悪魔の賭けと、護衛のハロ
1.ポチという名の解決策
執務室の空気が、沈黙と緊迫感に支配される。
「さすがに、大量の馬車を引き連れていくのはまずいわね」
リアナは思考を巡らせる。確かにハロルド王太子を伴えばミルフォード子爵領の兵士たちも強硬な手段は取れないだろう。しかし、大量の馬車を引き連れての移動は、敵側に『大規模な避難計画』を悟らせ、かえって無用な警戒と妨害を招く恐れがあった。
「だからといって、ミルフォード子爵領に入った後で馬車の手配も期待できないぞ」
エリオンの指摘はもっともだった。敵地での馬車の調達は、望めないだろう。
「さらに徒歩で移動となると……コロン村からオルフェウス領までは、大人でも一日以上かかる。子供や老人を連れての強行軍は、あまりに過酷だ」
エリオンが地図を広げ、険しい表情で告げる。
ミルフォード子爵領の現状を考えれば、道中で兵士たちに囲まれるリスクは高い。
「うーん……かなりリスクが高いわね」
リアナたちが頭を抱えていると、窓の外からシャカシャカと心地よい音が響いた。ポチが枝をリズミカルに揺らしていたのだ。
その音を聞いた瞬間、リアナの表情がパッと晴れやかになった。
「あら、問題無さそうね」
「……何か良い案でも思いついたのか?」
エリオンの問いに、リアナは自信満々に微笑む。
「はい! ポチに任せます」
「ん? どういうことだ?」
「何とかなるということですわ」
なんの論理的説明にもなっていないが、リアナの自信に満ちた表情には迷いがない。ポチが関われば、常識を超えた「何か」が起きる。彼女はそう確信していた。
2.王太子のプライドを揺さぶる「賭け」
次に、リアナは標的をハロルドへと切り替えた。
「ハロルド殿下、貴方はミルフォード子爵と会ったことはあるのかしら?」
「あ、ああ、数回会ったことがある」
「なら、賭けをしませんか? ミルフォード子爵がハロルド殿下だと気づくかどうか」
ハロルドは警戒心で身を硬くする。
「そんなもの賭けにもならん!気づくに決まっておる!」
「私は、気づかないに賭けますけど」
その言葉に、ハロルドは顔を真っ赤にして叫んだ。
「な! 貴様、どれだけ我を愚弄すれば気が済むのだ!」
「あら、アロイスにすら気づかれなかったじゃないですか。要するに、殿下には『威厳』がないのよね」
ハロルドのプライドは完全に傷つけられた。
「そこまで言うならいいだろう! ミルフォードが私に気づいた場合、ハオンの件をその場で謝罪しろ! 」
リアナが『ふふふ』と優雅に微笑んだ瞬間、エリーの背中にゾクリと悪寒が走った。
(リアナ様……また『悪魔の微笑』が出てますよ。殿下、その賭けは絶対に地獄行きです……)
「話がまとまったので、まず先触れを出してミルフォード子爵と兵士をコロン村に集めましょう」
「いいだろう!謝罪を忘れるな!」
リアナは事務的に指示を出し、ハロルドに書状を書かせた。内容はいたってシンプル、『明日、コロン村へ視察に行く』というものだ。
ハロルドがミルフォード子爵への書状を書いている横でリアナは、ゼノへ宛てた手紙を書いた。
『移住計画が前倒しになったわ。悪いけれど明日までに、コロン村の長屋を完成させてちょうだい』
手紙を受け取ったゼノは、建設地へと全速力で駆け出した。
その夜、オルフェウス邸の食卓には、あのアヒージョとオニンスープが並んだ。
極上の香りに包まれる中、ハロルドはこれから待ち受ける「恥辱の賭け」の結末を想像することもできず、ただ料理のあまりの美味しさに、今日二度目の放心状態へと陥っていた。
翌朝のオルフェウス伯爵家は、早朝から戦場のような慌ただしさに包まれていた。
コロン村までの護衛にはラウル、ロバート、アロンといった精鋭が名を連ね、ハロルド王太子には王都から追従してきた三人の護衛騎士がつく。
リアナは、豪華な刺繍が施された王太子の服を見て、ため息交じりに言った。
「ハロルド殿下、そのお召し物じゃ『王太子』って看板を掲げて歩いているようなものよ。どっからどう見ても殿下にしか見えません。そんなんじゃ勝負にもなりませんわ」
「なっ! 貴様、我が威厳を侮るのか!」
「はぁ……話の通じない男ね……とりあえずオルフェウスの騎士が着る『支給品の鎧』に着替えてください」
「それとも、不正をしないと気づかれないほど自信がないんですか?」
ハロルドの顔が、怒りで沸騰する。
「……言わせておけば! いいだろう、我の威厳は服など着ずとも滲み出ておるわ! 着てやろう!」
カチャリ、カチャリと鎧の音が鳴る。
その姿を見て、周囲の騎士たちは皆、リアナと同じ感想を抱いていた。
(……殿下、チョロいわね)
リアナの巧妙な誘導尋問に、ハロルドは自分から王太子の威厳を捨てていく。
「あとは髪の色ね、さすがに金髪は王家の証になってしまうわ」
リアナの悩みにエリーがスッと前に出た。
「リアナ様お任せください」
そう言うとエリーはハロルドの方へと向かった。
「ハロルド王太子殿下少し髪の色を変えます。よろしいでしょうか?」
「ああ、かまわん」
「ではこちらに来て頂けませんか?」
「なぜだ?この場で魔……」
ハロルドが魔法と言おうとした瞬間、執務室の空気が一気に凍りついた。
室内にいた護衛騎士、侍従、そしてエリオンに至るまで。オルフェウス伯爵家の全員から、殺気にも似た重苦しい圧がハロルドへと向けられた。
リアナは生まれた直後の鑑定で「魔力はあるが、適性属性がない」と診断されている。それからは伯爵家では魔法と言う言葉は厳禁――つまり「タブー」だった。
かつてリアナが度々体調を崩していたのは、偏食だけが原因ではなく、行き場を失った膨大な魔力が体内で停滞し、身体を蝕んでいたからだ。
今でこそポチたちへ魔力が流れるようになり健やかだが、魔法への言及は、一家にとってリアナの苦しみを想起させる逆鱗そのものだった。
ハロルドは喉を鳴らし、言葉を飲み込んだ。
(な、なんだこの殺気は……?)
ただならぬ殺気を感じ取り、ハロルドは大人しくエリーの誘導に従った。
数分も経たないうちに、王家を象徴する鮮やかな金髪は、どこにでもいそうな「くすんだ茶髪」へと変わり果てた。
「リアナ様これでどうですか?」
「ふふ、良いんじゃないかしら。これで誰も殿下とは気づかないわ」
(そもそもこんな格好を私がしたら誰も私だと気づかないと思うんだけど……殿下は何を考えているのかしら)
ハロルドはリアナの圧によって疲弊し考える力は残されていなかった。
3.その名は「ハロ」
「さて、計画の確認です」
リアナは淡々と恐ろしいことを言い放つ。
「王家の馬車には私とエリー。殿下には『護衛役』として乗ってもらいます。……そうね、名前は『ハロ』にしましょうか」
「な、なっ!? ふざけるのも大概にし……ッ!!」
リアナがゆっくりと視線を向ける。その眼差しは、先ほどまでの「生意気な令嬢」のそれではなく、獲物を仕留める捕食者のような冷たさを孕んでいた。
ハロルドは息を呑み、言葉を飲み込む。
「コロン村に着いたら、殿下が先に降りてください。次にエリー、最後に私が降ります」
「殿下が最初に降りた段階でミルフォード子爵が殿下に気づけば殿下の勝ちです」
「……いいだろう! 最初に降りるのだから、ミルフォードはその瞬間に気づくに決まっておる。 そんなもの勝負にもならん!」
ハロルドは勝った気で鼻を鳴らすが、リアナは無表情で釘を刺した。
「……自分から『私は王太子です!』なんてアピールするのは、賭けのルール違反ですからね。あくまでもあなたは『無愛想な護衛のハロ』。もし殿下だと気づかれなかったら……私の願いを一つ聞いてもらいますね」
リアナがまたしても、エリーの背筋を凍らせる「悪魔の微笑」を浮かべる。
リアナは領境までは自分の馬車に乗り領境に着いたら王家の馬車に乗り換える。
「では、行きましょう」
リアナが馬車に乗ろうとするとジュニアがリアナに近づいてきた。
「あら、どうしたのジュニア?一緒に行く?」
リアナの言葉にジュニアは嬉しそうに枝を揺らす。
「クスクス、わかったわ、いらっしゃい」
ジュニアが馬車に一生懸命乗ろうとするが足が短く乗れない。そこへラウルがやって来てジュニアをそっと持ち上げた。
「ありがとうね。ラウル」
「いえ」
ジュニアもお礼を表現する為、枝を揺らした。
準備が整うと、馬車列は領境へと向けて走り出した。
リアナを含め彼らはまだ気づいていなかった。
コロン村という場所が、ポチの「聖域」になっているという事実に、そこへ自分が足を踏み入れようとしていることを――。
馬車の中でリアナは、静かに窓の外を見つめていた。
彼女の手には、ゼノから届いた「長屋計画完了」の報せが握りしめられていた。
「……さあ、化けの皮を剥がすのはどちらかしら」
リアナの呟きは、誰にも聞こえないほど静かだったが、その響きはこれから始まる「粛清」を予感させるには十分な鋭さを帯びていた。




