられている……? いいえ、そんなはずがないわ。これほどのものを、この領地だけに留めておくなんて、王都の貴婦人に対する冒涜よ」


侯爵夫人は一歩も引かない。リアナが価値を隠せば隠すほど、ジョアンナの「手に入れたい」という情念は燃え上がる。リアナは内心で嘲笑う。獲物は、餌の匂いに完全に狂わされていた。


その時、エントランスの二階から、鈴を転がすような優雅な声が降り注いだ。


「あら、どうしたの? 随分と楽しそうね」


階段から現れたのは、リアナの母・エルザであった。


彼女は、リアナと同じくシャンプーとリンス、そして月香蜜の芳香を一身に纏っている。エルザが優雅に階段を降りるたび、彼女の髪がサラサラと光の輪を描き、その動きに合わせて高貴な香りがエントランスを支配した。


リアナ一人でも侯爵夫人を圧倒するのに十分な破壊力であった。しかし、そこに同じ「輝き」を放つエルザが加わったことで、その効力は倍加する。


ジョアンナ侯爵夫人の視線は、リアナからエルザへと、そして再び二人を行き来し、完全に釘付けとなった。


「……貴女も……エルザ様、貴女の髪も、そしてその香りも……!」


エルザはジョアンナの目の前までやってくると、悪びれる様子もなく微笑んだ。リアナと同様の、否、母としての成熟した美しさを加えたその髪の艶は、ジョアンナにとって「若さゆえの奇跡」ではなく、「魔法」であると確信させるに足る光景だった。


「あら、ジョアンナ様。リアナの秘密についてお話ししていたのかしら?」


エルザが漂わせる月香蜜の香りは、先に体験したリアナのそれよりも濃密で、気品に満ちていた。ジョアンナ侯爵夫人の社交界における「理性」は、この瞬間、完全に霧散した。


母娘揃ってのこの演出の前では、いかなる教養ある貴婦人も、ただの「美しいものに飢えた淑女」へと成り下がるしかない。


リアナは母の登場を好機と捉え、さらに深く罠を仕掛ける。


「お母様、ジョアンナ様がこちらの香りとサラサラな髪を大変気に入ってくださったみたいで……ですが、お父様の言いつけが……」


リアナの困惑したような演技に、エルザが「あらあら」と微笑む。この光景を目の当たりにしたジョアンナが、この後どのような行動に出るのか。リアナにとって、王都の社交界を掌握するための「駒」は、盤上のどこよりも確実な位置に配置されていた。


3.予見された災厄


執務室の重厚な机に向かい、領地経営の膨大な書類に目を通していたエリオンは、ふと娘のことが脳裏を過ぎった。リアナが着々と何かを準備しているような気配があったからだ。


「……セバス。リアナは今、何をしている?」


執事のセバスは、主の問いに淀みなく答える。


「リアナ様は、本日招かれておりますジョアンナ侯爵夫人の講義を受けておいでです」


「そうか。……なら安心か……」


そう呟いた瞬間だった。エリオンの背筋に、冷ややかな悪寒が走る。


今まで何度も、リアナの微笑を見た直後に領地を揺るがす騒動が起きてきた。


(なぜ、今思い出したんだ……あの時、確かに娘は微笑んだ……何か嫌な予感がする……)


「……セバス、今すぐリアナの様子を確認しろ!」


「え?」


「いいから行け!」


エリオンは力なく頭を抱える。リアナが社交界の重鎮である侯爵夫人を相手に「講義」などという名目で対峙している。そこには、エリオンですら制御不能な、新たな波乱が確実に待っているはずだと、父としての本能が告げていた。


エリオンが執務室で懸念した事態は、もはや「回避不能」な現実となっていた。


エリオンは、執務室でただ、来るべき「報告」に頭を抱えるしかない。リアナという嵐は、ついに伯爵家の枠を超え、王都という広大な海へと漕ぎ出そうとしていた。



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