傲慢な王太子と、地獄の厨房
1.嫌な予感と「鉄のカーテン」
オルフェウス伯爵家に届いた二通の手紙。エリオンが頭を抱えたのも無理はなかった。
一つは、料理長ファルケンを押し付けるという「無茶振り」。
そしてもう一つは、よりによって王太子ハロルドが、護衛を引き連れてやってくるという「災厄の通知」。
「……ハオンの件で王宮がどれほど混乱しているか理解はできるが、なぜ殿下がわざわざ火に油を注ぎに来るのだ……」
エリオンがリアナに内容を伝えると、彼女は冷めた目で鼻を鳴らした。
「王宮の料理長? あの方たちが来ても、私の厨房のルールは変わりません。……それより、殿下ですわね。何しに来るのかしら。ただの嫌がらせなら、門前払いで十分ですわ」
警戒を強める中、ゼノからの報告がリアナの不安を確信へと変えた。
『ゆずレモンの納品が二日間途絶えています』
(……嫌な予感がする)
「ロバート、すぐにコロン村の状況を確認して。……何かあったら、迷わず戻ってきてちょうだい」
ロバートは即座に行商人に変装し、コロン村へと走った。彼が目にしたのは、ミルフォード子爵の私兵によって封鎖された、不穏な村の姿であった。
そんな緊迫した情勢を知ってか知らずか、屋敷の玄関先ではリアナが暇を持て余していた。
「はぁ……スマホがないからいつ来るか分からないのがキツイわね。エリー、暇よ。何か面白いことして」
「何もすることありませんよ!」
ジュニアがいつの間にか足元に現れ、ゆずレモンをリアナに差し出す。そのあまりに自然な(そして空気を読まない)差し入れに、エリーは引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
「あら、ジュニアありがとう」
「じゃあ顔芸なんてどう? ジュニアが持ってきてくれたゆずレモンの匂いを嗅ぎながらなら、変な顔ができそうよ」
「本当に無理です!」
その時、正門から土煙を上げ、威風堂々と王家の馬車と護衛が乗り込んできた。
馬車から降り立ったハロルド王太子は、エリオンの挨拶も待たずに、怒りに満ちた声で吠えた。
「リアナ嬢!! あなたの化けの皮を剥がし、ミルフォード子爵家令息の無実を証明してみせる!!」
伯爵一家は、あまりの馬鹿馬鹿しさに思考が停止した。
リアナは一瞬だけ彼を見たが、即座に「……うーん、バカなのかしら。ほっときましょう」と興味を失い、後ろでオドオドしている中年男性へと視線を移した。
「あら、そちらの方は?」
「あ、あの、王宮で料理長を……ファルケンと言います……」
「あなたがハオンの代わりね。……とりあえず、荷物はそこらへんの雑用係に預けておきなさい。私の厨房は、名声より腕よ」
「は、はいー!」
完全にリアナのペースに飲まれ、ペコペコと頭を下げるファルケン。
自分が無視されていることに気づいたハロルドが、真っ赤になってリアナの視界に割り込んできた。
「俺を無視するな!! 不敬だぞ、リアナ嬢!!」
ハロルドの怒声が響いても、オルフェウス家の人間は誰一人として驚かなかった。むしろ、庭の草木の方がまだ興味深そうに王太子を見つめている。
リアナは、自分の視界を遮るハロルドの頭を、まるで邪魔な置物でも避けるかのように、すいっと横に避けた。
「ファルケンさん、でいいかしら。あなたはハオンのような無能じゃないことを祈っているわ」
「で、殿下は邪魔なんですが何をしに来たのですか?」
ハロルドは鼻で笑う。
「ふん!さっきも言ったであろう!今すぐミルフォード家への謝罪を――」
(……本当に、何しに来たのかしら、この人は)
リアナの瞳から、王太子に対する最後の情けが消えた。
2.厨房への珍道中
「あのー……殿下、邪魔なんですが」
リアナはため息を深くつきながら、目の前で仁王立ちするハロルドを軽く手で払うようにして避けた。
しかし、ハロルドはまるでストーカーのように、厨房へ向かうリアナの背後にぴったりと張り付いてくる。
「俺はリアナ嬢の化けの皮を剝がすまでは離れん! その傲慢な態度、王宮の料理人たちを惑わす術の数々、すべて暴いてやる!」
リアナは振り返りもせず、呆れ果てた声で独り言のように言った。
「バカに付き合うのも大変ね。ファルケンさん、同情するわ」
「……え、あ、はい……」
背後でリアナに連行されているファルケンは、王太子が怒りで顔を真っ赤にしているのを見て、自分の命が尽きる音を聞いた気がした。
厨房に入ると、アロイスが準備万端で待ち構えていた。
「アロイス、ハオンの代わりが来たわ。相手してちょうだい」
「はい、わかりました。……まずは着替えてもらうので、そちらへ」
アロイスは、リアナの後ろで一番威張っている人物こそが「代わりの料理人」だと直感し、強烈な視線をハロルドに向けた。
「ふ、不敬だぞ! 貴様、誰に向かって指図している!」
「……は?」
「クスクス、威厳がなさすぎるわね」とリアナが笑う。
「アロイス、その方はハロルド王太子殿下よ。ハオンの代わりは、その後ろで震えている方よ」
「――え……えっ!? し、失礼いたしましたぁぁぁ!!」
アロイスはガチガチと音を立てて震え、顔面から血の気が引いていく。人生が終了したと確信し、その場に崩れ落ちそうになった。
「アロイス、気にする必要はないわよ。オーラが全くないのだから、誰だって気づかないわ」
「なっ……さっきから私を愚弄しおって!!」
「あら、本当のことを言ったまでよ。……アロイス、気にせずファルケンの着替えをお願いするわ」
リアナはハロルドを空気のように扱い、アロイスは死に体になりながらファルケンを引き連れて調理用具室へと消えていった。
ファルケンが去り、厨房の料理人たちに「仕込みを始めるわよ」と宣言した、その時だった。エリーがリアナの袖を引いた。
「お嬢様、汚れる前に一度着替えておきましょう。今のお召し物ではお辛いですよ」
「あら、そうだったわね。一旦戻るわ」
リアナは厨房の料理人たちに「少しの間、自由にしていていいわよ」と告げ、エリーと共に自室へ向かって歩き出した。
カツ、カツ、と廊下に足音が響く。
……足音は二つのはずだった。
「はぁ……殿下。さすがに、着替えに戻る令嬢の後ろを付いてくるのは、『王族』としてまずいと思うのですけれど」
リアナが突然立ち止まり、背後を振り返る。
そこにいたのは、さも当然のように付いてきていたハロルドだった。
「え、あ……!!」
ハロルドは真っ赤になりながら、言い訳を探してドギマギと立ちすくむ。
「……何が目的です? 私の化けの皮を剥がすのが目的で、淑女の部屋まで覗きに来たのですか? それとも、それが『王太子の証明方法』なのですか?」
リアナの氷のように冷たい視線が、ハロルドを貫く。
無能で、傲慢で、そしてストーカーじみた王太子。
さすがのリアナも、これには怒りを通り越して「狂気」すら感じ始めていた。
(……このバカ、本当に一度徹底的に再教育が必要ね)
リアナの笑顔が、かつてないほど美しく、そして恐ろしく歪んだ。
3.プロ意識の欠如と「包丁」の重み
着替えを終えて厨房に戻ったリアナを待っていたのは、着替えを済ませたファルケンと、相変わらず不遜な態度を崩さないハロルドだった。
「ファルケンさん、まずはあなたの包丁を見せてくれるかしら?」
リアナの静かな問いに、ファルケンは少しバツの悪そうな顔で答えた。
「え……? あ、いえ、包丁は持ってきておりません。王宮の厨房に行けば、いくらでも用意されていますので……」
その言葉を聞いた瞬間、厨房の空気が一気に凍りついた。
リアナの瞳から光が消え、底知れぬ冷たさが宿る。
「……じゃあ、あなたは何しに来たの? 料理人が自分の命であり、相棒である包丁すら持参しないなんて。ハオンと全く同じね!」
「も、申し訳ありません……!」
「はぁ……。包丁の研ぎも、自分でできないんでしょう?」
「ほ、包丁の手入れは、武器職人の方にすべて任せております……」
「あなたがそんなだから、ハオンみたいな無能が調子に乗ったのよ!! 自分の道具の切れ味一つ管理できない者に、素材の命を預ける資格なんてないわ!」
リアナの容赦のない叱責が厨房に響き渡る。
これまで王宮料理長という肩書きに守られていたファルケンは、初めて「料理人」として裸にされたような屈辱に顔を歪めた。
その異様な光景に、ハロルドは呆気にとられていた。
王宮で絶対の権威を誇っていたファルケンが、年端もいかない少女に頭を下げ、説教を受けている。その構図は、ハロルドの常識を覆すほどに異様だった。
「リ、リアナ嬢。そこまで言わなくても……ファルケンは王宮の料理長だぞ?」
ハロルドがファルケンを憐れんで助け舟を出す。だが、それは火に油を注ぐ行為だった。
「――殿下は、黙っていてください!」
リアナの鋭い声がハロルドを遮る。
「料理人としての心得がなっていないのを正しているところです。あなたの管轄外の厨房で、素人が口を出さないでいただけますか?」
その圧倒的な「圧」に、ハロルドは一歩後退りし、思わず言葉を飲み込んだ。
(な、なんだ……この小娘は、背筋が凍るような威圧感だ……!)
「はぁ……もういいわ」
リアナがため息をつくと、ファルケンは死刑宣告でも受けたかのように青ざめた。
「き、強制送還だけは……お許しください!」
「別に強制送還なんてしないわよ? その代わり、今日からあなたには、料理人としての全てを一から……いいえ、零から叩き込ませてもらうわ」
リアナが浮かべた、あまりにも純粋で、あまりにも残酷な微笑み。
ファルケンとハロルド、二人の背中に得体の知れない悪寒が走った。
「ファルケン。あなたはコルンと一緒に、山積みになっているオニンの皮むきから始めてちょうだい」
「わ、わかりました……」
「ハマン、あとでファルケンをバロンとハンスの所に連れて行って。彼に『最低限の料理人としての包丁』を作らせるわ。研ぎの修行もセットでね」
「はい、承知いたしました」
リアナはまるで「壊れた道具」を修理に出すかのような事務的な態度で指示を終えた。
王宮料理長ファルケンへの地獄の修行が、今、幕を開ける。
そして、その隣でオロオロと立ち尽くすしかない王太子の運命もまた、誰の目にも見えない場所でゆっくりと転がり落ちていた。




