辛口評価と、「ヤバい」クッキーの誕生
1.隠しきれない「ルンルン気分」
着替えを終え、鏡の前で身なりを整えたリアナは、自然と鼻歌を口ずさんでいた。
ふーん♪ふんふ♪ふん♪ふん♪ふん♪ふん♪ふーん♪ふん♪ふん♪ふーん♪
鼻歌まじりに食卓へと向かうリアナの足取りは驚くほど軽やかだった。朝食が終われば、いよいよあの「魅惑の生地」を焼き上げる時間が待っている。その楽しみが全身から溢れ出していた。
「リアナ様……失礼ですが、少々浮かれすぎです」
背後に控えるエリーの、氷のように冷ややかで、しかしどこか呆れたような声が飛ぶ。
「あら、そんなに浮かれていたかしら?」
「……かなり浮かれてました。頬が緩みっぱなしですよ」
リアナは「コホン」と一つ、わざとらしい咳払いをして表情を繕った。伯爵令嬢たるもの、期待に胸を躍らせるにしても優雅でなければならない。しかし、引き締めたはずの口角が、どうしても緩んでしまうのを止められなかった。
リアナが食卓へ足を踏み入れると、そこにはすでに父アロイスと母エルザが席についていた。
「おはようございます。お父様、お母様」
「うむ、おはよう」
「おはよう、リアナ。……ふふ、何かとっても良いことでもあったのかしら?」
席に着くが早いか、母エルザが茶目っ気たっぷりに微笑みかけてきた。
「えっ? なぜ分かったのですか?」
「これでも母親ですからね。あなたの後ろに『楽しみ』という文字が浮かんで見えたわ」
(お母様には敵わないわね……)
リアナは観念したように、しかし誇らしげに答えた。
「実はクッキーを作っているのですが、とても良いものが出来そうなんです。ティータイムに出しますので、楽しみにしていてくださいね」
「あら、それは嬉しいわ。リアナの新作なら、期待を裏切ることはないものね」
2.ポトフへの「絶望的」なダメ出し
朝食を終えたリアナは、足早に厨房へと戻った。すると、料理長のアロイスが緊張した面持ちでスープの入った小皿を差し出してきた。
「リアナ様、今夜のポトフの味見をお願いします」
「ええ、いいわよ」
一口、スープを口に含んだ瞬間。周囲の料理人たちが固唾を呑んでリアナを見守る。
「……コクが足りないわね」
その一言に、アロイスの肩が目に見えて落ちた。
「ただ、以前のあの『塩水の煮物』に比べれば、天響茸の出汁を使っている分、進歩してるわ。……で、手順を教えてくれる?」
「は、はい。天響茸の出汁を水で割って、そこに具材とソーセージとベーコンを入れてじっくり煮込みました」
「……それ、天響茸以外は何も変わってないわよね? 素材に頼りすぎだわ」
リアナの容赦ない「ダメ出し」が飛ぶ。
前世で修行していた頃、師匠から浴びせられた辛辣な言葉をマイルドにしたつもりだったが、この世界の料理人には十分な衝撃だったようだ。
「はぁ、いい? 玉ねぎ(オニン)とベーコンを、入れる前にバターで飴色になるまで炒めてみて。メイラード反応……いえ、焦げる寸前の旨味を油に移してから煮込むのよ。ソーセージだって一度焼き目をつけてから最後に合わせれば、皮のパリッとした食感と肉汁が死なないわ。隠し味に、『醤油』をひと垂らしするのもいいわよ」
「な、なるほど……焼く、炒めるという工程を煮込みの前に……!」
アロイスたちは必死にメモを取り、再び調理に取り掛かった。エリーはその凹み具合を見て、心の中で(リアナ様は料理に関しては『加減』を知りませんから……頑張ってください)と密かにエールを送っていた。
リアナは落ち込む料理人たちを横目に、鼻歌を再開してオーブンに向かった。
(私も昔はいっぱい凹んだわね。そんな時は『水戸黄門』を観て、最後に悪が裁かれるスッキリ感で心を癒していたものだわ……)
そんな異世界の思い出に浸りながら、冷蔵庫から寝かせた生地を取り出す。
3.三種のクッキー
アロイスたちへの指導(という名の説教)を終えたリアナは、冷蔵庫から寝かせた生地を取り出し、ようやく自らの作業に戻り、包丁で正確にカットしていく。
ゆずレモンクッキー
オーブンに入れた数分後、若々しいシトラスの香りが漂った。
「いい香りね。爽やかで、朝の空気が洗われるようだわ」
完熟ゆずレモン(ポチの実)クッキー
次に焼き上がったのは、濃厚な果実の香り。
「これは上品ね。甘みの中に芯のある強さを感じるわ」
月香蜜(ルビーの蜜)クッキー
そして、本命。
オーブンの扉を開けた瞬間、厨房内のすべての雑音が消えた。優しく、それでいて気高く、嗅いだ者の魂を揺さぶるような圧倒的な香りが、空気を完全に支配したのだ。
「……これは、ヤバいわね」
「ヤバいですね。もはや『食べ物』の域を超えて、一種の魅惑のポーションの香りがします」
エリーの言葉に、先ほどまで「コクが足りない」と凹んでいた料理人たちの顔が、みるみると恍惚とした表情に変わっていく。香りを嗅いだだけで、彼らのストレスが浄化されていくのが分かった。
焼き上がったクッキーを並べ、リアナと厨房の面々で試食を行う。
まずはゆずレモン。
「少し酸っぱいけれど、この爽やかさが鼻を抜ける感じがいいわね。目覚めの一枚にぴったりだわ」
次に完熟ゆずレモン。
「凄く甘いけれど、くどくなく。香りの上品さがバターとよく合っているわ」
そして最後、運命の月香蜜。
口に運んだ瞬間、一同は言葉を失った。一噛みするごとに、天上の花園を散歩しているかのような香りが鼻を抜け、身体中が浄化されるような錯覚に陥る。
「甘さは控えめなのに、香りの存在感が凄まじいわ……。これはお茶会で出したら、間違いなく注目の的ね」
リアナは満足げに微笑み、余ったクッキーを「ご褒美よ」と言って料理人たちに分けた。
ポトフの失敗で沈んでいた厨房は、一瞬にしてリアナの「甘い魔法」によって活気と幸福感を取り戻した。
「さあ、お母様のティータイムが楽しみだわ!」
「アロイス、残りのクッキーを焼いておいてもらえるかしら」
「はい、分かりました」
4.鍛冶工房への再訪
クッキーの残りの焼き上げをアロイスに託すと、リアナは満足げな足取りで鍛冶工房へと向かった。その後ろを、いつものようにラウルとロバートが守るように歩く。
重厚な扉が開くと、工房特有の熱気と鉄の匂いがリアナを包み込んだ。
「バロン、みんなおはよう。……バロン、少し顔色が悪いわね?」
「おはようございます、リアナ様。……へ、へい。何というか、その、戦友を迎えるような気分でして」
バロンは力なく笑った。今日、リグナスから腕利きの職人……もとい、バロンの身代わりとなる新たな「犠牲者」が到着する予定なのだ。
その頃、伯爵家の正門では、一人の男が馬車の中でガタガタと震えていた。リグナスの町で腕を振るう職人ボンズである。
しばらくして、伯爵家の門前に一台の馬車が到着する。
「オルフェウス伯爵の伯爵家に何の用だ?」
御者台の男がリアナ様の依頼で鍛冶職人のボンズを連れてきたことを伝える。
門番は、馬車内で固まっているボンズに話しかける。
「証明出来る物はあるか?」
門番の職務質問に、ぎこちなく答える。
「へ、へい……ここに……」
リアナから送られてきたオルフェウス伯爵家の蝋印が付いた手紙を渡す。
「確かにオルフェウス伯爵家の印だな」
確認が取れると、御者にリアナがバロンの鍛冶工房にいると告げられ、馬車は再び走り出した。
「ボンズ様、到着しましたぞ。降りてください」
御者の声に、ボンズは「ヒッ」と短い悲鳴を上げた。
彼にとって、昨夜届いた「伯爵家からの手紙」は、まさに死刑宣告に等しかった。
『明日、迎えをよこす』。
その一文が、どれほど彼を追い詰めたか。自分の知らないところで家族が不敬を働いたのか、あるいは自分の作った鉄製品に致命的な欠陥があったのか……。
一睡もできず、目の下には濃い隈をこしらえた彼は、まさに「絶望」の淵に立たされていた。
しかし、馬車が到着した場所が「バロンの工房」だと知った瞬間、彼の絶望は猛烈な怒りへと変貌した。
「バロンのやろう……! 仕事を押し付けるために、伯爵家の名前を語りやがったな!」
もちろん、伯爵家の蝋印を偽造するなど死罪に値する暴挙だ。そんなことをする者がいるはずもないのだが、極限状態のボンズに冷静な判断力は残っていなかった。
バン! と重厚な扉が、壊れんばかりの勢いで開け放たれる。
「バロン! テメー! よくも騙しやがったな!!」
怒髪天を突く勢いでボンズが怒鳴り込む。その形相は、まるで地獄から這い上がってきた鬼のようだった。
「あーん?! おう、ボンズ。久しぶりだな、相変わらず元気じゃねえか」
バロンは気まずさを隠すように、殊更ぶっきらぼうに応じた。
「久しぶりじゃねーよ! よくも俺を騙しやがったな! おかげで一睡もできなかったじゃねーか! 伯爵家の迎えだなんて、どんな嫌がらせだ!」
「……はぁ」
工房の隅で、その騒ぎを冷めた目で見ていたリアナが、深く、深ーいため息をついた。
「ねえエリー、ちゃんと『依頼がある』って書いたわよね? 以前のオルドの時みたいにならないように配慮したつもりなんだけれど……なぜ、こうなるのかしら?」
リアナの矛先が、なぜか隣に立つエリーに向けられた。
「えっとですね……」
エリーは引きつった笑顔で、主人の顔を見つめ返した。
「内容の問題では無いと思います。伯爵家という巨大な権力から、いきなり『明日迎えに行く』という命令が届くこと自体が、一般の職人にとっては『何らかの処刑』に近い恐怖なんです。それを『配慮』と呼ぶのは、いささか……いえ、かなり無理があります」
「失礼ね、私はただ丁寧かつ簡潔に伝えただけよ」
「その『簡潔さ』が、逆に逃げ場のない圧迫感を生んでいることに気づいてください。ほら、見てください。ボンズさん、怒りのあまり私たちの視線に気づいてさえいませんよ」
リアナは不満げに頬を膨らませたが、目の前でバロンの胸ぐらを掴もうとしているボンズの様子を見るに、自分の「親切」が正しく伝わっていないことだけは理解したようだった。
「仕方ないわね。……ボンズ、少し落ち着きなさい」
リアナが静かに、しかし工房の喧騒を一瞬で支配するほどの澄んだ声で告げる。
その瞬間、ボンズの動きが、まるで時間が止まったかのように凍りついた。




