深紅の瞳の女王と、至高の芳香
1.黄金の女王
ユーグに植物の採取を託したリアナは、その足で裏庭の主、ポチのもとへと向かった。
「ポチ、少しいいかしら」
リアナが声をかけると、ポチは待っていたと言わんばかりにザアーッと枝を揺らして応えた。すると次の瞬間、リアナの目の前に前世の記憶にあるミツバチに似た羽音が響く。三匹の蜂が、ブーンと音を立てながら空中に躍り出た。
「あら、この子が月香蜂なの?」
ポチと、その横に並んだジュニアが同時に「そうだよ」と語りかけるように枝を揺らす。三匹の真ん中にいる蜂は、他の二匹に比べて三倍ほども大きく、その姿には気品さえ漂っていた。
「女王蜂ね、こんにちは」
女王蜂は空中で静止し、この少女が信用に値するかを見定めていた。深く豊かな赤色の瞳でジッとリアナを見つめる。その吸い込まれるような色彩に、リアナは思わず呟いた。
「綺麗な瞳ね、まるでルビーみたいだわ」
その瞬間、女王蜂の様子が一変した。それまでの威厳ある静止を解き、羽を激しく羽ばたかせ始めたのだ。高周波の羽音が裏庭に響き渡る。
「あら、ルビーが気に入ったの?」
リアナが問いかけると、女王蜂はさらに激しく羽を震わせた。喜びや興奮が、その小さな身体全体から溢れ出しているのが見て取れた。
「じゃあ、名前はルビーね」
リアナが微笑みながら告げると、女王蜂――ルビーは、空中でくるくると円を描くように舞い踊った。
魔物に名前を付けるという行為が、この世界でどれほど重大な意味を持つか、アロンはその光景に戦慄を覚えた。
(リアナ様が、魔物に名前を付けたのは、今日だけで二回目だぞ……ありえん……この令嬢は、何者なんだ!)
だがリアナにとっては、ただの「新しいお友達」への挨拶に過ぎなかった。
「ポチ、ジュニア、素敵な子を紹介してくれてありがとう」
リアナが背後の巨木と小さな木に振り返り、感謝を伝える。すると、ポチとジュニアも待ってましたと言わんばかりに、ザアーッと嬉しそうに枝を揺らした。
2.至高の蜜
ルビーはひとしきり喜びのダンスを披露した後、再びリアナの目の前で静止した。その深紅の瞳には、先ほどの値踏みするような冷たさはなく、確かな親愛の情が宿っていた。
女王蜂はさらにリアナの近くへと降下してきた。
「あら、何かしら?」
傍らに控えるラウルたちは、表情こそ変えないものの、いつでも剣を抜けるよう重心を落とした。対照的に、まだこの「リアナ・ワールド」に慣れていないアロンは、内心で激しく葛藤していた。
(これヤバいの? ヤバくないの? どっちだよ! 蜂だぞ? 魔物だぞ!?)
アロンは混乱の極致にいたが、ベテランのラウルが動かないのを見て、必死に自分を抑えて静観した。
女王蜂はリアナの目の前で、前胸の脚をスッと上げた。
「……手を出せってことかしら?」
リアナの問いに、女王蜂は確かに首を縦に振った。
リアナがそっと掌を差し出すと、女王蜂はその小さな手の上に音もなく降り立った。
しばらくの間、女王蜂はリアナの掌に留まっていたが、やがて満足したようにスッと舞い上がった。リアナの手元を見ると、そこには黄金色の蜂蜜がほんの少しだけ残されていた。
「あら、これが月香花の蜜なのね」
リアナの言葉に、女王蜂は肯定するように再び首を縦に振った。
リアナがその蜂蜜を指先で手のひらに広げた、その瞬間。
「――っ!」
辺り一面に、これまでに嗅いだこともないような、優しく上品な香りが爆発的に広がった。それは月夜の静寂に咲く花を凝縮したような、脳を直接とろけさせるような芳香だった。
「……凄くいい香りですね」
隣にいたエリーが、うっとりとした表情で溜息を漏らす。ラウルやロバート、そして先ほどまでパニック寸前だったアロンまでもが、その香りに当てられたように毒気を抜かれ、呆然と立ち尽くしていた。
「この香りなら、女の武器を十分に発揮出来るわね」
リアナは満足げに微笑み、空を舞う女王蜂に感謝の眼差しを向けた。
こうして、伝説の「月香蜂」との契約も、リアナの不思議な魅力によってあっさりと結ばれたのだった。
裏庭の守護者であるポチ、芯命樹の子ジュニア、そして新たに加わった黄金の使い、ルビー。
リアナを中心とした「人外のネットワーク」は、主人の野望を叶えるために、着々とその強固な絆を深めていた。
アロンはもはや、突っ込む気力すら湧いてこなかった。
「……もう、驚くのはやめた。俺はただ、お嬢様が魔物と喋るのを黙って見守るだけだ」
隣で静かに頷くラウルの瞳も、どこか悟りを開いたような、穏やかな光を湛えていた。
3.蓄積されるゼノへの依頼
次にリアナは実用的な問題に思考を巡らせた。
「あとはハチミツの回収方法ね。回収箱と容器、どっちがいいのかしら」
本格的に流通させるなら、その場限りの採取では効率が悪すぎる。リアナは宙に浮く深紅の瞳の女王に視線を向けた。
「ルビーは、どっちがいいの?」
その問いに、ルビーは可愛らしく首を傾げた。魔物としての知性は高くとも、人間が用意する「回収箱」と「容器」の区別まではつかないようだった。
「言われても分からないわね。……エリー、回収箱をゼノに手配してちょうだい」
「ゼノさんに言っておきます」
エリーは手帳に素早くメモを取った。ゼノへの依頼リストは、今日一日だけで「掘っ立て小屋」に続き二件目である。
(あぁ、ゼノさんの仕事がまた増えていく……)
エリーの脳裏には、先ほど肩を落として帰っていったゼノの、やつれた未来の姿が浮かんでいた。しかし、リアナの快進撃を止める術など、この伯爵領のどこにも存在しない。
「回収箱はポチの枝に吊るせるようなタイプがいいわね。私たちが蜜を少し分けてもらいやすい構造のもの。ゼノなら腕の良い職人を知っているはずよ」
リアナの要求は具体的かつ高度だった。単なる箱ではなく、魔物である月香蜂の生態に合わせた特注品。それを「すぐに」用意しろと言外に含んでいるのだ。
そのやり取りを横で聞いていたアロンは、ようやく一つの真理に辿り着いた。
「……なぁラウル。さっきから聞いてりゃ、掘っ立て小屋だの、魔物専用の回収箱だの……あの商人、今日中に過労で倒れるんじゃないか?」
「ゼノ殿なら大丈夫だ。お嬢様の期待に応えることが、彼の最大の商機だからな」
ラウルは事も無げに答えたが、その表情には微かな同情の色が混じっていた。
「さあ、方針は決まったわ。ルビー、回収箱か容器か好きな方選んでハチミツを少し分けてちょうだい」
ルビーは頷くと、ポチの豊かな葉の茂みへと消えていった。
4.準備は整った
「さて、こっちの素材は確保できたわね、あとはユーグが無事に植物を持ち帰るのを待つだけだわ」
「ポチ、ジュニアまたね」
リアナは、ポチとジュニアに挨拶をすると裏庭を後にした。
伝説のハチミツ、魔物の葉、そしてスライムの粘液。
異世界の常識では決して混ざり合うことのない素材たちが、リアナという「触媒」によって、一つの新しい産業へと収束しようとしていた。
その頃、馬車で商館へ戻ったゼノは、理由のない悪寒に襲われ、思わず襟元を正していた。




