権力と、衛生面の天秤
1.執事の検閲と一通の手紙
孤児院での日課を終え、夕暮れ時に屋敷へと戻ったリアナを待っていたのは、執事セバスの静かな出迎えだった。
「リアナ様、お帰りなさいませ。手紙が届いております」
「ありがとう、セバス」
受け取った封筒の差出人は、魔道具技師のミリア。
リアナは期待を込めて中身を確認した。
『リアナ様、石鹸の作り方ですが製法は知っています。ただ、工房のエマと話し合った結果、製法を教える代わりに情報料をいただきたく思います』
(やっぱり知っているのね……。タダで教えてくれるほど甘くはないけれど、交渉の余地があるのは救いだわ)
リアナが手紙を読み終えるのを待っていたかのように、セバスが声をかける。
「リアナ様、その手紙の件で執務室におられる旦那様がお呼びです」
伯爵家に届くすべての信書や物品は、まずセバスが確認し、適切に処理される。ミリアからの手紙を確認したセバスは、これが単なる手紙ではなく、利権に関わる「石鹸」の製法に関するものだと即座に判断し、伯爵エリオンに報告していた。
内容を確認したエリオンは深い溜め息を漏らし、リアナが帰宅次第、直ちに執務室へ呼ぶよう言い付けていた。
「分かったわ。すぐに向かうわ」
リアナは背筋を伸ばし、父の執務室へと向かった。重厚な扉をノックし、静かに中へと足を踏み入れる。
「お父様、ただいま戻りました」
「……何で呼ばれたかは、分かっているな?」
机の向こうで、エリオンが厳しい眼光を向けてきた。
「はい、石鹸の件ですね」
「そうだ!なぜ、ミリアとやらに石鹸の製法を尋ねた?」
「彼女は柔軟な発想を持つ技術者です。既存の常識に縛られない彼女なら、秘匿された石鹸の製法を知っている可能性があると思い、確認いたしました」
実際の所は、日本語が分かり科学系ぽいミリアなら石鹸の作り方くらいは知ってるだろうと思い聞いただけだったが、さすがに父親に話すことは出来ない。
エリオンは腕を組み、娘を値踏みするように問いを重ねた。
「そもそも、なぜ石鹸の製法に固執する? 伯爵家が使う分であれば、商会から買えば済む話だろう」
「これから食品を扱う工房を立ち上げる上で、衛生面の強化は避けて通れません。そのために、石鹸がどうしても必要なのです」
リアナの迷いのない言葉に、エリオンはしばらく考え込んだ。
「……伯爵家で用意(購入)するのはダメなのか?」
「数百人の職人が毎日何度も石鹸を使った場合、かなりの経費がかかります。一部の貴族が嗜むような贅沢品ではなく、安価に大量に供給できるものでなければならないのです」
「石鹸を自前で作るとしても、そもそも原価が高いのではないのか?」
父の疑問は、この世界の常識に基づいたものだった。しかし、前世の記憶を持つリアナ――工藤玲子からすれば、その常識こそが歪んで見えた。
「いいえ。一つの商会が製法を独占し、不当に高値を付けているだけですわ」
リアナは確信を持って断言した。
「石鹸を貴族に売るだけの高級品として扱うならともかく、原価がそこまで高ければ、あれほど巨大な商会を築き上げることは不可能です。安く作れるからこそ、利益を積み上げ、商会を大きくできたのですわ」
「うむ……」
エリオンの表情に険しさが混じる。娘の推測は、経営者としての鋭い視点を持っていた。しかし、それは同時に大きな火種を意味する。
「……バルーナ商会に目をつけられることになるぞ」
石鹸の流通を独占する巨大組織、バルーナ商会。彼らの既得権益を侵すことは、一領主であっても容易ならざる事態を招く可能性があった。
「勝算は、あるのか?」
父エリオンの重苦しい問いかけに、リアナは、ぱちくりと目を瞬かせた。
「勝算……? お父様、何を仰っているのかしら。私はただ、工房に必要だから作るだけですわ」
リアナの楽観的な態度とは裏腹に、エリオンは深い溜め息を吐き出し、力なく首を振った。
「はぁ……。リアナ、石鹸の製造の許可は出せない」
「何故ですか、お父様! 私たちの工房で使う分だけでも……!」
「いいか、よく聞け。石鹸はただの生活用品ではない。バルーナ商会が独占し、王都の貴族たちに高値で売り捌くことで、莫大な利益を生んでいる『利権』なのだ」
エリオンは机を指先で叩き、言葉を継いだ。
「もし我々が安価な石鹸を独自に作り、それが外に漏れて販売でもされてみろ。バルーナ商会の後ろ盾にいるコーリン公爵家が黙っていない。一介の伯爵家が、公爵家の資金源に手を出す……。それが何を意味するか、お前にも分かるだろう?」
2.公爵家という名の巨大な影
コーリン公爵家。
王家とも繋がりの深い、この国でも指折りの権力者。彼らが後ろ盾となっている商会の商売を邪魔することは、オルフェウス領、ひいては伯爵家の存亡に関わる政治的宣戦布告になりかねない。
「……公爵家、ですか」
リアナは唇を噛みしめた。
彼女が欲しかったのは、ただ「清潔な手で料理を作れる環境」。しかし、この世界では「汚れを落とす」という当たり前の行為が、ドロドロとした権力争いの中心に居座っていたのだ。
「お前が工房の衛生を案じる気持ちは分かる。だが、石鹸を作ることは火薬庫に火を投ずるも同然なのだ。ミリアとの交渉も、今の段階では見合わせるべきだろう」
父の言葉は、領主として至極真っ当な判断だ。
しかし、リアナの中の「職人の魂」が、それを良しとはしない。
(衛生面を妥協して、何が食の改革よ。公爵家が怖くて、美味しいご飯が守れるっていうの?)
執務室を包む重苦しい沈黙の中で、リアナの瞳には、父への反論ではなく、別の「道」を探る鋭い光が宿り始めた。
「……分かりました。お父様の仰ることは、理解いたしましたわ」
リアナは深く一礼し、執務室を退室した。
3.諦める理由の不在
執務室の重厚な扉が閉まった直後、リアナは廊下を歩きながら小さく息を吐いた。その瞳には、落胆の色など微塵もなかった。
「さて、どうしようかしら」
独り言のように呟いた言葉に、すぐ後ろを歩いていたエリーが、信じられないものを見るような目で反応した。
「……お嬢様、まだ諦めてないんですか?」
「諦める? 諦める理由なんて、何かあったかしら?」
リアナは足を止め、顎に指を当てて不思議そうに首を傾げた。その動作があまりに自然で、「工藤玲子」としての合理性が「伯爵令嬢」の優雅さと混ざり合っていた。
「ええっ!? 旦那様の今のお話、聞いていらっしゃいましたか?」
「利権の話ね」
「そうです! コーリン公爵家とか、宣戦布告とか……!」
エリーの必死の訴えを、リアナは涼やかな顔で聞き流した。
「衛生面と利権を天秤にかける理由なんて、私には無いわ。手が汚れたまま料理を作るなんて、職人として許せることじゃないわよ」
リアナにとって、食の安全は何ものにも代えがたいものだ。政治的なパワーゲームなど、美味しいご飯の前では些細な障害に過ぎなかった。
「……でも、私やラウル様たちが秘密裏に動いたとしても、旦那様には筒抜けですよ? 私たちは報告しなきゃいけないんですから」
「そうね。あなたたちが報告の義務を怠れば、最悪、反逆罪に問われるものね」
「当たり前です! ましてや石鹸の利権に関わることなら、反逆罪は確定ですよ!」
エリーの声が廊下に響く。しかし、リアナは不敵に微笑んだ。
「まあいいわ。お父様だって、私がこれくらいのことで大人しく言うことを聞くなんて、最初から思ってないわよ」
「えーっ! ……確かにそうですが……」
「あら、なんだかカチンと来るわね、その納得の仕方は」
「それは、お嬢様の日頃の行いかと思われます」
エリーの容赦ないツッコミに、リアナは苦笑しながらも、歩みを速めた。
「さて、話もまとまったことだし、やるわよ」
「……何の話がまとまったのか、私にはさっぱり分かりません……」
「簡単なことよ。あなたたちは、私がやることを包み隠さず『ありのまま』をお父様に報告すればいいってこと」
それは、逃げも隠れもしないというリアナなりの「覚悟」だった。堂々と石鹸を作り、その圧倒的な価値をお父様に見せつける。政治が動くのを待つのではなく、現実で政治を動かしてみせる――。
リアナの背中は、すでに次なる「戦場」を見据えていた。




