スラムの狙いと、砂糖の閃き
1.改革のピースと、不穏な決断
ミルフォード子爵家が消滅したことはリアナにとってどうでもよい話であった。
石鹸の開発をユーグに託し、リアナは次なる重要課題――「人員確保」へと着手した。工房の本格稼働には、使い捨てではない、信頼できる長期的な労働力が必要不可欠だ。
執務室で父・エリオンに対し、リアナは冷静に告げた。
「お父様、密芋糖とゆずレモンの工房の人員確保の為、スラムに行ってきます」
エリオンは眉間に深い皺を寄せ、難色を示した。スラムは治安が悪く、貴族の令嬢が足を踏み入れていい場所ではない。
「スラムの人間以外ではダメなのか? まっとうな領民を雇うべきだ」
リアナは前世の記憶をなぞり、首を横に振る。
「かなりの人数が必要になります。この街で、手の空いているまっとうな領民など居ませんわ。誰もが生きるために働き詰めの状態。今、誰かを引き抜けば、既存の商店や農家を圧迫するだけです」
この世界は、前世よりも過酷だ。働ける年齢になれば、たとえ子供であろうと、老いていようと、生きるために働かねばならない。リアナの言葉には、現状を俯瞰する冷徹な論理があった。
「お父様が命令すれば街の人は集まるでしょう。でも、それは短期的な解決にしかなりません。工房は長期で運営するものですわ。人手不足と、放置されたままのスラムの貧困問題。この二つを一気に解決する。やる価値は十分にあります」
エリオンは、なおも懸念を捨てきれない様子で問いかけた。
「論理は分かった。だが、お前が直接行く必要があるのか?」
リアナの答えは明確だった。
「命令で人を動かせば、必ず『わだかまり』が残ります。心からの忠誠がない者を、私の工房――食を担う大事な工房で働かせることは出来ませんわ」
リアナには、前世の記憶から学んだ絶対的な信条があった。食に携わる人間が不満を抱えれば、魔が差して何かが混入されるかもしれない。信頼とは一瞬で地に落ち、二度と戻らない。
「お父様、信頼を築くには、自ら足を運び、彼らの『生活』を変える意志を見せなければならないのです」
エリオンは溜息をつき、娘の決意の固さを悟った。
「……分かった。だが、細心の注意は払え。お前に何かあれば、エリーや付き従う者たちの命にも関わるぞ」
「はい、ありがとうございます。お父様」
リアナは恭しく一礼し、執務室を後にした。
扉を閉めたリアナの表情には、一抹の迷いもなかった。
エリーが背後で心配そうな顔をしているのに気づくと、リアナはふわりと微笑んだ。
「朝食を食べたら出かけるわよ、エリー」
「お嬢様、本気ですね……。本当にスラムの住民を工房に?」
「ええ。彼らにとっては『明日食うものがない』という恐怖から解放される救済。私にとっては『信頼できる労働力』の獲得。win-winの取引よ」
「ういん、ういん?」
「お互いにとって良いことだってことよ」
リアナは、これから向かう場所が単なる貧民街ではなく、彼女の覇道を支える新たな「戦力」の温床であることを理解していた。
彼女にとってスラムとは、救うべき弱者ではなく、正しく耕せば必ず実りをもたらす「荒地」に過ぎない。
朝食の席で、リアナは箸を動かしながら、スラムで語るべき台詞を頭の中で反復する。
彼女の石鹸が貴族社会を席巻し、密芋糖とゆずレモンが経済を回す時、スラム出身の労働者たちがその「中心」になる。
「さあ、泥の中から宝を拾いにいきましょうか」
優雅に紅茶を飲み干したリアナの瞳には、かつてミルフォード子爵を絶望させた時と同じ、魔王の輝きが宿っていた。
2.緊張の商会と、見えない亀裂
リアナ、エリー、護衛のラウルとロバートは、オルフェウス伯爵領の市街地にあるゼノ商会へと向かった。
リアナの変革が加速するにつれ、ゼノは商会主としての激務に追われていた。しかし、多忙さは家庭に歪みを生んでいた。妻のカエラは、夫が伯爵令嬢の言いなりになり、家庭を顧みないことに不満を募らせ、今はリアナに対しても露骨に嫌悪感を示している。
商会へ到着しても、カエラが挨拶に来ることはなかった。リアナもあえてそこに触れず、事務的に話を切り出す。
「ゼノ、まずは今の状況を教えて」
「はい。スラムの代表であるカロルに今回の移住計画を伝えましたが、非常に強い難色を示しております」
ゼノは苦悶の表情を浮かべた。伯爵令嬢をスラムに入れるという行為が、どれほどの危険を伴うか。それを説得して連れ出すこと自体、命がけの綱渡りである。
「カロル側からは『話し合いはスラムでしか行わない』との一点張りでした。……私としても商会での面会を何度も要求しましたが、頑として聞き入れられず」
ゼノの報告によれば、場所はスラムの中央にある「開けた広場」。そこには、住人全員が集まることになるだろうと予測されていた。
「ふふ、よく考えているわね」
リアナは不敵に微笑んだが、周囲の空気は重かった。ラウルとロバートの表情は硬い。百人を超えるスラムの住人が、生活に不満を抱えた状態で広場に集まる。もしリアナの発言一つで彼らが暴徒化すれば、護衛の数など無力に等しい。
カロル側の意図は明白だった。少人数での話し合いであれば、言葉巧みにリアナに丸め込まれる可能性がある。だが、全員の前で追い詰めれば、リアナといえども反論できなくなる、あるいは脅しが効くと踏んでいるのだ。
「リアナ様、広場での話し合いはあまりにもリスクが大きすぎます。代表のカロルを連れ出すか、せめて護衛を増やすなど……」
ゼノが必死に食い下がるが、リアナはそれを手で制した。
「いいえ、ゼノ。全員の前だからこそ意味があるのよ。私が彼らに見せるのは『支配』ではなく『未来』だもの」
「それに護衛を増やせば警戒感が増して話し合いにならないわ」
リアナには確信があった。彼らはただ、明日という日に絶望しているだけだ。飢えと寒さという暴力的な現実に支配されているカロルにとって、リアナの提示する「労働と賃金」というシステムは、最初は脅威にしか映らない。だが、一度その恩恵を目の当たりにさせれば、彼らを守っているはずの「カロル」という壁は、彼ら自身の力によって崩れ去る。
「もし暴徒化した場合は?」
エリーが小声で問いかける。リアナは優雅に手袋を直すと、冷徹なまでの言葉を返した。
「暴徒化する事は無いわよ。力でねじ伏せるわけではないのよ、私の話を聞いてそれでも嫌だと言われれば、そこで話は終わりよ」
説得でも、屈服でもない。リアナが選んだのは、全員を巻き込んだ「劇」であった。
彼女は馬車へと戻り、スラムという名の巨大な迷宮へ足を踏み入れる決意を固める。
その横顔には、慈悲を装った「魔王」の、冷酷で美しい覚悟が浮かんでいた。
3.思考の脱線
街の隅、腐敗した澱のような空気が漂うスラムの入り口へ向かう馬車の中、リアナの意識は目の前の危機的な状況から遠く離れていた。
(密芋糖の次は白砂糖ね……。遠心分離機はミリアへの発注が済んでいるから、あとは結晶化のプロセスか……)
彼女の脳内では、前世の記憶と現在の技術を融合させた、甘美な革命が進行していた。ろ過と結晶化、そして純化。不純物を取り除くプロセスを反芻しているうちに、ある一つの可能性が脳裏を掠める。
(不純物……分離されたそれ……。あれ? もしかして、これってスラ……いや、さすがにそこまでは……。でも、やれるのかしら……?)
リアナの瞳が、何かを閃いたように怪しく光る。護衛のラウルやロバートが、周囲を警戒して神経を研ぎ澄ませていることなど気にも留めていない様子だ。彼女の頭の中にあるのは、スラムの支配ではなく、貴族社会を狂わせる砂糖の純度についての計算であった。
馬車が止まった。周囲の空気が一変する。
スラムの入り口には、無精髭を生やし、痩せこけた体躯の男たちが数人、獲物を待つ獣のような眼差しで待機していた。
「リアナ様、ここからはご足労いただきます」
ゼノの声には、抑えきれない緊張が滲んでいる。リアナは優雅に馬車から降りた。彼女の周囲だけが、まるで汚濁を拒絶するかのように凛とした気品を放っている。案内されるまま足を踏み入れると、そこには異様な光景が広がっていた。
広場には、百人を超えるスラムの住人たちが、今か今かと待ち構えている。
怒り、不安、空腹、そして野次。それらが混ざり合い、広場は今にも爆発しそうな熱気を帯びていた。
「お揃いね」
リアナは誰に言うでもなく呟くと、誰よりも堂々とした足取りで広場の中心へと進み出た。
彼女の背後では、エリーが髪をなびかせ、護衛たちがいつでも武器を抜ける態勢をとっている。
広場に集まった住人たちが、言葉を失った。
彼らが想定していたのは、怯える令嬢か、あるいは威圧的な貴族の姿だった。しかし、目の前に現れたのは、そんな既存の枠組みを無視して、まるで自分の庭を散策するかのような余裕を見せる、冷徹なまでの美女だった。
「さて」
リアナは広場を見渡すと、静かに、しかしスラムの奥深くまで響き渡る声で口を開いた。
「皆さんの『不満』を聞く前に、先に私の『提案』を話させてもらうわ。……文句があるなら、それから言いなさい」
その言葉は、交渉というよりも宣告に近かった。
数人の男が飛び出し、広場が騒然とし始める。しかし、リアナは全く動じない。彼女がその場に立った瞬間、スラムの空気が一気に張り詰めた。
リアナ劇場の開演だ。
今、この場所で、彼らの絶望を「労働」という名の甘い砂糖で塗り替える、最も残酷で、最も慈悲深いドラマが幕を開けたのである。




