職人の「命」と、静寂の厨房
1.緊張と期待の交差点
王家からの手紙が届いてから二日後。オルフェウス伯爵家には、朝から落ち着かない空気が流れていた。理由は二つ。一つは王家から「学び」という名の厄介者がやってくること。そしてもう一つは――。
「リアナ、分かっているな? 王からの直々の依頼だ。粗相のないようにな!」
「ええ、分かっていますわ、お父様。……ふふ、ふふふ……」
妙に上機嫌なリアナ。その背後で控えるエリーは、主人の異様なテンションに冷や汗を流していた。
(旦那様……リアナ様は『分かって』なんていません。ただ、今日帰ってくる予定のユーグさんのことで頭がいっぱいなだけです……)
今日は、石鹸の為の植物採取に向かったユーグが戻る予定の日でもあった。
(最悪のタイミングです。お嬢様のこの『楽しみ!』という昂ぶりが、邪魔者によって『怒り』に反転したら……お二人、生きて王都に帰れるかしら……)
リアナが午前の日課(鍛冶工房や木工工房などの作業の確認)を行なっている頃、一台の馬車が伯爵家に到着した。
中から降りてきたのは、磨き上げられた靴を履いたハオンと、大きな荷物を抱えてフラフラのコルン。
ハオンはオルフェウス伯爵を前にすると、見事なまでの「社交辞令のプロ」へと変貌した。
「オルフェウス伯爵、この度は身に余る機会をいただき、心より感謝申し上げます。王宮厨房の技術を少しでもお伝えし、またお嬢様の高名な技を学ばせていただければと……」
「うむ、遠路はるばる苦労だった。娘は少々個性的だが、よろしく頼む」
エリオンを完璧に言いくるめたハオンは、満足げに鼻を鳴らす。
しかし、メイドの案内で厨房へ一歩足を踏み入れた瞬間、その「仮面」は早々に剥がれ落ちた。
「こちら、今日から料理を学びにきたハオンさんとコルンさんです」
案内したメイドの紹介に、ハオンの眉間がピクリと跳ねた。
(……『ハオンさん』だと? 私はこれでもミルフォード子爵家の次男だぞ! 田舎のメイド風情が、平民のように呼び捨て同然の紹介をするとは……!)
不機嫌を隠そうともせず、ハオンは厨房の中心で腕を組んだ。
「私がハオン・フォン・ミルフォード子爵の次男だ。王宮厨房でも主任を務めている。……貴公がここの料理長か?」
「……料理長のアロイスです。よろしくお願いします」
アロイスは一瞬、ハオンの「上から目線」な態度に顔を引きつらせたが、リアナの教育(という名のスパルタ)を耐え抜いた今の彼には、この程度の虚勢は蚊に刺されたようなものだった。他の料理人たちもムッとはしたが、黙々と作業を続けている。
「あ、あの! こ、コルンです! 掃除でも何でもします、よろしくお願いします!」
ハオンの陰で縮こまっていたコルンだけが、必死に頭を下げた。
2.嵐の予感
「ふん、清潔感だけは合格点といったところか。さて、件の『伯爵令嬢』はどこにいる? 私も忙しい身だ、さっさと……」
ハオンが言いかけたその時。
厨房の扉が、音もなく開いた。
「あら、もう到着していたのね?」
そこには、ユーグの帰還を心待ちにして、いつも以上にキラキラとした笑みを浮かべたリアナが立っていた。
その美しくも、どこか「捕食者」のような圧を孕んだ令嬢の登場に、厨房の温度が数度下がったのを、コルンだけが敏感に察知して震え上がった。
「ごきげんよう、学びの皆さん。……まずは、その汚い口を閉じることから始めましょうか?」
リアナの挨拶は、早くも王宮料理人のプライドを粉砕する準備が整っていた。
「アロイス、すぐに着替えてもらってちょうだい」
「あ、は、はい」
アロイスは、ハオンとコルンを更衣室へと誘導する。
「ふん!」
ハオンは、リアナを小馬鹿にしたように鼻で笑い。
「よ、よろしくお願いします」
「はい、辛いかもしれないけどがんばってね」
「あ、はい!」
コルンは丁寧に挨拶をして更衣室へと向かった。
「なんなんですかあの態度は!」
エリーが愚痴るのも無理はない、ハオンの態度は、教えを請いに来ている態度では無いからだ。そしてラウルとロバートはハオンを警戒する事にした。
更衣室から戻ってきたハオンは、借り物の調理着の袖を不機嫌そうに払いながら、終始毒づいていた。
「なんだこの調理着は! ゴワゴワして肌触りも最悪ではないか! 王宮の絹混じりのものとは比べ物にならん!」
その横で、ぶかぶかの調理着を一生懸命に整え、「ありがとうございます!」とアロイスに深々と頭を下げているコルンとは、対照的すぎる光景だった。
(はぁ……典型的な『肩書きだけの無能』ね)
リアナは冷ややかな目でハオンを見据え、事務的に言い渡した。
「さて、ハオンにコルン。あなたたちには、まず雑用からやってもらうわ」
「な……っ!? 私は王宮では調理主任をやっているんだぞ! なぜ私が小間使いのような真似をしなければならないのだ!」
ハオンが顔を真っ赤にして詰め寄るが、リアナは動じない。むしろ、その瞳の奥には底知れない冷たさが宿っていた。
「はぁ……。あなたがどこで何をしていようと、ここでは関係ないのよ。私が雑用をやれと言えば、やりなさい」
リアナは一つ溜息をつくと、ハオンの腰元と手元を鋭く一瞥した。
「そもそも……あなたは自分の包丁すら持ってきていないの?」
その問いに、コルンは慌てて自分の年季の入った包丁袋を抱きしめた。一方、ハオンは鼻で笑って言い放つ。
「ふん!包丁など、この厨房に腐るほどあるだろう! なぜわざわざ重い思いをして持ってこなければならんのだ。使えるものを使えばいい!」
――その瞬間、厨房の空気が凍りついた。
エリーは直感した。(あ、終わった……!)
リアナが常々口にしていた言葉を、その場にいた全員が思い出したからだ。
『料理人にとって包丁は、騎士の剣と同じ。自分の命を預ける唯一無二の相棒よ!他人に頼らず自分で管理しなさい!』
リアナのその一言から、オルフェウス伯爵家の料理人たちは自分で包丁の管理をしていた。バロンに全員の包丁を作らせたあと、研ぎは自分で行なっている。
3.令嬢の「宣戦布告」
リアナはゆっくりと歩み寄り、ハオンの目の前で足を止めた。背丈はハオンの方が高いはずなのに、威圧感だけで彼を圧倒する。
「アロイス、ここの包丁を一丁貸してあげて。……ただし、一番手入れのされていない、ナマクラをね」
「えっ? あ、はい、分かりました……」
「ハオン、あなたは今日一日、その貸し出しの包丁で玉ねぎ(オニン)一千個のみじん切りを終えなさい。指を切り落としても、私は知らないわよ。自分の手足となる道具すら持たずに学びに来るような『お客様』には、それ相応の扱いをさせてもらうわ」
「一、一千個!? 馬鹿にしているのか!」
「馬鹿にしているのは、あなたの方よ。料理を、そして私の厨房をね」
「お、おのれ小娘が! 調子に乗りおって――!」
プライドをズタズタにされたハオンが、逆上してリアナに掴みかかろうと腕を振り上げた。しかし、その指先がリアナの髪に触れることすら許されない。
シュンッ!
風を切る音と共に、控えていたラウルとロバートが電光石火の速さでハオンの両腕を取り押さえた。
「ぐわっ!? 離せ、離さんか! 私は子爵家の――」
「静かにしろ。貴殿が誰であろうと、リアナ様に危害を加えようとする者は排除する」
ラウルの冷徹な声が厨房に響く。ハオンは床に組み伏せられ、無様にのたうち回った。
襲われかけたというのに、リアナの表情には動揺のかけらもなかった。ただ、ゴミを見るような冷ややかな視線を一瞬だけハオンに向け、深く、深いため息をついた。
「……はぁ。やっぱりダメね。教える以前の問題だわ」
リアナはパチンと指を鳴らす。
「ロバート、悪いけれどすぐに馬車を手配して。この方を王宮まで送り届けてちょうだい。……あ、荷物も一緒に放り込んでおいてね」
「は! ただちに!」
「エリー、お父様に伝えて。『約束通り、一人強制送還しました』とね。理由は『指導者への殺害未遂』でいいわ」
「畏まりました、お嬢様。……せいせいします」
エリーは内心で(むしろ遅すぎたくらいです)と毒づきながら、執務室へと向かった。
4.無残な退場
「ま、待て! 王命なのだぞ! 私を返せばオルフェウス家がどうなるか……!」
ハオンは喚き散らしたが、もはや誰も耳を貸さなかった。彼はそのままロバートによって引きずり出され、文字通り馬車へと「放り込まれた」。
「覚えていろ! 父上に言いつけて、こんな田舎領地、潰してやるからな――!」
遠ざかる馬車の窓から聞こえる負け犬の遠吠え。
それを聞き届けたリアナは、パンパンと手を払って調理台へと向き直った。
「さて、不純物がいなくなって空気が綺麗になったわね。……アロイス、作業を続けましょう」
厨房には、あまりの展開の速さに石のように固まっている少年、コルンが取り残されていた。
「ひ、ひぃ……」
ガチガチと震えるコルンに、リアナは今日初めて、柔らかい「人間らしい」微笑みを向けた。
「コルン、と言ったかしら。あなたはあんな風になりたくないわよね?」
「は、はいぃっ! ぼ、僕は、僕は一生懸命学びます! 掃除でも皮むきでも何でもします!」
「いい返事ね。あんなのと一緒にして悪かったわ。……アロイス、コルンの包丁を見てあげて」
アロイスがコルンの包丁袋を手に取り、中を確認する。
「……驚きました。手入れが行き届いています」
アロイスの評価に、リアナは満足げに頷いた。
「合格よ、コルン。今日からあなたが正式な『学び人』よ」
「は、はいっ! よろしくお願いします!」
こうして、オルフェウス家の厨房からは「傲慢」が消え、純粋な「熱意」だけが残った。




