支配の完成と、迫る破滅
1.報告と腑抜けた夫人
カエラ夫人が戻ってくるまでの間、リアナはゼノから現状の報告を受ける。
「まずは、網ですが、間もなく入荷されます」
「入ったらすぐに持ってきてちょうだい。あと追加で、五十本分だから、二百枚用意してちょうだい」
新コロン村で育てているゆずレモンの木のうち、五十本を完熟用として確保するためだ。
「に、二百枚ですか……分かりました」
ゼノは報告するたびに仕事量が増えていく現実に、心の中で小さく溜め息をついたが、表情には出さない。
「次にスラムの住人の長屋ですが、上下水道の工事が完了し、今日から建屋の建築に入ります」
「あら、仕事が早いわね」
「一棟五世帯を二十棟建てる予定で進めております。昼夜問わず作業を進めるため、魔道具の照明と魔石に相応の費用がかかりますが、よろしいでしょうか?」
「構わないわ、見積もりが出来次第、伯爵家に提出してちょうだい」
リアナは頷きながらも、懸念を口にする。
「移住者の人数によっては、長屋をさらに増やさないといけないかもしれないわね。スラムの総人数すら正確には把握できていないのがネックだわ」
コロン村の時は正確な人数を把握して計画を立てられたが、スラムという無法地帯は実態が見えにくい。さらにそこから何人が移住するかも不透明である。
「工房については一棟が完成していますが、もう一棟は長屋の建築を優先したため一時中断しております」
「分かったわ」
淡々と報告をこなすゼノ。続いて、彼は蜜芋糖の好調ぶりを伝えた。
「蜜芋糖ですが、現在、多くの貴族様から注文をいただいております。ジョアンナ侯爵夫人を介した口コミで、引き合いが止まりません」
「あら、順調ね」
「この件は、後日改めて伯爵様へ直接報告に上がります。以上がただいま受けている依頼の現状です」
ゼノが報告を締めくくったその時、母屋の扉が開き、エリーとカエラ夫人が戻ってきた。
「……えらい腑抜けた顔になっているわね」
リアナがボソリと呟くと、ゼノが振り返り、妻の顔を見て言葉を失った。そこには、すっかり魂を抜かれ、骨抜きにされた妻の姿があった。
「ただいま戻りました」
「どうだった?」
「最初は激しく抵抗されましたが、強引に衣服を脱がせ、隅々まで洗って差し上げました」
(私も最初は抵抗したけれど、諦めたわ……)
貴族以外の人間にとって、誰かに体を洗ってもらうなど非日常の極みだ。抵抗していたカエラも、その手触りと癒しに屈したのだろう。
「カエラ夫人、いかがでしたか?」
リアナの問いかけに、カエラは虚ろな瞳で応じた。
「あ、はい……夢心地でした……」
「洗い方は一通りお教えしましたので、問題なく続けていただけると思います」
エリーの言葉を聞き、リアナは確信した。これでまた一人、この「美の革命」の虜がまた一人誕生したことを。
応接室に冷徹な空気が流れる中、リアナは虚ろな瞳のカエラに更なる楔を打ち込んだ。
「カエラ夫人、今回用意した石鹸やケア製品は、ゼノ商会が独占して売り出すことになるわ。当然、商会は、これまで以上に大きく成長し、ゼノの仕事も激増するでしょう。あなたにはさらなる苦労をかけることになるけれど……よろしくお願いするわね」
その言葉が引き金となった。先ほどまで夢心地で腑抜けていたカエラが、バッと勢いよく体を起こした。彼女の瞳には、商売の未来への期待と、それ以上に製品への強烈な執着が混在していた。
「えっ……あれを、私たちの商会で、ですか?」
(あら、最初にゼノに販売させるって言ったわよね。私の髪に夢中で、話まで入って来なかったみたいね)
「ええ、そうよ。あなたがたの商会が、この美の拠点となるの」
(あれが、手元にいつでもある生活……そんな夢のようなことが)
カエラの中で計算が瞬時に働く。あの心地よさ、あの香り、あの肌触り。それが自らの商会で扱われるとなれば、もはや「夫の苦労」など些末な問題に過ぎない。
「夫はリアナ様のために、死力を尽くして働くはずです! 私のことは気になさらず、存分に夫を使ってください!」
「な、なにを言っているんだ、お前……!?」
夫のゼノが驚愕に目を見開くが、カエラはもはやリアナしか見ていない。
「リアナ様のためにしっかりと働かせます!」
「あら、いいのかしら?」
「ええ、ぜひ! 存分に!」
リアナはゼノの顔を見ると、艶然と悪魔のような微笑を浮かべた。
「よかったわね、ゼノ。夫人から正式なお墨付きをもらえて」
その瞬間、隣に控えていたエリーは、ゼノに対して深い憐れみの視線を向けた。
(ああ……職人たちに続いて、ついにゼノさんまでもがリアナ様の掌の上へ……。これで逃げ場は完全に消えたわね)
リアナは満足げに腰を上げると、最後にカエラへ釘を刺す。
「実際に使い続けていて、何か気づいたことがあればいつでもゼノに知らせてちょうだい」
「はい! どのような些細なことでも!」
リアナ信者が一人増え、それと同時に家庭内での決定権を奪われた犠牲者が一人増えた。リアナは優雅に踵を返し、完璧な盤面を描き終えた満足感と共に、馬車へと乗り込んだ。
2.冷徹な防波堤
カエラ夫人が骨抜きにされていた頃、スラムの広場に、豚汁の芳醇な香りが漂う。ロバートとアロンが整えた炊き出しの陣形は、戦場の防衛戦のように規律正しかった。
「本当に来るのか?」
アロンの疑念に対し、ロバートは冷徹に言い放つ。
「来なければ帰るだけだ。リアナ様の指示を遂行するのみ」
空腹に耐えかねた一人の子供が歩み寄ってきた。
「あ、あの……」
「ん?食べたいのか?」
子供は静かに頷いた。
「食べてもいいが持ち帰ることは出来ないぞ」
子供は、ロバートの言葉に戸惑う。
「お、おい、持ち帰ってもいいじゃねーか」
「ダメだ!リアナ様の指示は絶対だ」
「どうする?食べるか?」
子供は首を振ると走って帰って行った。
「おい!リアナ様の指示だからってあんな小さい子供を帰すなんて可哀想だろ!」
「持ち帰らせて、途中で何者かに奪われたらどうする。ここはスラムだ。暴力で奪い取られるのがオチだぞ」
リアナが危惧したのは、飢えではなく、飢えを利用して子供を搾取する大人たちの存在だった。ロバートはリアナの意図を完璧に理解し、情を排して子供を帰した。それは残酷に見えて、最も子供を守るための防壁だった。
沈黙が支配する広場に、二つの人影が近づいてくる。痩せ細った老夫婦、トムとケイトだった。
「あ、あの……こんな老人でも、いいのでしょうか?」
労働力になり得ない自分たちは追い返されるだろう。そう絶望しつつも、空腹には抗えない。しかし、ロバートの答えは彼らの予想を裏切った。
「移住を希望されるのであれば問題ありません」
「……う、うっ……移住します」
二人は手を取り合い、涙を流した。ロバートは名簿に名前を刻み、彼らに唐揚げおにぎりと野菜たっぷりの豚汁を差し出す。彼らが貪るようにそれを頬張る姿は、明日の希望を食らう姿にも見えた。
「夜も炊き出しをします。必ず来てください」
去りゆく老人夫婦を見送り、アロンは深い溜め息をついた。
「やっと二人か」
「ああ……だが、これで風穴は開いた」
ロバートは、広場を見下ろす物陰に潜む視線を鋭く捉えていた。
代表カロルの取り巻き二人が、事の成り行きを監視している。彼らにとって、自分たちの支配下にあるスラムの住民が「独立した食事」にありつくことは、権力の基盤が揺らぐことを意味する。
(……見ているな。だが、これも計算の内だ)
リアナの計画は、スラムを管理する「構造」そのものを破壊しようとしている。飢えという鎖を解き放ち、自らの手で労働力を確保する。監視者たちはまだ、自分たちがこれからどのような巨大な渦に飲み込まれようとしているのか、露ほども気づいていない。
3.勘違いの算段
薄暗いアジトの中、カロルは二人の取り巻きから報告を受けていた。
「炊き出しに来たのは二人だ」
「誰だ?」
「トムとケイトの老夫婦ですよ」
「あの役立たずの老いぼれか!」
カロルは忌々しげに鼻を鳴らした。彼らにとって、スラムの住人は自分たちの支配下にある家畜に等しい。その家畜が、勝手に領主側の施しを受けて独立の気配を見せることは、許されざる裏切りであった。
「どうする? 相手は領主の騎士だぞ」
取り巻きの問いに、カロルは余裕たっぷりに笑みを浮かべる。
「金で動く連中だ。心配ない。今日、これから話をつけてくる」
スラムで長らく築き上げてきた「力」と「金」の理論。カロルたちは、リアナという存在が従来の貴族や権力者とは異なる次元の人間であることを、微塵も理解していなかった。
「ならいいが……後で面倒なことにならないか?」
「俺たちのシマだ。領主側の動きを潰しておかないと、他の奴らも調子に乗るぞ」
カロルたちは、トムとケイトという「最初の楔」を叩き折ることで、炊き出しを無力化できると信じ込んでいた。彼らにとっては、スラムの均衡を守るための当然の防衛策だった。
しかし、その動きは既にリアナの手のひらの上にある。彼女はカロルたちが「動く」ことを待ち望んでいたのだ。動くことで、その正体と証拠がより明確になる。
リアナが準備したスラム改革という盤面において、カロルたちの反抗は、自ら破滅への道を加速させる一歩に過ぎなかった。
ロバートたちが張った炊き出しのテントは、単なる食糧配給所ではない。それは、スラムの闇に潜む寄生虫をあぶり出し、排除するための「罠」そのものだったのである。カロルたちがアジトを出たその瞬間、彼らの命運はすでにカウントダウンに入っていた。




