差し入れと、甘い裏切り
1.ゼノの全面協力
領民に売る蜜芋糖の工房が出来るまでの間、貴族用の生産を開始する。
「ハンス、バロン。圧搾機の『弐号機』が完成次第、すぐに貴族用の生産を開始するわよ」
「へ、へい……。承知しました」
リアナの断固とした宣言に、二人は顔を見合わせて頷いた。しかし、次なる課題はすぐに浮上する。
「問題は場所よね……。この屋敷の厨房を占拠するわけにもいかないし、清潔で火が使えて、ある程度の広さがある場所。どこかに無いかしら?」
顎に手を当てながら考え込むリアナに、商人のゼノがすかさず手を挙げた。
「リアナ様、もしよろしければ私の商会の裏にある倉庫をお使いになりませんか? それほど広くはありませんが、初期の小規模生産なら十分なスペースがございます。床も石造りで、火気の使用も問題ありません」
「あら、ゼノ! ぜひお願いするわ」
場所が決まれば、リアナの思考は一気に加速する。
「よし、決まりね。準備を整えて、一週間後には生産を開始するわよ」
その一言が放たれた瞬間、工房の空気が凍りついた。
「リ、リアナ様……今、『一週間』とおっしゃいましたか?」
バロンが震える声で聞き返すが、リアナは不思議そうに首を傾げた。
「ええ。だってバロン、弐号機の完成には『あと一週間くらい』って言っていたじゃない」
「あ、いや……それはあくまで最短の目安でして……調整や試運転を考えれば……」
バロンの言葉は、リアナの輝く笑顔の前に霧散した。リアナにとって「一週間くらい」は「一週間後には動いている」と同義なのだ。
ハンスとバロンの顔から、みるみると血の気が引いていくのをエリーは見逃さなかった。
(ああ……。また職人さんたちの寿命が削られていくわ……)
エリーは心の中で彼らに深く同情したが、暴走するリアナを止める術を彼女は持ち合わせていない。
「ではリアナ様、私はこれで失礼します。すぐに倉庫の片付けと、煮詰め用の大型釜の製作を各所へ手配して参ります!」
ゼノは商機を逃すまいと、活き活きとした足取りで商会へと戻って行った。
「ええ、頼んだわよ、ゼノ!」
その場に残されたハンスとバロンは、幽霊でも見たかのような表情で立ち尽くしていた。彼らの戦いは、今この瞬間から始まったのだ。
2.職人たちの限界
工房の熱気に包まれながら、ハンスとバロン、そして職人たちの表情は一様に土気色を呈していた。目の前には晴れやかな笑顔を浮かべるリアナ。そのコントラストは、まるで光と影の残酷な対比のようだった。
「おい、ハンス……。ええかげん帰らんと、カカアに殺されちまうぞ……」
一人の職人が、震える手で槌を置きながら呻いた。
「俺もおんなじだ……。昨日も徹夜同然だったんだ。今日帰らなかったら、家に入れてもらえねえ」
「俺もだ!」
「おいらもだ!」
工房内に、悲痛な「帰宅願望」の合唱が響き渡る。家族を愛し、同時に家族を恐れる男たちの切実な叫びだ。
そんなザワつく職人たちを眺め、リアナはパチンと優雅に指を鳴らした。
「あら、そんなに心配しなくてもいいわよ。皆さんの奥様方には、こちらから『誠意』を持って説明済みだから」
その言葉に、バロンが縋るような目で問いかける。
「せ、誠意……? お嬢様、うちのカミさんはなんて言ってやした……?」
傍らに立つエリーが、(え? それ、本気で聞いちゃうの……?)と言わんばかりの呆れ顔をする中、リアナは最高に美しい、慈愛に満ちた微笑みで答えた。
「『死なない程度にこき使っていい』そうよ」
3.天使の皮を被った悪魔
「…………っ!!」
工房の温度が、一瞬で氷点下まで下がったかのような沈黙が流れた。リアナの放った「死なない程度」という慈悲なき妥協案。それは、職人たちにとって死刑宣告よりも恐ろしい「労働の許可証」だった。
(……そりゃそうよね)
エリーは心の中で、冷静に事の裏側を分析した。
奥様方が陥落した三つの理由
給金二倍: この一週間限定の特別ボーナス
蜜芋糖のクッキー: リアナ自らが焼き上げた、この世のものとは思えない甘い誘惑
将来の安定: 伯爵家直属の工房というステータス
現金なもので、家計と甘味を握られた夫人たちにとって、夫の数日間の不眠不休など「誤差」に過ぎなかったのだ。
「死ぬまでじゃないなんて、あなたたちは奥様方に本当に愛されているわね。感謝しなさい?」
リアナは追い打ちをかけるように、無邪気なトーンで言い放った。
「「え、えーーーーっ!!?」」
絶望の叫びが工房の天井を突き抜ける。
しかし、その絶望とは裏腹に、職人たちの手は止まらない。いや、止めることができない。愛という名の「強制労働」と、リアナの「悪魔の微笑」が、彼らを弐号機の完成へと駆り立てていく。
4.嵐の来訪者
工房内に響き渡る金属音と、職人たちの荒い息遣い。その喧騒を切り裂くように、外からドタドタと賑やかな足音が近づいてきた。
バァーン!
勢いよく扉が開くと、そこには仁王立ちになった女性たちの姿があった。職人たちの妻――その先頭に立つのは、バロンの妻であり、この界隈の肝っ玉母ちゃんとして知られるヨハネ。
「あんた! 着替え持ってきたよ!」
開口一番、ヨハネが雷のような声を上げた。
「お、おい……ヨハネ! なんでここに!」
慌てて駆け寄るバロンだったが、ヨハネは「なにさ、汚い格好して」と鼻で笑い、大きな風呂敷包みを突き出した。
「こんにちは、奥様方。お疲れ様ですわ」
殺気立った妻たちの背後から、鈴を転がすような涼やかな声が響いた。
声のした方に一斉に振り向くと、そこには木材の端切れを椅子代わりに、優雅に座るリアナの姿があった。
「え……り、リアナ様っ!?」
職人たちの妻が、一瞬で顔を強張らせて姿勢を正した。高貴な伯爵令嬢が、煤の舞う工房に平然と座っている光景は、彼女たちにとって衝撃以外の何ものでもない。
「リ、リアナ様。こ、こんにちは! お騒がせして申し訳ございません!」
「いいのよ。こちらこそ、急ぎの仕事で旦那様たちを拘束してしまって……ごめんなさいね」
リアナが申し訳なさそうに小首を傾げると、ヨハネはぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえいえ! 滅相もございません! むしろ、とことんこき使ってやってください!」
「お、おい、ヨハネ! お前、なんてことを!」
夫たちの悲鳴を無視して、ヨハネの瞳はキラキラと輝いていた。
「いいじゃないのさ、あんたたち。三食、伯爵家と同じ料理を食べさせてもらってるんでしょ?」
ヨハネがそう言い放つのには、確かな理由があった。
先日、リアナから届けられた「蜜芋糖のクッキー」。一口食べた瞬間、ヨハネの脳内には革命が起きたのだ。サクッとした食感の後に広がる、濃厚な蜜芋糖の甘みとゆずレモンの爽やかな酸味。
(あんなに美味しいものを毎日作れるお嬢様の下で、三食もご飯を頂いてるなんて……。この人たち、贅沢すぎるわ!)
ヨハネをはじめとする妻たちは、今や「リアナ教」の敬虔な信者と化していた。美味しい食べ物と高額な給金。それさえあれば、夫の一週間や二週間の徹夜など、彼女たちにとっては「名誉な奉公」に過ぎなかったのだ。
「……そうよ。今日は朝食に『三色そぼろ丼』、お昼は『特製サンドイッチ』を出す予定よ。夕食は、ハンバーグよ」
リアナが献立を口にするたび、妻たちの喉が「ゴクリ」と鳴り、職人たちの肩が「ガクリ」と落ちた。
「ハンバーグ……!? 何だいそれは! 名前からして美味しそうじゃないか!」
「あんた、一滴も残さず食べて、しっかり働くんだよ!」
もはや工房は、職人たちのシェルターではなくなった。
背後には「期待」という名の重圧をかける妻たち。
目の前には「食欲」という餌で首輪をかける可憐な令嬢。
逃げ場を失ったバロンたちは、力なく槌を握り直した。彼らが「弐号機」を完成させるまで、安息の地はオルフェウス領のどこにも存在しなかったのだ。




