挿話 眠れない夜と、禁断のレシピ
オルド編
1.鍛冶場を襲う「不吉な影」
隣町トロンの、煤の匂いが漂う静かな夕暮れ。
熟練の鍛冶職人オルドが、一日の仕事を終えて道具の手入れをしていた時だった。血相を変えた町長のノーランが、砂埃を上げて工房へと駆け込んできた。
「オルド! オルドは居るか!」
「おう、ノーラン。そんなに慌ててどうした? 火事でも起きたか?」
「火事ならまだ良かったかもしれん……。これを見ろ」
ノーランが震える手で差し出したのは、上質な羊皮紙。そこには、この領地で最も権威ある「オルフェウス伯爵家」の重厚な封蝋が押されていた。
2.簡潔すぎる「死刑宣告」
オルドはごくりと唾を飲み込み、震える指で封を切った。中には、流麗ながらもどこか有無を言わせぬ力強さを感じる文字で、こう記されていた。
『明日、オルフェウス伯爵邸に来るように。明け方に迎えの馬車をそちらに差し遣わします。 ―― リアナ・ド・オルフェウス』
「……は?」
オルドの口から、間の抜けた声が漏れた。
「どういう事だ……? 『明日来い』、『馬車を出す』……それだけか?」
「オルド、なんて書いてあったんだ!? まさか、重税の督促か、それとも……」
ノーランに促され、内容を説明したオルド。しかし、説明すればするほど、工房内の温度が下がっていくようだった。
「お前、なにかやったのか!? 伯爵家に不敬な真似をしたとか、粗悪な鉄を納品したとか!」
「お、俺は何もしてねー! それどころか、リアナ様なんてお方とは会ったことも、お姿を拝見したことすらねーよ!」
3. 逃げ場なき「お迎え」
オルドの顔色は、みるみると土気色に変わっていった。
貴族、それもわがままと噂の令嬢からの、理由も記されていない早朝の召喚。平民の常識で考えれば、それは「呼び出し」ではなく、もはや「連行」に近い響きを持っていた。
「お、俺……どうすればいいんだ……。生きて帰って来られるのか?」
今にも泣き出しそうな顔でガタガタと震え始めたオルドに対し、町長のノーランは非情な宣告を重ねた。
「……オルド。相手は伯爵家だ。明日、この馬車に乗らなかったら、トロンの町ごとどうなるか分からんぞ。必ず、必ず行かないとだめだ」
「そ、そんな殺生な! ……ノ、ノーラン。頼む、お前も付いてきてくれねーか? 町長として、俺が善良な市民だって証言してくれよ!」
「馬鹿言え! 俺まで巻き添えにする気か! ……いや、その、俺も町政が忙しいんだ。……達者でな、オルド。お前の家族のことは……悪いようにはせんから」
「縁起でもねーこと言うんじゃねえ!!」
4. 眠れぬ夜の始まり
ノーランは逃げるように工房を去っていった。
取り残されたオルドは、手元にある「召喚状」をもう一度読み返した。
(明け方に迎えが来る……。あと数時間じゃねえか……)
その夜、オルドは一睡もできず、愛用の金槌を抱きしめながら「遺書」を書き始めた。まさか、自分が呼ばれた理由が、「極上のハンバーグを作るための、新型のみじん切り器と肉のミンチ器を開発せよ」という、令嬢の食欲全開な無茶振りだとは、夢にも思わずに。
ミリア編
1.嵐の前のノック
夕暮れ時、ミリアの工房に一人の騎士が姿を現した。リアナからの緊急指令を受けたラウルだ。
コンコン、コン!
「はいはい、どなた!? 今、手が離せないって言ってるでしょ!」
扉を開けたのは、助手のエマだった。彼女の顔には「不機嫌」の文字がこれでもかと刻まれていた。
目の前のラウルを見るなり、彼女の眉間の皺がさらに深まる。
「また騎士様?……今度は何ですか!」
「リアナ様より、ミリア嬢へ。至急、この書簡をお渡しください」
ラウルが一切の感情を排して手紙を差し出すと、エマは思わず声を荒らげた。
「またですか! 今、あなたの主である、リアナ様からの『遠心分離機』の試作で、寝る間も惜しんで働いているのは分かっているでしょ!? これ以上仕事を増やすなんて、正気じゃないわ!」
「……事情は承知しております。ですが、私は渡すように命じられただけですので」
「はぁ……! わかりました、預かります! お帰りください!」
バァン!!
エマは叩きつけるように扉を閉め、憤慨しながら工房の奥へと戻っていった。
2. 令嬢からの「軽すぎる」無茶振り
「……どうしたのエマ? そんなに怒鳴らなくても聞こえてるわよ」
奥で試験管を振っていたミリアが、クスクスと笑いながら顔を上げた。
「またリアナ様からよ! 遠心分離機だけでも精一杯なのに、わがままにも程があるわね。ほら、手紙」
ミリアが手紙を受け取り、中身を確認した。そこには、リアナらしい簡潔な、しかしとんでもない内容が記されていました。
『石鹸の作り方を教えて。あと、できれば髪を洗うもの(シャンプー)や、食器を洗う洗剤の作り方も知っていたら教えてほしいの』
「……石鹸?」
その内容を見たミリアが首を傾げると、横から覗き見したエマが驚愕の声を上げた。
「石鹸ですって!? 作り方を知っていたら、もうとっくに自分たちで作って売ってるわよ! あの令嬢、石鹸がどれだけ貴重で、製法が秘匿されているか分かっていないのかしら!」
「え……? 私、作り方なら知ってるわよ」
「…………え?」
エマの動きが、彫像のように止まった。
3. バルーナ商会という「壁」
「なら、なぜ今まで作らなかったのよ!? あれを作れば、うちの商会なんて一気に王都一になれるじゃない!」
叫ぶエマに対し、ミリアは少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「……やめておいたほうがいいわ。昔、石鹸を作るために必要な『苛性ソーダ』の元になる成分を見つけた時、お父様に相談したの。でも、『それだけは絶対にやるな』って止められたわ」
「何でよ? 儲かるじゃない」
「石鹸を独占しているのは、あの巨大なバルーナ商会よ。製法を盗んだと思われるか、彼らの利権を脅かすと判断されたら、うちみたいな小さな商会なんて、一晩で跡形もなく潰されるわ……。お父様は、私を守るために封印させたの」
「た、確かに……バルーナ商会なら、刺客の一人や二人送り込んできそうね……」
エマの顔に、冷たい汗が伝わった。石鹸はこの世界において、ただの洗浄剤ではなく、莫大な富を生む「利権の塊」だったのだ。
4. 令嬢へ託す「火種」
「どうするの? リアナ様に教えるの?」
ミリアは手紙を見つめ、少し考えてから不敵に微笑んだ。
「そうね。リアナ様なら……あの恐れ知らずの伯爵令嬢なら、バルーナ商会が相手でも鼻で笑ってあしらいそうだわ。それに、彼女ならこの技術を悪いようには使わないでしょうし」
「でも、タダで教えるのはもったいないわね……」
エマが商人らしい目つきで付け加えると、ミリアも楽しげに頷いた。
「なら、ロイヤルティ(技術使用料)をもらえばいいんじゃないかしら? 私たちはあくまで『知識を提供しただけ』という形にすれば、バルーナ商会に目をつけられるリスクも減るわ。その代わり、利益の一部を私たちに回してもらうの」
「それよ! 完璧だわ、ミリア!」
こうして、バルーナ商会の独占を揺るがす「禁断のレシピ」が、ミリアの手によって書き記されることになった。
それがのちに、リアナの手によって「泡の革命」を引き起こすことになるとは、まだ誰も予想していなかった。




