狂気の植物学者と、休息の代償
1.残された希望の種火
リアナたちの姿が広場から消えても、そこには言葉にならない澱のような空気が停滞していた。嵐が過ぎ去ったあとのような静けさ。しかし、確実に何かが変わり始めていた。
「俺には、幼い子供が居るんだ……。ここから抜け出せるなら、なんでもする……」
誰かの一言を皮切りに、広場に潜んでいた住人たちの顔に、微かな、しかし抗いがたい「光」が灯り始めた。これまでカロルという独裁者に支配され、思考することを放棄していた彼らの胸に、リアナが植え付けた「自分たちの人生は自分たちのもの」という呪文が、鈍く、しかし確実に脈動していた。
カロルは怒りに震えながら周囲を睨みつけたが、かつてのような恐怖による統制は、もはや効力を失いつつあった。彼が失ったのは、広場そのものではなく、住人たちの「諦め」という盾だったのだ。
スラムを後にしたリアナは、冷静に現実的な駒を動かす。
「ゼノ、スラムの人達の長屋を七日で完成させてちょうだい」
ゼノは静かに目を閉じ、覚悟を決めたように頷いた。
「畏まりました。……全力で」
リアナは満足げに頷くと、ふと思い出したかのように言葉を継いだ。
「ああ、あと夫人に相談があるの。今度伺うと言っておいてちょうだい」
「え……?」
ゼノの背中を、氷のような悪寒が走った。妻のカエラが、リアナに対してどれほどの嫌悪感を抱いているか。それを承知の上での「相談」という名の、あるいは「宣戦布告」にも聞こえる言葉に、ゼノは言葉を失った。
リアナはそんなゼノの困惑などお構いなしに、馬車に乗り込む。
「じゃあ、帰るわよ」
2.異様な熱気、工房の夜
馬車が伯爵家の邸宅へと戻る道中、リアナの思考はすでにユーグの工房へと飛んでいた。
(石鹸くらいはできているかしら)
意気揚々とそのまま工房へ直行しようとするリアナだったが、隣に座っていたエリーが容赦なくそれを阻んだ。
「お嬢様、一旦戻ってお着替えをしてください」
「あら、このままでいいわよ? ユーグに会いに行くだけだもの」
「ダメです!」
エリーは普段の冷静な表情を捨て、鬼の形相で詰め寄った。
「泥と埃にまみれたスラムから帰ってきて、そのままのドレスなんて! 令嬢としての自覚を持たせろと、当主からも厳しく言われております!」
「あら、合理的じゃないわ」
「合理性よりも、今は令嬢としての『品格』が優先されます! ユーグさんに会いに行くのも、泥を落としてからです!」
早く試作の進捗を聞きたいというリアナの焦燥と、令嬢としてのあるべき姿を求めるエリーの鉄壁のガード。伯爵家の馬車の中では、石鹸革命とは別の、小さな戦いが繰り広げられていた。
リアナは観念したように溜息をつく。
「……分かったわよ。着替えればいいんでしょう、着替えれば!」
彼女が次に着替えるのは、令嬢のドレスか、それとも再び「魔王」としての戦闘服か。どちらにせよ、ユーグが待ち受ける工房は、革命の爆発を待っていた。
「ユーグ、試作は進んでるかしら」
着替えを済ませたリアナがエリーたちを伴い、ユーグの工房へ足を踏み入れると、そこには異様な光景が広がっていた。ユーグは机に向かい、何かをぶつぶつと呟きながら座り込んでいた。リアナの気配に気づき、彼が勢いよく振り返った瞬間、そのあまりに高揚した表情にリアナは一瞬たじろいだ。
「あ、リアナ様! 見てください、ついにできました!」
ユーグが差し出したのは、整然と並べられた五つのサンプルだった。
「こちらから石鹸、ハンドクリーム、シャンプー、リンス、そして香水になります!」
リアナは一目見て、その完成度の高さに驚かされた。しかし、ユーグのテンションは明らかに異常だった。
「……ユーグのテンションがおかしいわね。まさか、植物に精神作用のあるものでもあったのかしら?」
リアナの呟きに、エリーが横から冷静に補足を入れる。
「リアナ様、多分ですが……単に寝てないだけだと思います」
「……帰ってきてから一睡もしてないなんてことは……寝てないわね」
「おそらく……」
ユーグの目の下には、くっきりと深い隈が刻まれていた。
「これはヤバイわね」
「ヤバいですね」
リアナは即座に判断を下した。
「エリー、ユーグにあれを入れた紅茶を入れてあげて」
「畏まりました」
エリーが工房を後にし、厨房へ向かう。エリーが出ていったことにも気付かずユーグは、限界を超えた覚醒状態で成分の説明を早口でまくし立て始めた。
「まず石鹸ですが、泡樹草、油滴草、ミルクリーフ、ゆずレモンのエキスと、ビックの粘液を混ぜて煮込み、固めました!」
「ハンドクリームは、絹結草とビックの粘液を混ぜています!」
「シャンプーは?」
「泡蔓草とミルクリーフのエキスを、ぬめりの出る滑葉草に混ぜました!」
「ビックの粘液と滑葉草で粘りを出したのね」
「はい、その通りです!」
ユーグは身を乗り出しながら続ける。
「リンスには、ビックの粘液と絹結草、それから一万倍に薄めた月香蜜を混ぜました!」
「泡樹草と泡蔓草の違いは何かしら?」
「そこに気づきましたか! さすがリアナ様です!」
ユーグの目がさらに輝く。
「泡樹草は泡が大きく、泡蔓草はきめ細かな泡になります!」
「絹結草にはどんな効果があるの?」
「髪をコーティングし、手触りを良くする効果があります!」
「そ、そうなのね……」
リアナでさえ少したじろぐほどのハイテンションだった。
「香水には、一万倍に薄めた月香蜜と清酒草、それに精製水を使用しています!」
「清酒草は揮発性が高いのね」
「その通りです!」
「……何か調子が狂うわね」
リアナは小さく呟いた。
「素材の概要は大体こんなところね」
泡樹草―擦ると大量の泡が出る植物。
油滴草―搾ると油が取れる植物。
ミルクリーフ―殺菌作用を持つ植物。
ゆずレモン―爽やかな香りを持つ果実。
ビックの粘液―保湿と補修効果を持つ素材。
絹結草―コーティング効果
清酒草―揮発性が高い
「ユーグ、悪いのだけれど、私用に香りのない物も作ってくれるかしら?」
前世で料理人だったリアナは、香水や強い香りのあるものをほとんど使ったことがない。その理由は、料理人にとって嗅覚は大切な感覚であり、少しでも鈍る可能性があるものは避けていたのだ。
「はい! お任せください!」
「あと、睡眠をしっかり取ってちょうだい」
するとユーグは急に勢いを失った。
「あ、はい……。寝ようと思ってお風呂に入るんですが、なぜかそのたびに新しい案が浮かんできてしまいまして……」
「はぁ……それは典型的な寝不足の研究者ね……」
リアナは溜息をつき額を押さえた。
3.終わらない検証ループ
「ユーグ、試作は自分でも試したの?」
リアナの問いに、ユーグは目を輝かせて即答した。
「はい! 試作を何度も自分で試しました! 泡立ちや使用感を確認して、そのままお風呂に入って検証して……。そこから新しい構想が次々に浮かんで、また試作して、の繰り返しでした!」
(……お風呂で目が冴えて、検証で高ぶって、また試作。これでは寝られないはずだわ。完全に負のループに陥っている)
リアナは呆れを通り越し、少しだけ同情を覚えた。技術者としての情熱が、彼の心身を内側から焼き尽くそうとしている。
「とにかく、私も試したいからこのサンプルは預かっていくわね」
「はい! ぜひ! ぜひお試しください!」
(このテンション、本当にキツイわ……)
リアナは引きつった笑顔で頷き、次なる指示を出す。
「あと、同じサンプルを四セット作ってくれるかしら」
「分かりました! すぐに取り掛かります!」
ユーグが再び狂気的な熱量で椅子に座ろうとした、その時、工房の扉が開き、エリーが待望の紅茶を運んできた。
「ちょうどよかったわ。ユーグ、紅茶でも飲んで少し落ち着いて」
リアナに促され、ユーグは半ば強制的に椅子へと押し込められた。エリーは手際よくティーカップに紅茶を注ぐと、そこへ慎重に「月香蜜」を一滴だけ垂らし、静かにかき混ぜる。
その瞬間、工房内の空気が一変した。
鼻腔をくすぐる、濃厚で甘美な月香蜜の香りが空間を満たす。鎮静作用を強く含んだ月香蜜の香りは、ユーグの張り詰めた神経を強制的に緩めていく。
「あ……あぁ……」
カップから立ち上る湯気を吸い込み、一口含んだユーグの表情から、獣のようなギラつきがスーッと消えていった。重たい瞼がゆっくりと閉じ、彼は椅子に座ったまま、深い眠りへと落ちていく。
「ふー、助かったわ」
「ええ、少し休息が必要なようです」
リアナは、机に突っ伏した技術者を一瞥し、ため息をついた。
「すぐにここから出ましょう。ユーグが起きるまで静かにさせてあげないと」
リアナは、サンプルを慎重に鞄にしまうと、そそくさと工房を後にした。
背後で眠るユーグは、幸せそうに口元を緩めている。だが、リアナにとっては、これからが本番だった。
(これで石鹸、シャンプー、リンス……髪と肌の美しさを変える準備は整ったわ。次は、女の武器を使ってもらう為にお披露目ね)
外の空気を吸い込みながら、リアナの思考は既に次の戦略へと切り替わっていた。
リアナはオルフェウス伯爵領の経済を、かつてない速さで塗り替えようと躍動する。
リアナの背中を見た、エリーが少しだけ心配そうな顔をする。
「お嬢様、あまりご無理をなさらないでくださいね」
「分かってるわ、エリー。私はまだ、これから見たい景色がたくさんあるの」
夕闇が近づく領地の道を、リアナは自信に満ちた足取りで歩いていった。その手には、世界を洗練させるための五つのサンプルが握られている。




