支配者の報連相と、美の革命
1.浴室という名の実験室
リアナは自室に戻るなり、期待に胸を膨らませてエリーに命じた。
「エリー、さっそく試すわよ。お風呂の準備をしてちょうだい」
スラムの砂や埃を落とすついでに、ユーグのサンプルを確認する。準備の間もリアナの脳内では、これを領内の女性たち、そして社交界に出す為に母やジョアンナ侯爵夫人にどう売り込むかのシミュレーションが続いていた。
「さて、存分に『女の武器』として使ってもらいましょう」
思考を巡らせていると、扉を叩く硬質な音が響いた。
コンコン!
「リアナ様、旦那様がお呼びです」
執事のセバスの声だった。リアナは即座に指示を返す。
「分かったわ。スラムの砂を落としてから向かうと伝えてちょうだい。……あと、お母様にも同席してもらうように手配して」
「承知いたしました。そのようにお伝えします」
母エルザも同席させるように告げると、リアナは不敵に微笑んだ。
(お父様も、お母様も、私の変貌に腰を抜かすことになるわね)
「リアナ様、準備が出来ました」
「分かったわ」
浴室に入ると、リアナはエリーに手本を見せるように洗い方をレクチャーし始めた。
「まずは石鹸からよ」
石鹸を湯に浸して擦ると、見たこともないほどの大量の泡が生まれ、浴室中がゆずレモンの爽やかな香りに包まれた。
「素晴らしいわ……!」
「えぇっ! この石鹸、凄いです!」
これまで使っていた高価な石鹸は泡立ちが悪く、肌を擦る必要があった。しかし、この石鹸は撫でるだけで汚れが落ちる。洗浄力と保湿の完璧な調和。リアナは確信した。これは革命だと。
「次はシャンプーよ」
「はい!」
エリーがシャンプーを手に取り、リアナの髪へ塗布する。指先で軽く擦るだけで、頭皮を覆うように滑らかな泡が立ち上がった。
「こっちも凄いです……!」
指で優しく洗うだけで、髪の質感がみるみる変わっていくのが分かった。
「凄いです!全然髪が絡まないです!」
「本当に凄いわね。ずっと使っていた物とは雲泥の差ね」
滑葉草の粘り気が髪を包み込み、指通りはかつてないほど滑らかだった。
シャンプーを洗い流すと最後にリンスを試す。
「最後はリンスよ!エリー、リンスは髪をケアするのが役目よ」
「まずは、タオルで軽く髪の水分を取ってからリンスを両手で軽くのばすのよ。のばしたら両手で髪を包み込むようにして、リンスを毛先から揉むように付けていけばいいわ」
「ただし、リンスは髪表面のダメージを補うもので、地肌にはつけないように注意してちょうだい」
「はい、分かりました」
(ビックの粘液には癒し(補修)の効果があるのよね、どうなのかしら)
リアナがリンスの付いた髪をぬめりが取れる程度に流すと、そこには鏡越しにも分かるほど艶やかな髪が出来上がっていた。エリーは感嘆の声を上げる。
「わ、私も使いたいです……!」
「今はダメよ。代わりにハンドクリームは使って感想を聞かせて」
香水を使わずとも、髪から漂う月香蜜の微かな芳香が、清潔感と高貴さを演出していた。
「あとは乾かして完成ね」
エリーが髪を乾かすと明らかな差が生まれた。
「何なんですか、凄い髪がサラサラです!」
「そうね、今までのは、なんだったのかしらね。香りもちょうどいいわ。……さあ、お父様を撃沈しにいくわよ」
ドレスに着替え、髪を束ねずに解いたまま、リアナはエリオンの執務室へと向かった。廊下ですれ違うメイドたちは、リアナの放つ未知の美しさに息を呑み、立ち尽くす。
そのサラサラと揺れる髪と、かすかに香る気品ある香り。彼女たちは知らぬ間に、リアナの虜になっていた。
2.執務室での対峙
コンコン!リアナが執務室の扉をノックした。
「お父様、リアナです」
「うむ、入りなさい」
執務室の重厚な扉を開けると、そこにはエリオンと母エルザが待機していた。リアナが姿を現した瞬間、母エルザの目が大きく見開かれる。
「……あら、あなた」
エルザの視線は、リアナの髪の光沢から離れない。エリオンもまた、娘のあまりの変貌ぶりに言葉を失い、書類から目を上げる。
「遅くなって申し訳ありません」
リアナは涼しい顔で一礼した。エリオンは喉を鳴らし、一度視線を逸らしてから、厳格な父親の表情に戻る。
「……いや、構わん。まずはスラムの報告を。……その、お前の髪については、話を聞いてからにしよう」
エリオンは動揺を隠そうと努めているが、その眼差しは、リアナがスラムから持ち帰った「変革の兆し」に、既に釘付けになっていた。
リアナは執務机を挟んで座る父エリオンに対し、スラムの現状を淀みなく報告した。
「移住希望者を募りましたが、現時点ではゼロです。そこで七日間の猶予を与えました。明日から昼と夜に炊き出しを行います。ただし、炊き出しを食べられるのは移住希望者と子供のみに限定しました」
「……それはなぜだ?」
エリオンの問いに、リアナは眉一つ動かさず答える。
「移住を希望しないということは、彼らは今の生活に満足しているということでしょう? ならば施しは不要です。ただ、子供に関しては親の判断に左右されるべきではありませんから、炊き出しの対象としています」
(親のエゴに付き合わされる子供は可哀想ですからね。未来の労働力を腐らせるわけにはいきません)
続いてリアナは、スラムで感じていた違和感を口にした。
「それと、代表のカロルと取り巻き数名を調査していただきたいのです。彼らは明らかに体格が良く、着ている服の素材もスラムのものとは一線を画しています」
スラムの人たちが着ている服に似せてはいるが、明らかに違っていた。料亭の料理長として数多の客と接してきたリアナの経験が、彼らの纏う「格」の異質さを鋭く見抜いた。
「分かった。我が家の情報網で徹底的に調べておこう」
「ありがとうございます」
次にリアナは移住計画の詳細を伝える。
「移住は八日後の朝を予定しております。ゼノには移住地を七日で完成させるように指示を出しました」
「移住には馬車がいるな」
「はい。現時点では何人が移住するかが分かりませんので、追って指示を出します」
「スラムに関しては以上です」
「今後の動向次第だな。分かった」
3.綻びる貴婦人の仮面
スラムの話が終わり、執務室に緊張が和らいだその瞬間だった。エリオンが溜息とともにリアナの姿を凝視した。
「はぁ……で、その髪はなんだ?」
父の問いかけと同時に、それまで静かに聞いていた母エルザが、獲物を狙う狩人のような速さでリアナに詰め寄った。
「リアナ! ちょっといいかしら!」
エルザの手がリアナの髪を掴む。サラリと指先を滑り落ちるその手触りに、エルザの瞳が見開かれた。
「えっ?! 凄いんだけど……何でこんなにサラサラなの?! それにこの匂いは……月香蜜の匂いね!」
「でも薄っすらとゆずレモンの香りもするわね?」
リアナは淑やかな笑みを浮かべ、淡々と説明を加える。
「はい。先ほどユーグから、髪を洗う洗浄剤と髪を守る保護剤とハンドクリームと、そして石鹸のサンプルを預かってきました」
「石鹸! リアナ、今すぐ見せてちょうだい!」
母エルザの表情から、先ほどまでの領主夫人の余裕が完全に消え失せた。そこにあるのは、最高級の美容に飢えた一人の女性の剥き出しの熱情だった。
「待て待て! 石鹸は作るのを許可したが、髪を洗うものなど聞いていないぞ!」
エリオンの鋭い声が執務室に響く。彼は執務机に身を乗り出し、リアナを問い詰めていた。許可したのはあくまで「石鹸」という衛生用品であり、美容品としての製品群ではない、という理屈だ。
リアナは表情を崩さず、淡々と理を説く。
「あら、お父様。髪を洗うのも汚れを落とすという点では石鹸と大差ありませんわ」
「髪を洗っただけで、なぜそこまで質が変わるんだ!」
「髪を補修してダメージから守る保護剤を使ってるからですわ。洗浄と保護、この二段階が重要なんです」
リアナの理知的な弁論に、エリオンは眉根を寄せる。
「……ハンドクリームとはなんだ? それも石鹸の派生か?」
「荒れた手を補修、保護する効果があります。エリーたちに使用させ、その効果を検証する予定です」
「石鹸を許可しただけだろう」
「はい。石鹸という基本から、用途に合わせて応用させたにすぎません」
エリオンは追求の手を緩めない。しかし、その押し問答を遮るように、それまで沈黙を守っていたエルザが動き出した。
「あなた! そんな細かなことはどうでもいいです!」
エルザの瞳には、領主夫人としての理性を超えた、最高級の美容に対する剥き出しの情熱が宿っている。
「リアナ、サンプルはまだあるのかしら?」
「はい、ございます」
「……私にも、使わせてはもらえないかしら?」
リアナは一瞬だけ困ったような表情を浮かべ、父であるエリオンを横目で窺う。
「でも……お父様が……」
「あなた! いいわね!」
エルザの鋭い眼光が、冷徹な領主であるはずのエリオンを射抜く。それは、いかなる交渉術よりも威力のある、家庭内における絶対的な権力の行使であった。
「え……し、しかしだな……」
「い、い、わ、よ、ね!」
逃げ場を失ったエリオンは、小さく肩を落として降伏する。
「あ、ああ……分かった。ただし、領内だけに留めること。エルザ、お茶会の前には絶対に使うな」
「ええ、それでいいわ。さっそく行きましょう、リアナ」
「はい、お母様。では、お父様失礼いたします」
リアナは父に完璧な笑みを向け、優雅に一礼して執務室を後にした。
残されたエリオンは、閉まった扉を呆然と見つめていた。
リアナの微笑に違和感を覚えるエリオン。
(なんだ……? 私が何か、決定的なことを見落としているのか……?)
「旦那様、次の書類をお願いします」
執事のセバスが、無機質に思考の遮断を告げる。その淡々とした声が、エリオンの注意を再び書類の山へと引き戻した。
セバスという完璧な執事の存在が、図らずもエリオンの思考を鈍らせている。彼が今、自分の家族を通じて、世界を変えるほどの「美の革命」の火種を、自ら手元から放り出してしまったことに気づく由もなかった。




