英才教育と、厨房の革命児
1. 逃れられぬ召喚状
工房の喧騒が続く中、トロンの町へ行っていたロバートが息を切らせて戻ってきた。
「リアナ様、ただいま戻りました!」
「お疲れ様、ロバート。首尾はどうかしら?」
「はい。トロンの町長へリアナ様からのオルド宛の書簡だと伝え渡してまいりました。明日の明け方、こちらから迎えの馬車を差し向ける旨もしっかりと伝えてあります」
「そう、ありがとう。助かったわ」
そう言って、リアナは花がほころぶような「天使の微笑み」を浮かべた。しかし、その笑顔を横で見ていたバロンの背筋には、冷たい戦慄が走った。
(オルド……すまん……。お前さんの明日は、もう真っ暗だ……)
バロンは、明日から始まる「同志」の過酷な運命を思い、心の中で静かに手を合わせた。
2. 騎士の活力 ―― 唐揚げサンドイッチ
ロバートが戻ったことで、ようやく交代が可能になったラウルが動き出した。
「ではリアナ様、私はこれよりミリア嬢のもとへ、手紙を届けてまいります」
「ええ、お願いねラウル。急ぎだから気をつけて」
「はっ!」
ラウルは出発の際、馬の手配を済ませたロバートに歩み寄った。
「……ところでロバート、昼飯は食べたか?」
「ああ。厨房に、『若鶏の唐揚げとレタリ(レタス)を挟んだパン』が用意されていたぞ。あれは旨かった……肉汁が溢れて、パンとの相性が最高だ」
「唐揚げサンド、か……。よし、わかった」
ラウルはゴクリと喉を鳴らすと、活力に満ちた足取りで食堂へと向かった。リアナの料理は、過酷な任務に就く騎士たちの、何よりのエネルギー源となっている。
3. ハンスへの「不気味な」予告
工房での用件をすべて終えたリアナは、満足げにエプロンの裾を払った。
「それでは、私もこれで失礼するわね。バロン、期待しているわよ」
出口へと向かうリアナ。しかし、扉に手をかけたところで、ふと思い出したように足を止め、木工師のハンスに振り返った。
「あ、そうだ。ハンス。弐号機が終わったら、別にお願いしたいことがあるの。その時はよろしくね」
「え……? 弐号機の……あとに、また……?」
先ほどまで「弐号機さえ終われば解放される」と信じていたハンスの顔から、一気に血の気が引いていった。リアナの言葉は、まるで終わりのない迷宮への招待状のように響く。
エリーは胸の前でそっと十字を切り、真っ白に燃え尽きようとしているハンスのために祈りを捧げた。
「さて、随分と時間を使ってしまったわね。エリー、戻りましょう」
「はい、お嬢様。もうすぐお昼の時間ですしね」
「そうね。お昼を済ませたら、午後はジョアンナ様の講義だわ。気を引き締めないと」
リアナは軽やかな足取りで工房を後にした。
4.張り詰めた空気の中での「帝王学」
着替えと昼食を終えたリアナのもとへジョアンナ夫人がやって来た。
「リアナ様、こんにちは」
「ジョアンナ侯爵夫人、今日もよろしくお願いします」
さっそく講義が始まる。ジョアンナ夫人の厳格な声が、図書室に響いた。机の上に広げられた厚い古文書と、複雑な紋章学の家系図。午前中の「産業革命」とは一変し、午後の講義はリアナの精神をじわじわと削り取るような、重厚な理論の応酬だった。
リアナはこめかみを押さえ、短く息を吐いた。前世の厨房での「戦場のような忙しさ」とはまた違う、静かな、しかし深い疲労が脳を支配し始めた頃――。
「ふふ、少し集中力が切れてきたようですわね。……ちょうどいい時間です。休憩にいたしましょう」
ジョアンナが扇子を閉じると、待機していたメイドが恭しくトレイを運んできた。
運ばれてきたのは、琥珀色のカラメルが美しく輝く「特製カスタードプリン」。そしてその傍らには、薄くスライスされ、蜜芋糖で軽くコンフィにされた「ポチの実(完熟ゆずレモン)」が添えられていた。
「あら……これは何ですか?」
ジョアンナが、初めて見るプリンに興味津々だった。
「これはプリンと言います」
「今朝、ポチ……守護樹から分けてもらった完熟の実を添えてみました。濃厚な卵の甘みと、ポチの実の爽やかな甘みの中の酸味は、きっと疲れた頭に効くはずですよ」
ジョアンナが銀のスプーンで、プリンとポチの実を一緒に口に運びます。
「…………っ!」
一瞬、夫人の動きが止まった。
滑らかで濃厚なプリンのコクが舌の上で解けた直後、ポチの実特有の鮮烈な香りと、上品な甘みと酸味がカラメルの苦味を包み込み、後味を驚くほど軽やかに変えていく。
「……見事ですわ、リアナ様。プリンとポチの実の甘みの後に来るこの爽快感……。まるで、混沌とした政情の中に、一条の光が差し込むような潔さ。この実は、あなたの料理にこれほどまでの気品を与えるのですね」
「ありがとうございます。ポチも、ジョアンナ様にそう言っていただけたら喜ぶわ」
リアナも一口。冷たいプリンが喉を通り、ポチの香りが鼻に抜けるたび、重苦しかった歴史の授業の内容が、不思議と整理されていくような感覚があった。
5.英気を養って、後半戦へ
「……リアナ様。今の『お目にかかれて光栄です』という挨拶ですが、相手が格下の場合、僅かに語尾を濁すことで『時間は取らせないでくれ』という意思表示を含ませるのです。お分かりですか?」
「……はい。相手の尊厳を保ちつつ、暗にこちらの優位を示す……ということですね」
ジョアンナ夫人の冷徹なまでの指導は、休憩を挟んでもなお衰えることを知らない。
そこから始まった二時間の講義は、まさに精神の持久戦。
一つは、「貴族の言葉遣い」。
それは単に丁寧な言葉を並べることではなく、婉曲表現(遠回しな言い方)の裏に刃を隠し、挨拶一つで爵位の力を誇示する「腹芸」の技術だ。
「検討いたします」が「二度と持ち出すな」という意味になり得る、この世界の言葉の迷宮に、リアナは前世のオーダー表を捌く以上の疲労を覚えていた。
もう一つは、「オルフェウス領の歴史」。
隣領との数世紀にわたる水利権争い、王家との微妙な距離感、そして歴代領主たちが積み上げてきた外交の失敗と成功。
「歴史を知らぬ者は、同じ石に二度躓く」というジョアンナの言葉が、リアナの脳裏に重く刻まれていく。
ようやく二時間が経過し、ジョアンナが「今日はここまでにしましょう」とペンを置いた時、リアナは背もたれに深く体を預けた。
「よく励みましたね、リアナ様」
ようやくジョアンナ夫人の許しが出た時、窓の外は夕焼けに包まれていた。
「……ありがとうございます、ジョアンナ様」
講義が終わると、リアナはエリーに用意させていた「家族用のプリン」を4つ、丁寧に包んでジョアンナ夫人に手渡した。
「ジョアンナ様、これ……。今日のお礼です。旦那様と、お子様方とご一緒にどうぞ」
さっきまで「背筋を伸ばしなさい!」と雷を落としていたジョアンナ侯爵夫人の顔が、その瞬間、パァッと明るくなった。
「あら!……あらあら、まあ! よろしいのですか? あの絶品のプリンを家族の分まで……。ふふ、今夜は子供たちの歓声が聞こえてきそうですわ。ありがとう、リアナ様」
そう言い残すと、夫人はまるで少女のような足取りで、上機嫌のまま馬車へと乗り込んでいった。
「……つ、つかれたわ……」
夫人の馬車が見えなくなるやいなや、リアナは玄関ホールの椅子に深々と崩れ落ちた。
前世で100人分のフルコースを仕上げた時よりも、今のほうが精神的な消耗が激しい。貴族の「作法」という名の見えない鎧は、想像以上にリアナの体を蝕んでいった。
「お疲れ様です、リアナ様。ジョアンナ様があんなに分かりやすく上機嫌になるなんて……プリンの威力は絶大ですね」
エリーが苦笑いしながら、リアナの肩を優しく揉みほぐす。
「……味方を作るには、まず胃袋を掴めって、前世……じゃなくて、私の持論よ。でも、代償に私の頭が爆発寸前だわ……」
貴族にとって歴史を知ることは、さらに領地を発展させることに繋がる。
6.究極の「ストレス解消」
ジョアンナ夫人の過酷なマナー講義を終えたリアナは、死んだ魚のような目を……一瞬でキラキラと輝かせた。
「気分転換に、ハンバーグを焼きに行くわよ!」
「ええっ!? お嬢様、あんなに疲れ果てていたのに、料理が気分転換になるのですか?」
エリーが驚愕の声を上げるが、リアナは鼻歌まじりにエプロンへと着替えた。
「当たり前じゃない。好きなことを全力でやるのが、一番のデトックスなのよ。」
厨房に降り立ったリアナは、料理長のアロイスと副料理長のロインを前に、テキパキと指示を出した。
「アロイス、今日は究極の『ふっくらハンバーグ』を焼くわよ。ポイントは『蒸し』ね。まず、中火で熱したフライパンに油を引き、成形した種を並べて。片面にいい焼き色がつくまで我慢よ」
ジューッ、という心地よい音が厨房に響き渡ります。
両面焼き:旨味を閉じ込めるための儀式。
蒸し焼き:少量の水を加え、蓋をして弱火で5分。
鉄則:「5分間、絶対に蓋は開けないこと!」
「焼き上がりの合図は、真ん中に刺した串から溢れる透明な肉汁。……よし、いいわね。フライパンに残った肉の旨味は、ソース作りに使うから捨てないでちょうだい!」
リアナは手際よく、「ゆずレモン」を効かせた和風ベースのソースを仕上げ、二つの皿を完成させた。
7.肉汁の洪水と、沈黙のシェフ
「さあ、冷めないうちに食べてみて」
促されたアロイスとロインが、おそるおそるナイフを入れた。その瞬間――。
「おお……っ!」
断面から、まるで堰を切ったように透明な肉汁が溢れ出し、皿を黄金色に染めた。二人は震える手でその肉片を口へと運び……そして、石像のように固まった。
「……どうかしら?」
リアナの問いかけが、遠くの方で聞こえる。
アロイスの脳裏には、これまで自分が作ってきた「肉料理」の概念がガラガラと崩れ去る音が響いていた。
(なんだ、この柔らかさは……。肉の暴力的な旨味を、ゆずレモンの酸味が上品なドレスのように包み込んでいる。噛むたびに溢れる肉汁が、脳を直接揺さぶってくる……!)
「……お、お嬢様……」
ようやく再起動したアロイスが、震える声で呟いた。
「私は今まで、肉を『焼く』ことしか考えていませんでした。水を加え、蒸らすことでこれほどの高みに到達できるとは。……完敗です。これこそが、我々が目指すべき『オルフェウスの新しい味』です!」
「大げさね」
リアナは満足げに微笑んだ。
「さぁ、一気に焼き上げるわよ」
「「はい!」」
厨房は、料理とは何なのかをリアナに教わった料理人たちで活気付いた。




