技術者の保護と、十歳の壁
1.期待と不信の交錯
リアナと母エルザが執務室を後にし、廊下を進む。未知の美容製品を前に、エルザの足取りは領主夫人としての威厳をかなぐり捨て、少女のように軽やかだった。
「ああー、楽しみね♪」
「クスクス、お母様。お父様の言いつけは守ってくださいね」
「ええ、分かっているわ。お茶会では絶対に使わないわ」
「はい、お茶会では使わないでください」
(……お茶会『では』ね。クスクス)
リアナの胸中で冷徹な計算が渦巻く。エリオンが「領内」と「お茶会前」という制限を設けたところで、彼女の戦略は既にその先へ先へと延びているのだ。この約束は、後にエリオンを追い詰めることになる過酷な運命への序章に過ぎない。
リアナの部屋に到着すると、机の上には石鹸、シャンプー、リンスが整然と並べられていた。リアナは一つ一つの成分と効能を丁寧に説明し、実際に試用させるべくエリーにレクチャーを託した。母の傍らには、副メイド長のシャナが控えている。
「リアナ様、少し席を外します」
「お願いね、エリー」
「はい……リアナ様、くれぐれも……くれぐれも何もしないようにお願いします」
「あら、何もしないわよ」
「お願いします!」
「はぁ……分かったわ、何もしないわ」
エルザ、シャナ、エリーの三人は、リアナに釘を刺すような視線を残して部屋を出て行った。
「どんだけ信用ないのよ」
誰もがリアナの行動に警戒心を抱く。彼女が動けば、必ず何かが変わる。それが、リアナに関わる者たちの共通認識となっていた。
エリーたちを見送ったリアナは、息をつく間もなく厨房へと向かった。明日から始まるスラムでの炊き出しを、アロイスに命じる必要があるからだ。
突然の訪問に、厨房の主であるアロイスは驚き、慌ててリアナのもとへと駆け寄った。
「リアナ様、どうしたのですか? 」
「アロイス、明日からのスラムでの炊き出しについて指示を伝えに来たわ」
リアナは周囲の喧騒を一瞬で支配するような、硬質な声音で告げた。
「明日より、昼と夜の二回、スラムにて炊き出しを行います」
その突然の布告に、アロイスは厨房の作業を中断し、真剣な眼差しでリアナを直視した。
「スラムで、ですか。……人数や規模が重要になります。何人分くらいを用意しましょうか?」
リアナはアロイスの問いに対し、スラムの全貌を俯瞰するような冷徹な眼差しで答えを返した。
2.炊き出しの論理
リアナは厨房の喧騒を背に、冷徹なまでの冷静さでアロイスに指示を飛ばした。
「人数は分からないわね。とりあえず五十人前、用意できるかしら」
「五十人前でございますか」
「ええ。食べやすいおにぎりと豚汁にするわ。具材は変えて変化をつけましょう。明日は唐揚げおにぎりと、そぼろおにぎり。豚汁は野菜を惜しみなく使ってちょうだい」
「畏まりました」
アロイスが即座に仕込みへと動き出すのを確認し、リアナはきびすを返した。スラムの住民にとって、ただの食糧配給ではない。それは、リアナという新しい支配者が提示する「対価付きの救済」の始まりだった。
部屋へと戻ったリアナが、次の策の論理的構築に没頭していると、ドアが静かに開いた。戻ってきたエリーの瞳には、常にリアナに向けられる警戒の色が浮かんでいる。
「リアナ様、ただいま戻りました」
「おかえりなさい、エリー」
エリーは部屋に入るなり、まるで獲物の逃走経路を遮断するように室内を見渡した。
「……何もしてませんよね?」
「何もしてないわよ。厨房へ炊き出しの指示を出しただけよ」
「ならよいのですが……」
リアナが呆れたようにため息をつくと、エリーは表情一つ変えずに言葉を継ぐ。
「どれだけ信用してないのよ!」
「信用できる行動をなさったことが一度もございませんから。……いまは、何をなさっているのですか?」
「今後の計画を練っていたところよ」
リアナは机の上に広げた書類から視線を外さず、淡々と答えた。その書類には、スラムの住民の移住、侯爵夫人を取り込む社交戦略、そして領地経済を活性化するための極めて緻密な計算が記されている。
エリーにとっては、リアナが静かに座っていること自体が「次に何をしでかすか分からない」前兆でしかない。リアナという特異な存在が動けば、必ず秩序が塗り替えられることを、彼女は本能的に理解していた。
(……アロイスに指示した炊き出し。これが最初の一手。私の計画に狂いはないわ)
リアナは思考を巡らせる。彼女の盤上では、領地をより豊かにする為に、そしてその先の夢への計画が、着々と整いつつあった。
3.莫大な富の予感
翌朝、リアナは工房へと足を運んだ。重い扉を開けると、そこには先日までの血走った様子が嘘のように、落ち着きを取り戻したユーグの姿があった。
「ユーグ、ゆっくり眠れたかしら?」
「あ、リアナ様……その節は、大変失礼いたしました……」
ユーグはバツが悪そうに頭を下げた。リアナは彼の健康状態を確認し、胸を撫で下ろす。ユーグという稀有な才能を失うことは、リアナにとって最大の損失であるからだ。
「いいのよ。ただし、これからはしっかり寝るようにしなさい」
「あ、はい……」
リアナは横に控えるエリーと視線を交わす。二人の意思は一致していた。この技術者を野放しにするのは、もはやリスクでしかない。
「ユーグに誰か世話役を付けるべきかしら。いつまた暴走するとも限らないわ」
「そうですね。旦那様に相談いたしましょう」
「どうせ、お父様に会いに行くことになるだろうし。その時にでも聞いてみましょう」
「さて本題に入るわよ」
「ユーグ、サンプルは出来たかしら」
「はい、こちらにございます」
リアナは机の上に並べられた四セットのサンプルへと視線を移した。
石鹸、シャンプー、リンス、ハンドクリーム。整然と並べられた計十六個のボトルや塊は、リアナが計画する「美の革命」の武器である。
「ユーグ、本当にちゃんと寝た?」
「はい、おかげさまで……。調合は既に確立していたので、時間はかかりません」
ユーグの言葉を聞き、リアナは満足げに頷いた。
「ならいいわ。今後、あなたの食事管理や身の世話をする者を付けるから。文句は言わせないわよ」
「え……そ、そこまでしていただかなくても……」
戸惑うユーグに対し、リアナは領主の娘としての厳粛な声音で告げた。
「貴方に何かあったら、それは領地にとって損失でしかないのよ。自分がどれほど伯爵家にとって重要な存在か、自覚しなさい」
「……はい。心得ました」
その言葉に、ユーグの表情が引き締まった。それはリアナへの忠誠の証でもあった。
「あとは必要な物があったら言ってちょうだい」
リアナの問いかけに、ユーグは少しの迷いも見せずに要望を口にした。
「では、お言葉に甘えて……今回採ってきた植物の栽培許可と、そのための場所をお願いします」
「分かったわ。早急に手配するわね」
「ありがとうございます!」
リアナが部屋を出ると、エリーが少し不安げに呟いた。
「リアナ様、ユーグさんにそこまでの権限を与えてしまっても……?」
「ユーグが富を生み出すのよ。エリー、今の投資は、後に莫大な利益となって返ってくるわ」
リアナの頭の中には、この製品が貴族社会に浸透した後の経済図が描かれている。ユーグには莫大な富が転がり込むことになるだろう。伯爵領の経済基盤を、より強固なものへと変貌させるための礎となるのだ。
4.夢の果ての現実
工房を出て、リアナは廊下を歩きながらふと本音を漏らした。
「早く面倒な政務を終わらせて、本格的に料理研究だけに没頭できる生活を送りたいわね」
彼女にとって、領地の改革は、あくまでも平和な料理生活を勝ち取るための手段に過ぎない。その呟きに対し、隣を歩くエリーは即座に釘を刺した。
「……お嬢様、それは無理ですよ」
「ん? なんで? 領地を裕福にして安定させれば、あとは好きな事だけして暮らせるでしょ」
リアナは至極当然という表情で返したが、エリーは無情な現実を突きつける。
「お嬢様は、十歳になる年に学園に通うため、王都へ行くことになりますよ」
その言葉に、リアナは足を止めた。
「お兄様が行っているから、私は行かなくても問題ないんじゃないの?」
兄のエドリックが王都へ行っているのは、次期当主としての英才教育のためだとばかり思っていたリアナだったが、エリーの指摘はその前提を崩す。
「いいえ。貴族は例外なく、十歳になる年に王立セントラル学園へ入学し、勉学に励むことが義務付けられています。伯爵家の娘である以上、それは避けられません」
リアナは険しい表情で考え込んだ。学園という閉鎖された環境で何年も過ごすなど、今のペースで進めている領地改革や料理研究の時間が奪われることを意味する。
「……回避する方法はないの?」
「行けない正当な理由があれば、免除されることもありますが……」
リアナは思考を巡らせる。最も手っ取り早い手段として、彼女の脳裏に一つの案が浮かんだ。
「身体が弱いという理由では通らないのかしら?」
「え……? 誰が?」
「……あるいは、国王を脅して『学園には行くな』という勅命を出すよう仕向けるとかしら」
リアナの目は、本気でそれを実行しようと計算を始めている。エリーは背筋に冷たいものが走るのを感じ、即座に制した。
「本当にやりそうなので、それだけは絶対にやめてもらっていいですか!」
エリーの必死の懇願を横目に、リアナは「……面白そうな手段なのにな」と心の中でぼやいた。彼女にとって「義務」とは守るものではなく、必要であれば塗り替える対象に過ぎない。
(料理研究のためなら、王都の学園だろうと地図から消す努力を惜しまないわよ)
リアナの内心に芽生えた新たな野望は、平和な料理生活を目指す彼女の計画を、より過激な方向へと突き動かそうとしていた。エリーにはまだ、リアナがどのような手段を使ってこの「十歳の壁」を乗り越えようとするのか、予想すらつかないのだった。




