水見半作と、学び舎の猶予
1. 鉄の工房から、緑の最前線へ
職人たちに「白銀の難題」を押し付け、嵐のように工房を後にしたリアナは、休む間もなく次の目的地へと向かった。
鉄の匂いから一転、鼻をくすぐるのは若草の香りと、湿った土の匂い。そこは、リアナが「食の改革」の最重要拠点として位置づけている、ポロの実(米)の量産化を託した農家たちの区画だった。
「お嬢様、足元にお気をつけください」
エリーが心配そうに声をかけるが、重いドレスの裾を少し持ち上げ、リアナは力強く地面を蹴った。
「大丈夫よ。土の匂いを嗅ぐと、なんだかホッとするわね」
「こんにちは! 調子はどうかしら?」
リアナが声をかけると、作業の準備をしていた農夫たちが一斉に顔を上げ、驚きと共に満面の笑みを浮かべた。
「あ、リアナ様! ちょうどよかった。今からこの田んぼに、預かっていた『ポロの実』を蒔こうとしていたところです」
目の前に広がるのは、なみなみと水が張られ、空の青を映し出している美しい田んぼだ。広さは、合わせて二反(約二千平方メートル)ほど。この世界ではまだ珍しい「水田」という栽培方法に、農家の人々も当初は半信半疑だったが、リアナの情熱に押されてここまできた。
リアナは畔に立ち、キラキラと輝く水面を見つめながら、少しだけ身を乗り出して助言を送る。
「みんな、一つだけお願い。ポロの実を蒔くときは、なるべく均等に蒔いてちょうだい。一箇所に固まってしまうと、栄養を奪い合って大きく育たないの。お互いの間隔を空けて、のびのびと育ててあげるのがコツよ」
「均等、ですね。承知しました!」
力強い返事と共に、数人の男性たちが意を決したように田んぼの中へと足を踏み入れた。ひんやりとした水の感触に声を上げながらも、彼らの足取りはどこか誇らしげだった。
2.黄金の秋を夢見て
二手に分かれた男性たちは、籠に入ったポロの実を手に取ると、大きく腕を振って水面へと蒔き始めた。
パラパラと、小さな飛沫を上げて水底へと沈んでいくポロの実。それは、やがてこの領地を支える「白い宝石」へと姿を変える、希望の種だ。
(二反の田んぼ……。ここから収穫が始まれば、いずれお屋敷だけじゃなく、街のみんなにも『ご飯』を食べさせてあげられる。ハンバーグやトンカツと一緒に、真っ白なポロの実を頬張るみんなの顔が目に浮かぶわ……!)
リアナは、泥にまみれながら働く農夫たちの姿を、愛おしそうに見守り続けた。
鉄の機械、そして土の恵み。
リアナの描く「美味しい未来」のパズルが、また一つ、カチリと音を立てて嵌まった瞬間だった。
ポロの実を蒔き終え、泥にまみれた農夫たちが畔に集まった。彼らは、これから始まる「未知の栽培」に期待と不安が入り混じった表情を浮かべていた。
リアナは、二つの田んぼを指差して力強く宣言した。
「いい、みんな。今日からこの二つの田んぼで『実験』をしましょう。向かって左の一反は、これまで通り水を張ったままにしておいて。そして右の一反……こちらは、私の指示通りに徹底した『水管理』を行ってもらうわ!」
「管理……ですか? 水なんて溜まってりゃいいもんじゃないんですかい?」
一人の農夫が不思議そうに首を傾げた。リアナは「ふふっ」と不敵に微笑んだ。
「農業の世界にはね、『水見半作』という言葉があるの。作物の出来栄えの半分は、水の管理で決まるっていう意味よ。ただ溜めるだけじゃダメ。成長に合わせて、水位をミリ単位で操るのよ!」
リアナは地面に枝で図を書きながら、現代の稲作知識を叩き込み始めた。
浅水: 最初は苗(種)を保護するために浅く張る。
中干し(なかぼし): 約一ヶ月後、あえて水を抜いて土を乾かす。
間断かんがい: 2~3日おきに水入れと落水を繰り返す。
「いい? 中干しで一度土を乾かすことで、根っこを強く張らせ、土の中に酸素を送り込むの。水を入れたり抜いたりするのは、稲に『呼吸』をさせるためよ」
「水を抜く!? せっかく溜めたのに……そんなことしたら枯れちまうんじゃ……」
農夫たちに戦慄が走った。彼らにとって、水田から水を抜くのは「ポロの実の死」を意味する暴挙に等しいものではないかと思ったのだ。
「大丈夫、私がついているわ。その代わり、毎日の『水見』は欠かさないで。水路にゴミが詰まっていないか、モグラやザリガニがあぜに穴を開けていないか。水漏れは、この田んぼにとって最大のロスよ」
リアナの言葉には、前世で培った「効率」への執着と、この土地を豊かにしたいという情熱がこもっていた。
あぜ塗り・草刈り: 漏水を防ぎ、病害虫の隠れ家をなくす。
追肥(穂肥): 穂が出る直前、一番お腹が空く時期に栄養を与える。
最終落水: 収穫の直前に水を抜き、土を固めて作業しやすくする。
3.融合する新旧の技術
「ただの草むしりだと思わないで。その一回一回が、秋に実る黄金の粒に変わるんだから。病害虫……特に『ウンカ』や『いもち病』の兆候がないか、株元までしっかりチェックしてちょうだい」
「ウンカ? いもち病……? お嬢様、それは一体……?」
農夫たちが顔を見合わせ、首を傾げた。リアナ(工藤玲子)にとっては農家の天敵とも言える基本知識だが、この世界の住人にとっては聞いたこともない不吉な呪文のように聞こえたようだ。
「葉や根の色が変色したり、茎に虫が群がっていたらすぐに知らせなさいってことよ。手遅れになったら収穫が台無しになるわ!」
熱を込めて語るリアナに、一人の農夫がおずおずと口を開いた。
「え、あの……『光の魔石』を置いて浄化しないんですかい?」
「……え? 浄化って何なの?」
時が止まったような静寂。
ここは工藤玲子にとっては異世界。そして異世界には異世界の常識がある。
「へ、へい……。光の魔石を畑の四隅に置いていると、悪い気が浄化されて作物が枯れないと言われております。これがこの国の『常識』でさあ」
リアナは目を見開き、背後に控えていたエリーに振り返った。エリーは「ああ、そこからですか」と言わんばかりの表情で、テキパキと解説を始めた。
「リアナ様、魔石には様々な事象に干渉する効果があると考えられています。特に大規模な農地では、『光の魔石』で病や穢れを払い、『土の魔石』で大地の滋養を活性化させるのが一般的です。この田んぼにも、あと伯爵家にも配置してあります」
(浄化……? そんな方法で病気を防ぐなんて、そんな便利なものがあるの!?)
一瞬、これまでの苦労は何だったのかと脱力しかけたリアナだったが、すぐに「工藤玲子」としての冷静さが戻ってきた。もし魔石だけで完璧なら、この世界に飢饉など存在しないはずだ。
「……ねえ、みんな、その魔石を置いていても、急に作物が枯れたり、虫に食い荒らされたりすることはないの?」
「そりゃあ……ありますよ。魔石の力が弱まったり、それを上回る悪い気が溜まれば、一晩で全滅することだって……」
「やっぱりね!」
リアナはパチンと指を鳴らした。
「いい、みんな。魔石の力は『保険』だと思ってちょうだい。魔石が防ぎきれないわずかな予兆を見つけるのが、さっき言った『水見』と『観察』なの。魔法に頼り切るんじゃなくて、人間の目と手で最高の環境を整える。そうすれば、魔石の力だって何倍にも引き出せるはずよ!」
農夫たちは、リアナの言葉に「なるほど!」と膝を打った。異世界の常識を否定せず、むしろそれを活かすための「観察」という概念。
「分かりました。光の魔石で浄化しつつ、水の出し入れで根を鍛え、毎日株元と葉をチェックするんですね」
「ええ、そうよ。ちょっとした変化も見逃さないでね」
リアナは、異世界の不思議な力に驚きつつも、それを自分の「科学的知見」と組み合わせる楽しさに、瞳を輝かせるのだった。
4.変化した孤児院
「最近、夜泣きする子も減ったわね」
「リアナ様が来てからね」
シスターたちが廊下を歩きながら、呟いていた。以前は夜になると寂しさに耐えかねて声を殺して泣く子が後を絶たなかったが、今では静かな寝息に包まれることが増えた。
リアナは週に三回、欠かさずここを訪れていた。彼女が持ち込んだ「教育」と「規律」、そして「役割」が、子供たちの心の影を少しずつ塗り替えていたのだ。
田んぼの視察を終え、リアナが教会を訪れた。
「こんにちは、シスター」
「「こんにちは、リアナ様」」
「変わったことはありませんか?」
リアナは近況を尋ねると、シスターは少し言いづらそうに、指を組み替えて答えた。
「あ、あの……実は、もうすぐこの孤児院を巣立たなければならない子が三名おります」
「その子たちは、例の『段階』には達しているの?」
リアナが定める「段階」とは、社会に出て搾取されないための最低条件――読み書きと計算ができることだ。
「いえ……。ジョアンナ侯爵夫人に教えていただけるようになってからまだ日が浅く、十分とは言えません」
孤児院の規則では16歳が自立の期限。伯爵家の寄付で運営されている以上、居残ることは予算の圧迫を意味する。しかし、リアナの答えは即答だった。
「いいわ、その子たちの滞在を半年延長してちょうだい」
「えっ!? しかし、規則では……それに伯爵様へのご負担が……」
「問題ないわ。お父様には私から説明しておくから。無学なまま放り出す方が、将来的に領地の損失になるもの」
リアナの言葉には、目先の金貨よりも、教育という投資の価値を知る者としての重みがあった。
シスターに案内され、子供たちが待つ広間へと入ると、一斉に元気な声が響き渡った。
「「リアナ様、こんにちは!」」
特に女の子たちは、最近リアナから教わったばかりの作法を試したくて仕方がない様子で、数人の子が、ぎこちなくスカートの裾を少し持ち上げ、膝を折る「カーテシー」を披露した。
「リアナ様、合ってましたか?」
「ええ、とても上手よ。でも、背筋をしっかり伸ばしたまま、こうするの」
そう言うと、リアナは流れるような動作で自ら深く子どもたちに膝を折った。
背筋は真っ直ぐに、視線は落としすぎず、指先の動き一つにまで気品が宿る――それは、王宮の舞踏会でも絶賛されるであろう、完璧な「伯爵令嬢のカーテシー」だった。
「リ、リアナ様?!」
背後でエリーが悲鳴のような声を上げた。
「ん? 何かしら、エリー」
「何かしら、ではありません! 領民、それも孤児院の子供たちに対して貴族がカーテシーを教えるなんて……そんなお手本、おやめください!」
「あら、減るもんじゃないし、良いお手本を見せるのが教育でしょう? 気にしすぎよ」
「し、しかし、身分というものが……!」
エリーの抗議を、リアナはひらりとかわす。
「大丈夫よ。私の前で、ノックもそこそこに扉を勢いよく開ける誰かさんの無作法に比べれば、なんてことないわ」
「えーっ! またその話ですか!」
エリーが頬を膨らませるのを見て、子供たちはドッと沸いた。
厳格な令嬢としての顔と、姉のように親しみやすい顔。その両方を持つリアナは、今日も子供たちの憧れの中心にいる。




