精密なる手仕事と、勘違いの咆哮
1.守護樹の香りと領民の朝
朝食を終えたリアナは、動きやすい外用着に身を包み、足早に工房へと向かった。
「ポチ、行ってくるわね」
ポチに声をかけると、邸の裏庭にそびえ立つ守護樹ポチが、ザアーと葉を揺らしてそれに応えた。
ポチの幹の下には、熟した実を傷つけずに回収するための仮設シートが固定されている。リアナはその中から一つ、鮮やかな黄色の「ポチの実」を手に取り、鼻に近づけた。
「うーん……いい香り。今日も一日頑張れそうね」
エリー、ラウル、ロバートを従えたいつものルート。道ゆく領民たちから「リアナ様、おはようございます!」と次々に声がかかる。かつての「恐れられる令嬢」ではなく、今や彼女は「領地の太陽」として、日常の風景に溶け込んでいた。
2.「悪魔」の慈悲、エリーのツッコミ
工房の重い扉を開けると、そこにはすでに鉄と油の匂いが立ち込めていた。
「みんな、おはよう!」
「お、おはようございます……リアナ様……」
バロンをはじめ、職人たちは一様に目の下に濃い隈を作っている。そんな彼らに、リアナは満面の笑みでこう言い放った。
「ちゃんと寝なきゃダメよ? 体が資本なんだから」
(((ええっ! どの口がそれを言うんですか!?)))
エリーの心の叫びが工房内に響き渡った(気がした)。
リアナの放った「死なない程度に」という許可証が、彼らから睡眠時間を奪っている張本人であることは、もはや周知の事実だ。
現代のような旋盤も自動工作機械もないこの世界。
「弐号機」の心臓部となるスクリューやボルトを作る作業は、想像を絶する「超・地道な手作業」だった。
合わせの確認: ネジ部を一度回し入れ、引っかかりを確認する。
分解: わずかに渋い箇所を特定し、再びバラす。
修正: ヤスリでコンマ数ミリ、手作業で削り込む。
再試行: そしてまた回す。
この果てしない繰り返しこそが、精密機械の産声だった。
バロンたちは、煤にまみれ、指先を真っ黒にしながら、リアナの設計図にある「滑らかな回転」を具現化するために、ただひたすらに鉄を削り続けていた。
3.伯爵邸の厳重な門
その頃、トロンの町からガタガタと揺られること数時間。生きた心地のしないまま揺られていたオルドを乗せた馬車が、ついにオルフェウス伯爵邸の巨大な正門へと到着した。
「止まれ!オルフェウス伯爵家に何の用だ?」
鋭い声と共に、武装した門番が馬車を停止させた。御者は慌てて御者台から身を乗り出す。
「リアナ様のご依頼で、トロンの町から職人を連れて参りました!」
門番は、事前にエリーから「トロンのオルドという者が来たらバロンの工房へ通せ」と指示を受けていた。門番は馬車の後ろで小さくなっている男に視線を向けた。
「名前は?」
「へ、へい……。トロンの町の、オルドと言いやして……」
「証明できるものはあるか?」
オルドが震える手で差し出したのは、あの忌まわしくも神々しいオルフェウス家の封蝋が押された手紙だ。門番はそれを一瞥し、深く頷いた。
「うむ、確かにオルフェウス家の印だ。通れ。リアナ様は現在、鍛冶工房にいらっしゃる。この道を真っ直ぐ行った先だ」
門番が御者に告げると御者は工房へと馬車を走らせた。
馬車が街を進むにつれ、オルドの心臓は早鐘を打っていた。しかし、馬車が止まり、降り立った瞬間に彼の目に飛び込んできたのは、見覚えのある看板と、鉄が焦げるあの独特の匂いだった。
「な!ここは、バロンの工房じゃねえか」
オルドは何度か仕事の相談でバロンの元を訪れたことがあった。
一睡もできず、死を覚悟してここまで来たオルド。
しかし、目的地が「知人の工房」だと分かった瞬間、麻痺していた脳にある仮説が浮かび上がった。
(……待てよ。なんでバロンの工房に伯爵令嬢が居るんだ? なんで俺が名指しで呼ばれたんだ……?)
点と線が繋がった(と、本人が思い込んだ)瞬間、恐怖は一気に沸点を超え、怒りへと変わった。
「バロンのやろう!! 俺を騙しやがったな!!」
バロンがオルフェウス伯爵家の封蝋を偽造し、オルドを騙していたことが発覚すれば、ただでは済まない。下手をすれば首が飛ぶほどの重罪だ。
そんな危険を冒してまで人を騙す理由など、本来なら考えにくい。
普段の冷静な精神状態であれば、オルドもすぐにその不自然さに気づいただろう。
しかし――今の彼の心は、すでに麻痺していた。
4.戦場への乱入
「おのれ、バロン!俺が、どんだけ辛い時を過ごしたか、懲らしめてやる!」
オルドは馬車から飛び降りるなり、仁王立ちで工房の扉を睨みつけ、蹴破った。
「てめー!バロン、よくも騙しやがったな!」
そんなオルドの怒号が響き渡る工房内。
ちょうど「二号機」のネジ合わせに苦戦し、死んだ魚のような目でヤスリを動かしていたバロンが、聞き慣れた声に顔を上げた。
「あん? ……なんだ、オルドか……。おせーよ……」
「『おせーよ』だと!? この野郎、よくも……!」
オルドがバロンの胸ぐらを掴もうと踏み込んだ、その時。
リアナの溜め息と苦情がオルドの耳に届いた。
「はぁ……エリーといいなぜこの世界の人は、ゆっくりと扉を開けられないのかしら……」
「えー!私もですか?!」
工房の奥から、煤一つ付いていない清廉な美少女――リアナが、首を振り眉間に指を当てていた。
リアナの前にはラウルとロバートが剣の柄に手を当て、いつでも剣を抜ける体勢をとっていた。
それを見たオルドの動きがピタリと止まった。
目の前にいるのは、トロンの町長が「逆らえば町が終わる」と震えていた伯爵令嬢その人だ。
「……え、あ、あ……」
先ほどまでの威勢はどこへやら、オルドは再び生まれたての小鹿のように震え始めた。
「バロン、紹介してくれるかしら? 彼が『精密な金属加工をやらせたら右に出る者はいない』とあなたが絶賛していたオルドさんね?」
「はい、こいつがオルドで、間違いないです」
「分かったわ、ありがとう」
リアナの言葉に、オルドはバロンの方に振り返った。バロンは力なく親指を立て、「頑張れよ……同志……」と言わんばかりの切ない表情を浮かべている。
「お、おれ……これからどうなるんだ……」
こうして、逃げ場を失ったオルドは、リアナが持つ「新たな悪魔の設計図」の前に引きずり出されることとなったのだ。




