挿話 トロンの町の職人と、商人の休息
オルド編
1.帰還と安堵
トロンの町の職人オルドは、リアナからの強烈な「依頼」を終え、命からがらトロンの町へと戻った。町では、町長のノーランと妻のケリーが、今か今かとオルドの到着を待っていた。
「あんた! 生きてんのかい!」
ケリーの鋭い声が響く。
「あ、あたりめーよ! 俺を誰だと思ってるんだ!」
つい先ほどまで魂の抜け殻のようだったオルドだが、無傷で馴染みの町に戻れたことで、ようやく緊張の糸が解けた。虚勢を張る余裕も出てきたようだ。
「オルド、よく戻ったな」
冷たく突き放したような態度を取っていたノーランだったが、内心ではヒヤヒヤしていた。オルドが無事だったことに、心の底から胸を撫で下ろした。
「で、呼ばれた理由は、結局なんだったんだ?」
「ああ、ただの仕事の依頼だ」
そう、ただの仕事の依頼だった。しかし、そのために生きるか死ぬかの恐怖を味わわされるとは、オルドも思いもしなかった。リアナが手紙に一言『仕事を依頼したい』とだけ書いていれば、ここまで追い込まれることはなかっただろう。だが、オルドの悪夢はまだ序章に過ぎないことを、今の彼は知る由もなかった。
2.「道具」と「使い手」の連携
「とりあえず、何よりだ。俺は仕事に戻るから、何かあったら言ってくれ」
ノーランは安堵し、自分の職務へと戻っていった。
残されたケリーがオルドに詰め寄る。
「それで、お嬢様からは何の依頼だったんだい?」
「調理器具を作る依頼だ」
「調理器具? 包丁かい?」
「いや、肉を細かくする物と、野菜を細かくする物だ」
「へ? そんなの包丁で十分じゃないか。お嬢様は何を考えてるんだか」
ケリーが首を傾げる。この世界の住人にとって、食材を細かくするのは包丁の仕事だった。専用の機械など想像もつかない。
「あと、ケリーにも手伝ってもらいたい」
「え? あたしが何をやるんだい?」
「調理器具を作るのは俺だが、実際に料理をするのはケリーだからな。お前の感想を聞きながら改良しろと、お嬢様から言われているんだ」
この世界の職人が料理をすることはない。料理をしない者が道具を作っても、何が良くて何が悪いのかを判断できない。リアナはその欠点を見抜き、放心状態のオルドに伝えるよう、バロンに伝言を託していた。
3.禁断のレシピと「悪夢」の始まり
さらに、オルドの手には一枚の紙が握られていた。
リアナ考案の「ハンバーグ」のレシピである。
「へー、これを作るために、その道具が必要なのかい」
「そうらしい。ただし、このレシピはお嬢様の考案だ。これを使って勝手にお金を稼いだ場合は処罰すると言っていたから、気をつけてくれ」
「分かったわよ。こんなのにお金を出す人なんて居るとは思えないけどね」
ケリーは鼻で笑ったが、その香りと味を知れば、彼女の評価は一変することになるだろう。
そして翌日。オルドの工房には、ゼノの手配によって大量の「白銀鉄」が運び込まれることになった。素材を前に、オルドの試行錯誤が始まる。
「ここをもっと回しやすくしなさいよ!」
「うるせえ! 構造上、限界があるんだよ!」
「これもうちょっと細かくならないの!」
ケリーから突きつけられる、主婦ならではの事細かな注文。それに応え、試作品を改良し続ける日々が幕を開けた。
オルドの本当の悪夢は、まだ始まったばかりだった。
ゼノ編
1.束の間の安らぎ
ゼノは自分の店に戻ると、深く椅子に身を沈めてのんびりと英気を養っていた。淹れたての茶の香りが、張り詰めていた神経をゆっくりと解きほぐしていく。
「俺は、頑張ったよな……」
独り言が口をついて出た。エマとの交渉についても、当初の予定からは少し方向性がズレただけだと自分に言い聞かせる。結果として利益が出るのであれば、それは商人として正解なのだ。
ゼノは、使い込まれた手帳を開いた。そこには、リアナから次々と舞い込む依頼がびっしりと書き込まれていた。リアナが「覚醒」してからまだ一年経っていないが、ゼノの商会の売り上げは確かにうなぎ上りだった。だが、それに比例して彼女の要求も増え、そのスケールは留まるところを知らなかった。
2.驚異の半年
最初は些細な要望に戸惑うこともあったが、今ではもう慣れたものだった。手帳のページをめくりながら、ゼノはこの半年の歩みを振り返った。
「マナキッチン、領民のための長屋建設。他領からの民を受け入れる移住計画に、新しい産業の石鹸作り。さらには大量の鉄の注文と、味噌や醤油、ゆずレモンや砂糖の加工するための工房建設……。それだけじゃない、魚の網、スラムの連中を雇う雇用計画まであったな」
改めてリストにしてみると、その異常な密度に眩暈がした。普通の領主が十年かけてやるような事業を、リアナはわずか半年の期間で次々と立ち上げる計画を立てる。
「お嬢様と仕事を始めてから、まだ一年経ってないんだがな……」
ゼノは苦笑した。かつての平穏な商売からは程遠い激動の日々だが、不思議と悪い気分ではなかった。彼女の突拍子もないアイデアが形になり、近い内に領地が活気づいていく様子を見るのは、商人としての本能を激しく刺激するからだ。
3.未知の嵐の予感
「まあ、これだけ片付けたんだ。しばらくは大きな動きもないだろう」
ゼノは手帳を閉じ、ふっと一息ついた。
だが、彼はまだ知らない。
この後すぐに、伯爵家の者が「スライムの粘液を保管する掘っ立て小屋」と「魔物専用のハチミツ回収箱」という、またしても無理難題極まる追加発注を持って、店の扉を叩くことを。
そして、その依頼がさらなる「鉄の増産」や「職人の囲い込み」に繋がっていくことも、今のゼノは、夢にも思っていなかった。
ゼノの束の間の休息は、間もなく訪れる新たな嵐を前に、儚くも終わりを告げようとしていた。




