広場の支配者と、覚醒する意志
1.怒号をかき消す宣告
「話し合い」という名の下、広場を支配したのはリアナの一方的な通告だった。
「まず、ここにいる全員には、現在建設中の村へ移ってもらうわ。あわせて建築中の工房で働いてもらう予定よ」
広場は一瞬にして騒然となった。リアナが放った「移動」と「労働」という言葉に対し、飢えと不信に蝕まれた住人たちから、怒りの咆哮が上がる。
「ふざけるな! 俺たちをどこへ連れて行く気だ!」
「そんな提案、誰が飲むか!」
しかし、リアナは耳を貸さない。彼女はまるで、嵐の中で静かに読書をするかのような態度で、淡々と労働条件を告げた。
「工房の給金は一日銀貨四枚。そこから税率四〇パーセントと村の共益費一〇パーセントを差し引き、手取りの銀貨二枚を支払います。週休二日制、実働八時間。……ああ、昼食は無料よ」
それはスラムの住民たちにとって、死と隣り合わせの生活からすれば夢のような条件だった。だが、長年商人や雇い主たちから搾取され続けてきた彼らは、その「良すぎる条件」こそが罠だと確信していた。
「どうせ俺らをまた騙す気だろ!」
「そうだ! お前らがよくやる、裏のある契約書だ!」
男が叫ぶと、広場全体が同調する。彼らの目にはリアナが、自分たちの無知を食い物にする冷酷な貴族の筆頭に見えていた。
スラムの住人の言葉にリアナの表情が一変した。これまで纏っていた伯爵令嬢としての仮面が滑り落ち、代わりに浮かんだのは、冷たく、そしてゾッとするほど美しい「悪魔の微笑」だった。
彼女は、先ほど怒鳴った男のもとへ、ゆっくりと優雅に歩を進めた。ヒールが土を踏みしめる乾いた音が、静まり返った広場に響く。
顔を強張らせて後退りする男を見下ろし、リアナは低く囁いた。
「騙された……と言ったのは貴方かしら」
「お、おう……そうだ。以前、別の商人に条件を聞かされて契約書を書いたのに、蓋を開ければ給金は半分以下だったんだ!」
男の告白に対し、リアナは背後に控えるエリーに視線を流した。
「エリー。どこの雇い主か聞き出して。……厳正に対処してちょうだい」
エリーは表情一つ変えずに頷いた。
(あ、リアナ様、完全に怒ってますね)
リアナの怒りの本質は、住民が騙されたことそのものではない。契約書を交わしておきながら給金を半分以下にするということは、帳簿上では「全額支払った」ことにし、その差額分を商人や雇い主側が隠匿しているということだ。
それは単なる詐欺ではない。領主に納めるべき税金をネコババする、明らかな「脱税」である。
「他にも似たような目に遭った人がいるなら、全員聞き出しておいて。私の領内で税をくすねるようなネズミは、一匹残らず排除しないと気が済まないわ」
リアナの言葉を聞いた住人たちは、当惑していた。
彼らは「騙された自分たちを哀れんでくれる」ことを期待していたのに、現れたのは「脱税を見つけて激怒する魔王」だったのだから。
「皆、勘違いしないで。私は別に、貴方たちに施しに来たわけじゃないわ」
リアナは広場を見渡しながら、勝ち誇ったように宣言した。
「貴方たちのような『無知で貧しい労働力』を騙して小銭を稼ぐような下劣な商人や雇い主のような人間が、私の領地にいるのが許せないだけよ。……私の工房で働くなら、契約は絶対よ。税も、報酬も、一銭の狂いもなく計算する。それを証明するために、私に逆らうゴミのような商人や雇い主たちを、まずは法的に潰してあげるわ」
彼女は彼らを「救済」の対象としてではなく、自分のシステムを構築するための「資産」として語った。
だが、その傲慢なまでの正しさが、今の住人たちには、何よりも信頼できる力として映った。
リアナ劇場は、観客(スラムの住民)の心を、絶望から好奇心、そして畏怖へと確実に塗り替えていた。
2.疑念の渦とカロルの扇動
広場の空気が、鈍い金属音を立てるように軋んだ。
「本当に信じていいのか?」
「また後で『あれは間違いだった』なんて言われて終わりだぞ!」
期待という名の蜜に触れようとして、不安という名の防壁に弾き返される。スラムの住人たちは、長年の搾取によって「希望」というものを信じる能力を奪われていた。
そこへ、彼らを束ねていた代表の男・カロルが、住人たちの前へ躍り出る。
「そうやって騙すんだろ! こいつらがよくやる手口だ! 最初に甘い蜜を吸わせて、後から全部むしり取る気なんだよ! 騙されるな!」
カロルの叫びは、住人たちの心の底にある恐怖を的確に突き刺した。彼らにとって、変化は「破滅」と同義だったからだ。
リアナは、真っ赤になって喚くカロルを、まるで道端の石ころでも見るような冷ややかな目で見下ろした。
「貴方がカロルさんね」
「お、おう、そうだ! 俺がこのスラムの……」
「一つ言っておくわね」
リアナは彼の言葉を遮り、その場にいる全員が震えるような、冷徹で静かな声を響かせた。
「――貴方の意見なんて、どうでもいいの」
広場が、水を打ったように静まり返った。
「なっ……! て、てめえ!」
カロルが顔を真っ赤にして拳を振り上げるが、ラウルとロバートが瞬時に間合いを詰め、その殺気だけでカロルを威嚇した。
リアナはカロルを完全に視界から消し去り、その背後にいる住人たち一人ひとりを射抜くように見つめた。
「全員、よく聞きなさい!」
リアナの声には、令嬢の嗜みなど微塵もなかった。あるのは、絶対的な支配者としての意志のみ。
「誰かの発言――それがどれほど親しい隣人だろうと、この傲慢な自称代表であろうと――そんな他人の言葉で、自分の人生を決めるのはもうやめなさい!」
住人たちは息を呑んだ。彼らはこれまで「飢え」と「指導者」の言いなりになることだけが生存戦略だと教えられてきた。その依存を、リアナは容赦なく否定した。
「貴方たちが奴隷のような扱いを受けていたのは、貴方たちが『黙って従うこと』を選び続けてきたからよ。私を疑うのは勝手。でも、疑って飢え続けるのか、それとも契約を信じて工房で銀貨を稼ぐのか……それを選ぶのは、貴方たち自身の意志のはずよ」
リアナは一歩、住人たちへ歩み寄る。
「自分たちの人生は、自分たちのものよ。誰かに捧げるものでも、誰かに決めてもらうものでもない。……さあ、どうする? カロルの命令に従ってこの腐った広場で一生を終えるか、私の工房で自分の対価を手に入れるか」
カロルの顔から血の気が失せていく。
リアナが放った言葉は、彼らが隠し持っていた「自尊心」という名の小さな残り火に、油を注ぐ行為だった。
「選ぶなら、今この瞬間よ」
広場の中心で、リアナは女王のように言い放った。住人たちの視線が、カロルから、銀貨を約束するリアナへと、ゆっくりと、しかし確実に移り変わっていった。
3.揺らぐスラムの住人たち
「本当に……このままここで死ぬまで飢えるだけなのか?」
「あっちの工房に行けば、本当に銀貨が手に入るのか……?」
広場には、静かな動揺が渦巻いていた。カロルという名の重石に押さえつけられていた住人たちの心に、リアナの言葉という楔が食い込んだのだ。彼らの目は、もはやカロルではなく、圧倒的な気品と冷徹な実利を提示するリアナに釘付けになっていた。
リアナは、彼らが即座に答えを出せないことを最初から予見していた。長年かけて染み付いた「思考停止」は、一言二言で矯正できるものではないからだ。
「今すぐ決めろとは言わないわ。七日間の猶予をあげる。それまでに自分自身の意志で決めなさい」
リアナは穏やかに、しかし逃げ場のない宣言を下した。
「明日から毎日、この広場に炊き出しを用意するわ」
住人たちの顔に安堵の色が浮かぶ。しかし、続くリアナの言葉が彼らの希望を冷たく切り裂いた。
「但し、条件があるわ。……食べられるのは『移住希望者』と『子供』のみよ」
その瞬間、広場が凍りついた。カロルが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「な! ふざけるな! 俺たちを飢えさせて殺す気か!」
リアナはカロルを一瞥もせず、冷ややかに言い放つ。
「あら、勘違いしないで。これは貴方たちへの慈悲や施しではないわ。移住を決めた貴重な労働力と、未来ある子供たちに、ここで死なれては私の損失になるからよ」
彼女は悪魔のような笑みを浮かべた。
「移住しないという選択は、貴方たちがこの腐ったスラムでの生活に『満足している』と解釈するわ。満足している人間に、わざわざ施しをする必要なんてないでしょう?」
リアナは護衛たちに指示を飛ばした。
「ロバート、明日から毎日、アロンと一緒に昼と夜、炊き出しをして頂戴。必ずその場で食べさせなさい。持ち帰りは不可よ」
「畏まりました」
屈強な騎士が、一歩前に出た。ロバートが鋭い眼光で広場の住人たちを威嚇するように見渡す。その眼光だけで、カロルの周囲にいた男たちが一斉に後ずさりした。
「それから、移住者は名簿に家族全員の名前を書いてもらうわ。名前を書けないなら代わりにロバートに書いてもらいなさい」
リアナは最後に、会場全体を凍りつかせるトドメの一撃を放った。
「最後に、みんなに忠告しておくわね。ロバートとアロンから炊き出しを強奪しようとなんて考えないことよ。彼らに手を出した者は、完膚なきまでに叩き潰されるから」
彼女は微笑んでいた。まるでお菓子を配るかのような慈愛に満ちた表情で。
しかし、その瞳の奥にあるのは、獲物を狩る捕食者の冷徹さだけだった。
「それと、移住を妨害する行為――誰かを脅したり、名簿への記入を止めたりするような行為を見つけた場合は、伯爵家への反逆行為とみなすわ。……拘束、最悪の場合は死罪ね。いいわね?」
スラムという名の泥沼において、リアナ・ド・オルフェウスは、ただの令嬢から、住人たちの「生殺与奪の権」を握る絶対的な支配者へと変貌を遂げていた。
明日からの七日間、この広場で行われるのは炊き出しではない。
誰が生き残り、誰が切り捨てられるのか。その残酷なまでの「人生の選別」が、今、始まったのである。




