お菓子作りと、一滴の魔法
1.「搾りかす」から生まれる新星
ゼノ商会では、貴族向けの「蜜芋シロップ」と「蜜芋糖」が、本格的な生産体制に入っていた。琥珀色の輝きが金貨に見えるゼノにとって、これほど心躍る光景はない。そんな中、実利を重んじるゼノからある提案がなされた。
「蜜芋糖を搾った後の『かす』ですが……これを再利用して蒸留酒を作るのはいかがでしょう?」
「あら、これでお酒ができるの?」
リアナが目を丸くすると、ゼノが自信ありげに頷いた。
「はい。ワインの蒸留酒の醸造工程を応用すれば、この芋の甘みを活かした独自の強い酒が作れるはずです」
「それはゼノのやりたいようにしていいわよ。フフ、私が欲しかったのは蜜芋糖だけだもの。そこから先はあなたたちが考え、実行すればいいわ。そこに私の理は要らないわよ」
リアナの太っ腹な許可に、ゼノは「ありがとうございます!」と深々と頭を下げた。リアナにとって重要なのは、目的の品が手に入ることと、領地が潤うこと。細かな権利に固執するより、現場の創意工夫を促すのが彼女の流儀だった。
「お父様には私から報告しておくわね」
その言葉に、後ろに控えていたエリーの眉がピクリと動いた。
この世界はワインが主流であり、酒造には厳格なルールが存在する。領主の許可なく勝手に新種の酒を作ることは本来許されない。かつてリアナが日本酒を密造……もとい、試作した際、父エリオンから「事後報告すぎる」ときつく注意を受けたのは記憶に新しい。
(……私は、作ってから報告したけどね)
リアナは心中で舌を出したが、エリーの視線は冷ややかだった。リアナがお酒作りを開始するとすぐにエリオン伯爵にエリーが報告書を上げていたからだ。
(次はゼノさんの報告書を書かないといけないんですね。……さすがにゼノさんは手順を踏むと思いますが……)
エリーは内心で溜め息をつきながらも、主人の「秘密厳守で、後は任せたわよ」という言葉を背に、商会を後にするリアナに付き従った。その手には、お菓子作り用の「蜜芋シロップ」が大切に抱えられていた。
2.賑やかな厨房の片隅で
翌朝。リアナは朝から鼻歌まじりに厨房に立っていた。
並べられたのは、厳選された素材たち。
薄力粉、バター、卵
月香蜜(今朝、ルビーが誇らしげに運んできたもの)
完熟ゆずレモン(ルビーに負けじとポチが枝を揺らして落としたもの)
蜜芋シロップ
「リアナ様、朝食と晩食はどうします?」
仕込みでてんやわんやしている厨房の主、アロイスが尋ねてくる。リアナは邪魔にならないよう隅っこでクッキーの生地を練りながら答えた。
「私はシルヴァラスを焼きで。お父様とお母様はマリネにしてちょうだい。……晩食は、ポトフにしましょうか」
ポトフ、という言葉にリアナは前世の……いや、この世界の少し前の記憶を呼び起こす。かつてのこの地のポトフは、ただの塩水で野菜と硬いソーセージを煮込んだだけの、お世辞にも美味しいとは言えない代物だった。
(さすがに今のアロイスたちが、あの不味い料理を作ることはないわね)
出汁の概念を知った今の厨房なら、野菜の甘みが溶け出した至高の一品が出てくるはずだ。
3.クッキー作りの開始
「さて、アロイスたちは放っておいて……私は私の仕事(お菓子作り)に専念しましょうか」
リアナは横目でチラリと、用意された大きな卵を見つめた。
(相変わらずの存在感ね……)
「まずは、ゆずレモンクッキーから作りましょう。あの爽やかな香りをバターに閉じ込めるのよ」
ゆずレモンの皮を丁寧に削り、バターに練り込んでいく。厨房に漂う、目が覚めるようなフレッシュな香りと、これから焼かれるバターの予感。
リアナの魔法が、また一つ新しい形になろうとしていた
ゆずレモンの仕込みを終えたリアナは、次に「ポチの実(完熟ゆずレモン)」へと手を伸ばした。
丁寧に皮を剥き、黄金色の果肉を小さいサイコロ状に切っていく。それをバターたっぷりの生地に練り合わせると、先ほどの爽やかな酸味とはまた違う、完熟した果実特有の濃厚で甘い香りが厨房の隅々にまで漂い始めた。
「これだけでも十分、高級なお菓子になりそうね」
リアナは満足げに頷き、そしていよいよ本命の作業に取り掛かった。
最後は、女王蜂ルビーから贈られた「月香蜜」のクッキーだ。
「さあ、本番よ……」
ボウルの中のバターに、リアナは慎重に月香蜜をたった一滴だけ垂らした。そして、ヘラでゆっくりと練り合わせる。
その瞬間だった。
「――っ!?」
これまでの果実の香りをすべて塗り替えるような、優しく、それでいて気高く上品な香りが爆発的に広がった。それは鼻腔をくすぐるというレベルを超え、厨房全体の空気が「月香蜜」そのものに置き換わったかのような錯覚を抱かせるものだった。
その圧倒的な芳香に、朝食の準備でせわしなく動いていた料理人たちが、魔法をかけられたようにピタリと手を止めた。
「……凄いわね。たった一滴で、厨房全体を香りが支配してしまったわ」
「はい……本当に、なんて素晴らしい匂いなんでしょう……」
いつも冷静なエリーでさえ、うっとりと目を細めてその香りに酔いしれている。
静まり返った厨房。全員が作業を忘れ、虚空を見つめて鼻をひくつかせている光景は、どこか滑稽ですらあった。
「みんな、手が止まっているわよ!」
リアナの凛とした声が響き渡る。
その一喝で、料理長のアロイスをはじめとする職人たちは、ハッと我に返った。
「し、失礼しました! あまりの香りに、つい……」
「お嬢様、今の香りは一体……? まるで天上の花園に迷い込んだかのような……」
「それは焼き上がってからのお楽しみよ。さあ、朝食の準備を急いで! お父様たちが待っているわ」
「は、はい! 直ちに取り掛かります!」
ドタバタと活気を取り戻す厨房。慌てて鍋をかき混ぜる者、包丁を握り直す者。リアナはその様子を横目で見ながら、クッキー生地を天板に並べていった。
「フフ、まさに『魅惑の香り』ね。焼いたらどうなるかしら」
リアナは楽しそうに微笑んだが、ある危惧も生まれた。
たった一滴で人を惑わせる蜜。それが熱を通され、バターの脂分と混ざり合い、小麦の香ばしさを纏ったとき、どれほどの破壊力を持つ名品が生まれるのか……。
4.誘惑の香りの代償
クッキー生地を成形しながら、リアナの胸中には一つの懸念が生まれていた。
(この香り……。もし社交界に広まれば、欲に駆られた貴族たちが何をするか分からないわね)
月香蜂の蜜は、あまりに魅惑的すぎる。かつてこの国で起こった「月香蜂の乱獲」が再燃する可能性は極めて高い。金に糸目を付けない権力者が乱獲を命じれば、この小さな羽音たちはあっという間に地上から消えてしまうだろう。
「……あとで、ポチとルビーに確認を取らないとダメね」
リアナは生地を冷蔵庫に入れ、一時間ほど寝かせることにした。
「アロイス、あとでまた来るわね」
「分かりました。焼きの準備は整えておきますぜ」
リアナは厨房を出ると、裏庭のポチとルビーの元へと向かった。
「ポチ、ルビー。少し相談があるの」
リアナが月香蜜がもたらすであろう危険について話すと、ルビーは不安そうに羽を震わせ、深紅の瞳を曇らせた。自分たちの安らぎが、人間の強欲によって壊されるかもしれない。その懸念はルビーたちにとっても切実なものだった。
しかし、その不安を払拭するように、傍らのポチが「俺に任せろ」と言わんばかりにザアーッ! と激しく枝を揺らした。
(ポチ……?)
リアナが不思議そうに見上げる中、ポチの根を通じて、不可視の振動が地中深くを駆け巡った。それはオルフェウス領を越え、国中に点在する「芯命樹」のネットワークへと一瞬で伝播していく。
ポチが発信した「指示」は、以前から継続されているものだった。
『主に危害を加える者、そして主が守るべき者たち(月香蜂)を害する者、すべてを排除しろ』
リアナはこの世界に転生してから、一度も野盗や獰猛な魔物に襲われたことがない。
リアナが少しでも遠出をすれば、その進路にいる敵意ある存在は、彼女が視認するよりも遥か手前で、大地の触手(根)や森の罠によって音もなく「処理」されていたのだ。
「あら、ポチったら。心強いわね、ありがとう」
ポチが具体的に何をしているのか、リアナは全く認知していない。彼女の知らないところで、森は、大地は、常に彼女のために「掃除」を終えていた。ルビーもまた、ポチの絶対的な守護の宣言を聞き、安心したようにリアナの肩に止まった。
リアナがルビーの頭をなでると、ルビーが嬉しそうにしている。
「それなら安心ね。さて、そろそろ朝食の時間だわ」
「またね、ポチ、ルビー」
リアナは平和な裏庭に満足し、自分の部屋へと戻ることにした。
自覚なき最強の守護者に守られたまま、彼女はただ、計画のために最高のお菓子を焼くことだけを考えていた。
一方で、リグナスの町では。
リアナからの「迎えをよこす」という手紙を受け取った職人ボンズが、生きた心地のしない朝を迎えていた。




