偽りの証と、王太子の変貌
1.滅びの因果
ハオンの暗殺未遂という火種は、わずか五日間で燎原の火のごとく広がり、ミルフォード子爵家という巨大な建築物を灰へと変えた。
王太子暗殺未遂、そして国家反逆罪。これほどまでに明快かつ重い罪状が突きつけられれば、家名の存続など望めるべくもない。
ミルフォード子爵家は、法廷での弁明の余地すら与えられず、歴史の闇へと消え去った。彼らの治めていた広大な領地は、一族の罪を清算するため、一旦は王室直轄として国によって没収・管理されることとなったのである。
王都の貴族街では、事の顛末を聞いた者たちが皆、一様に首を傾げていた。
「なぜ……料理を学びに行かせただけで、領地が滅ぶんだ!」
ある貴族が、理解しがたい現実に声を荒らげた。それが、事の真相を知らぬ者たちの正直な感想であった。彼らにとって、ミルフォード家は、王家が「料理の修行」という些細な動機でリアナの元へ人を送り、そのまま運悪く不敬を働いてしまった哀れな家系に見えていたのだ。
しかし、事態を少しでも知る者たち――王太子ハロルドの憔悴した顔を見た者、あるいはコロン村で何が起きたかを知る者たちは、ただ静かに戦慄していた。
リアナ・ド・オルフェウス。
彼女を怒らせれば、どんな強大な勢力であっても、芯命樹のゆずレモンの雨に飲み込まれ、最後には「わがまま魔王」からの社会的な死、あるいは物理的な終焉を迎える。
「料理? いや、あれは彼女の人生という名の『劇場』に、たまたま出番を間違えて入ってしまった哀れな脇役たちが消されただけのことよ」
ある社交界の夫人は、冷や汗を流しながらそう語った。
ミルフォード子爵領が没収されたというニュースは、オルフェウス領から遠く離れた王都の貴族たちにとっても、忘れられない「恐怖の教訓」となった。
2.刻まれた「偽り」の代償
執務室で、父エリオンはリアナに静かな声で語りかけた。
「ミルフォード子爵の国家反逆罪……その決定的な要因は、左手の甲にある紋章だ」
領主としての資格を証明する「選定の紋章」。それは十歳に達した者が領地の聖域に認められた時のみ浮かび上がる、神聖な証である。聖域に認められぬ者は領主の座に就けず、万が一、聖域に仇なす者と判断されれば、その紋章は消え去る。
「いつ頃かミルフォード子爵家には黒い噂があったが、特に調べるわけでもなくやり過ごしていた。今回の件で調べた所、聖域からは疾うの昔に見限られていた事が分かった」
「代々自身の権威を保つためにあろうことか『紋章を特殊な技法』で手の甲に刻まれたものだったのだ」
偽りの紋章。それは領主という立場を冒涜するだけでなく、領地の聖域を欺こうとする、国に対する最大級の冒涜であった。それが判明した瞬間、彼の運命は確定した。
リアナは興味なさげに紅茶を一口啜った。
「あら、そんなこと……どうでもいいわね。偽物で誤魔化すなんて、みみっちい領主だったことだけは分かったわ」
ただ、リアナには一つだけ気がかりなことがあった。
「お父様、あの場にいたミルフォードの兵士たちはどうなるのですか?」
「王太子殿下への不敬罪、および暗殺未遂の共犯として厳罰に処されるだろう」
リアナは眉をひそめた。
「殿下を見分けるなんて不可能なことですわね。そもそも会ったこともない人物を見分けるなんて不可能ですもの。ただでさえ、あの殿下には威厳も覇気も足りないのですから」
(うわー……さらりと王太子殿下への不敬発言ですよ!)
控えていたエリーは、リアナの涼しげな表情で行われる毒舌に、心の中で必死に突っ込みを入れる。しかし、リアナは真顔だった。
「兵士たちには温情を与えてください。罪を『王太子暗殺未遂』ではなく、『オルフェウス伯爵家に対する不敬罪』に変えてもらえませんか。罰則は二割減給を六回でお願いします」
エリオンは驚いたように娘を見る。
「それだと、兵士たちがつけ上がるのではないか? 伯爵家に剣を向けた罰としては軽すぎる」
リアナは父の目を真っ直ぐに見つめ、論理を組み立てる。
「お父様がもし、どこかの領を『理不尽な理由』で侵略すると命じた時、オルフェウスの騎士たちはその命令を拒否できますか? 出来ないでしょう? 領主の命令は絶対……この世界では、どんなに理不尽な命令でも兵士には拒む権利がないのです」
リアナは、コロン村での出来事を思い返した。兵士たちは剣を抜く直前、確かに迷い、困惑していた。
彼らはミルフォード子爵の恫喝という暴力的な圧力に屈しただけの、言わば被害者でもあったのだ。
「彼らはただ、運悪く『無能な主君』に仕えてしまっただけ。不敬罪に落としてから救い上げるのが、領主として、そして戦う者たちへの最低限の礼儀だと思いますわ」
エリーは、リアナがただのわがままな令嬢ではないことを、改めて思い知らされていた。彼女は敵を滅ぼす時は容赦ないが、その配下や「道具」となるべき存在には、驚くほど冷静な慈悲を見せる。
エリオンは深く考え込み、やがて小さく頷いた。
「……分かった。法的手続きを調整しよう。だが、二度と我々に刃を向けることがないよう、厳重な監視下に置くぞ」
「ええ、それで構いませんわ。伯爵家からは、その様にお伝えください。あと、最終判断はハロルド王太子殿下に任せますと付け加えてください」
リアナは冷めた紅茶を置くと、再び書類の山へと向き直った。
ミルフォード領という一つの駒が消え去ったチェス盤の上で、彼女はすでに、次の「盤面」を塗り替えるための準備を始めていた。
3.王の判断、王太子の受難
王の執務室に、オルフェウス伯爵からの信書が届けられた。
内容は、反逆罪に問われたミルフォード子爵の旧兵士たちに対する、「不敬罪への減刑」という異例の嘆願であった。
「うむ、元ミルフォード子爵の兵士に温情か……」
王は信書を読み終えると、傍らに控える宰相に問いかけた。
「どう思う?」
「確かに論理的です。王都から兵を割くよりも、手慣れた地元の兵をそのまま罪人として監視・更生させた方が、国庫の負担も減るでしょう。しかし、法を曲げれば示しがつかぬのも事実……」
王は頷きながら、信書の最後の一文に目を留めた。
『――兵士の処分につきましては、今回の件の当事者であるハロルド王太子殿下のご判断にお任せいたします』
「……丸投げか。いや、これはリアナ嬢なりの、ハロルドへの試練だな」
王は直ちにハロルドを召喚した。しばらくして現れたハロルドの顔には、かつてのような傲慢さはなく、どこか疲れと重圧が同居していた。王は無言で信書を手渡す。
内容に目を通したハロルドは、しばし沈黙したのち、静かに答えた。
「私はそれで構いません」
「他者になめられるぞ?」
王の問いかけに対し、ハロルドは自虐的な笑みを浮かべた。
「……もう、なめられております」
ハロルドは、ミルフォード子爵に自分の正体に気づかれなかったという屈辱の事実を、包み隠さず王と宰相に語った。
「私のことをミルフォード子爵は、王太子だと見抜けなかった。その私と会ったこともない兵士たちに『私が王太子だと気づけ』と求めるのは無理がある。兵士たちは、ただオルフェウスの令嬢に対して不敬を働いた……その罪で十分です」
それは、かつての「威厳なき王太子」には到底できなかった、自己の無能と向き合うという残酷な告白だった。
最後にハロルドは深く、長く一礼した。
「私が未熟なため、このような事態を招きましたこと、大変申し訳ありません」
背筋を伸ばし、淡々とその場を後にするハロルドの背中を見送りながら、王と宰相は小さく頷き合った。
「あいつ、変わったな」
「ええ、いい傾向ですね。あのリアナ嬢の毒気に当てられ、ようやく『自分』という人間が見えてきたのでしょう」
執務室の重苦しい空気から解放され、回廊に出たハロルドは、自然とあの日、コロン村の入り口で起きた光景を思い出していた。
土の匂い。
吹き荒れるゆずレモンの旋風。
そして――。
「……ッ!」
リアナに強引に首根っこを掴まれ、羽交い締めにされ、地面に押し倒されたあの瞬間の感覚。至近距離で見つめられた瞳、胸元から漂った甘酸っぱい香りと、頬に感じた彼女の鼓動。
自分が「若造」呼ばわりされ、地面を這いつくばり、さらにはリアナの胸元に顔を埋めるという、王太子としての人生で最も恥ずべき、しかし強烈に記憶に焼き付いた光景。
「クソ……!」
ハロルドは誰もいない廊下で一人、真っ赤になった顔を両手で覆った。
それは怒りなのか、恥辱なのか、あるいはリアナに対する得体の知れない感情なのか。
かつての「威厳なき王太子」は、リアナという名の「毒」を飲み込み、今、確かに人間としての成長痛に悶えていた。




