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わがまま伯爵令嬢の料理改革  作者: のほほん


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画伯の苦悩と、ジョアンナの「陥落」

1.文武両道の午後


二時間の集中した座学が終わると、孤児院の空気は一気に切り替わる。


ジョアンナが「今日の勉強はここまで」と告げた瞬間、子供たちは二手に分かれた。


一方は、ラウルの待つ庭へ。もう一方は、食堂に残ってジョアンナの指導を受ける。


特に決まりがあるわけではないが、自然と男の子たちは外へ、女の子たちはそのまま待機する。


「おい、腰が高いぞ! そんなんじゃ魔物の突進は防げん!」


庭からは、ラウルの力強い声と、木剣がぶつかり合う乾いた音が聞こえてくる。


かつては「冒険者以外に道はない」と悲観していた少年たちが、今は「守るための力」を身につけようと目を輝かせていた。


その様子を、リアナは食堂の窓から見守っている。




2.針穴と沈黙の集中力


一方、食堂は静まり返っていた。


ジョアンナによる裁縫授業の時間だ。


「いいですか、針先は常に指の外側を向くように。一針一針に心を込めるのです」


ジョアンナの指導は、裁縫においても厳格だった。

子供たちはもちろん、リアナもまた、真剣な表情で布地に向き合っていた。


リアナ(工藤玲子)は、前世で包丁を握り続けた女だ。指先の器用さには自信がある。針を運ぶ速度も正確で、縫い目は定規で引いたように真っ直ぐだ。

だが――彼女には、たった一つ致命的な欠点があった。


「……リアナ様、失礼ですが。これは何をデザインされたのですか?」


ジョアンナが、リアナの刺している刺繍を覗き込み、眉間に深い皺を寄せた。


まわりの女の子たちも、思わず作業の手を止めてリアナの布に注目する。


そこには、リアナが精一杯の愛情を込めて描いた「下絵」に基づいた刺繍があった。


「えっ? 見ればわかるじゃない。『ポチ(ゆずレモンの木)』よ。この部分は力強い幹で、上にあるのが瑞々しい果実……」


「……私には、怒り狂ったジャガイモから触手が生えているように見えますわ」


ジョアンナの無慈悲な指摘に、リアナの肩がビクッと跳ねた。


そう、リアナには壊滅的に絵心がなかったのである。


「あら……。おかしいわね、私の頭の中ではもっと神々しい守護樹が描かれていたはずなのに……」


「お嬢様、やはりデザインだけは別の者に任せたほうがよろしいかと。このままでは、孤児院の子供たちが『呪いの呪文』が刻まれた布だと勘違いしてしまいます」


「ひどいわ、ジョアンナ様!」



3.掲げられた「謎の生命体」


リアナは、ふと前世――工藤玲子として老舗料亭の調理場を預かっていた時代のことを思い出していた。


あの日も、調理場の空気は妙な緊張感に包まれていた。


お品書きを書く冊子に、料理長である玲子がその日のメイン食材のイラストを描き込む。それが合図だった。


「よし、全員集まれ。……今日のおすすめは、これね」


玲子が自信満々に指し示した冊子の余白には、丸っこい胴体に、数本のピョロリとした線が生えた何かが描かれていた。


それを見たベテランから若手まで、料理人たちは一斉に思考をフル回転させる。


「……うーん、今日のは一段と難しいな」


「形からすると、ナマズに見えなくもないですが」


「え? 鱗っぽい線があるし、鯉じゃないのか?」


「魚なのは分かる……魚なのは分かるんだがな……」


彼らがこれほどまでに真剣になるのには、切実な理由があった。玲子の「迷画」が何であるかをピタリと言い当てた者は、その日の面倒な片付け作業をすべて免除されるという、調理場の暗黙のルールがあったからだ。


「俺、鯉でいくわ。この時期、良いのが入るって言ってたし」


「俺はナマズだな。このヌルッとした線の書き方はナマズ特有だろ」


「いや、意表を突いてブリだ。この太さは脂ののったブリに違いない」


「……俺、ウナギにしようかな」


若手の一人がポツリと零した言葉に、周囲からツッコミが入る。


「ウナギはねーだろ! どんな太ったウナギだよ、これ」


「でも、この口元のヒゲだけウナギっぽくないですか?」


「ヒゲはフェイクだろ。料理長の罠だ」


「いや待て、太っててヒゲがあるのはやっぱりナマズだろ。俺はナマズに賭けるぜ!」


やがて仕込みの時間になり、業者から新鮮な食材が次々と運び込まれてくる。その中に、ひときわ冷えた発泡スチロールの箱があった。


「よし、いくぞ。正解発表だ」


玲子がニヤリと笑い、箱の蓋を勢いよく開ける。

中には、酸素を含んだ水の中で、鮮度の良い丸々と太ったウナギがうねっていた。


「よっしゃあああ!! ウナギだ!!」


「まじかよ! 確かに太ったウナギだけど……料理長、あの絵、太り過ぎじゃないっすか!?」


「どう考えてもツチノコですよ、あれじゃ!」


調理場に爆笑と落胆の声が響き渡る。玲子は「ウナギはスタミナの象徴なんだから、ふくよかに描くのが礼儀よ」と、全く悪びれる様子もない。


「おーい、カナデ。お客さんに出すお品書きのイラスト、ウナギで描き直しといて」


「はーい、了解です!」


美大崩れの若手、カナデがササッと筆を走らせると、そこには誰が見ても美味しそうな、今にも動き出しそうなウナギが現れた。


(……あの頃も、絵だけは誰にも理解されなかったわね)


料理の腕は超一流、経営の才も抜群、魔法のような知識も持っている。


けれど、ペン(あるいは針)を持たせると、彼女は途端に「自称・芸術家」という名の迷子になってしまうのだった。



4.攻守交代のベル


一時間の裁縫授業が終わり、食堂には心地よい疲労感が漂っていた。しかし、リアナが立ち上がると同時に、空気は再びピリリと引き締まる。ここからは、先生と生徒の立場が鮮やかに逆転する時間だ。


「さあ、次は晩御飯の準備よ。今日のメニューは『根菜の黄金味噌スープと唐揚げ』よ。みんな、手を洗って調理台に集まって!」


先ほどまで刺繍のデザインでジョアンナに完膚なきまでに論破されていたリアナだったが、エプロンを締め直したその背中には、老舗料亭を束ねてきた「料理長」の風格が宿っていた。


まずは、山積みにされた野菜たちの下処理から始まる。


「まずは野菜を洗って皮を剥く。そして、ここが一番重要よ。『大きさを揃えて切ること』。大きさがバラバラだと、あるものはドロドロに溶け、あるものは芯が残ってしまうわ。口の中で同時に一番美味しい状態にするために、包丁の動きを一定にするのよ」


リアナが手本を見せると、トントントン、と軽快で正確なリズムが刻まれる。次に子供たちは、恐る恐る包丁を握り食材を切り出す。


その中には、先ほどまで厳格に裁縫を教えていたジョアンナの姿もあった。


彼女は名門貴族の出身だ。これまでの人生、食事は「運ばれてくるもの」であり、刃物は護身用か、あるいは食卓で肉を切り分けるためのものだった。


(……布を断つより、ずっと重厚な手応えですわね)


ジョアンナは、子供たちに負けないほど真剣な(そして少し怯えた)表情で、キャロテ(人参)と格闘し始めた。


「切れたら次は火を通していくわよ。食材によって茹でる時間は違うから、入れる順番が命。間違えないでね」


リアナは指を一本立てて、子供たちとジョアンナに説く。


第一陣:キャロテ(人参)

「一番火が通りにくいこの子から。じっくり甘みを引き出すの」


第二陣:ジャガイモ

「少し時間を置いてから投入。キャロテが柔らかくなるのを待ってね」


第三陣:オニン(玉ねぎ)

「最後にオニン。シャキシャキ感を残しつつ、透き通るまで煮るわよ」


子供たちは、リアナの言葉を聞き漏らすまいと、鍋の中をじっと見つめている。ジョアンナもまた、隣の少年の手つきを見よう見まねで倣いながら、人生で初めての「煮炊き」に没頭していた。


「最後に、この『味噌』を溶き入れれば完成よ」


リアナが発酵貯蔵庫から持ってきた特製の味噌を差し出すと、子供たちから「わあぁ……」と歓声が上がった。


沸騰したスープに味噌が溶け出すと、それまでの野菜の甘い香りに、深く、香ばしい、日本人の魂を揺さぶるような香りが加わる。


「さあ、食べてみて」


自分たちで切り、順番を守って煮込んだスープ。

ジョアンナはスプーンを手に取り、自分で不格好に切ったキャロテを口に運んだ。


「……信じられません。ただの野菜が、これほどまでに深い味わいになるなんて。……リアナ様、料理とは、まるで精密な建築のようですわね」


リアナはニコリと微笑んだ。



5.黄金の主役、登場


「さあ、スープができたなら、いよいよ今日の主役よ」


リアナが取り出したのは、特製のタレに漬け込まれた鶏肉の塊。そして、パチパチと小気味よい音を立てる揚げ油の鍋だ。


「『唐揚げ』を作るわよ」


その言葉に、子供たちは一斉に歓声を上げた。騎士団を虜にし、今や伯爵邸の「茶色い正義」として君臨するあの料理。だが、この唐揚げこそが、厳格な貴族であったジョアンナをこの孤児院に繋ぎ止めた「元凶」でもあった。


それは一ヶ月前、リアナが教育の必要性を痛感し、知己であったジョアンナに家庭教師を依頼した時のことだ。


「ジョアンナ様、孤児院の子供たちに勉強を教えて差し上げられないかしら。もちろん、相応の給金はお支払いしますわ」


リアナの頼みに、ジョアンナは扇子を広げて毅然と首を振った。 


「リアナ様、お戯れを。……貴族が平民の、それも身寄りのない子供に学問を授けるなど、あり得ませんわ。それは階級の秩序を乱す不名誉なことです」


鉄壁の拒絶。しかし、リアナはそこで引き下がるような女ではない。彼女は「あら、そう。残念ね」と呟くと、傍らに置いてあったバスケットから、おもむろに「それ」を取り出した。


リアナが手に持っていたのは、食パンにスライスした唐揚げとレタスを乗せマヨネーズをかけて挟んだ「唐揚げサンドイッチ」だった。


自家製マヨネーズのコクと、唐揚げの香ばしい匂いが、静かな部屋に充満する。


「うーん、美味しいわ! 唐揚げの肉汁がパンに染みて……最高」


「そ、……それは何ですの!?」


「唐揚げサンドイッチよ。ジョアンナ様も召し上がる? ただし、これ、『手で掴んで』食べることになりますけれど」


ジョアンナの動きが止まった。貴族にとって、人前で素手で食事をするなど論外だ。


だが、鼻腔をくすぐる暴力的なまでに食欲をそそる香りと、リアナが幸せそうに頬張る姿に、彼女の理性が音を立てて崩れていく。


(一口だけ……毒見として、一口だけなら……)


震える手でサンドイッチを一つ取り、口へと運ぶ。

サクッ。ふわ。ジュワ。


「えっ! な、……なんですのこれは! 凄く美味しい……っ!」


「ふふ、ジョアンナ様。貴族は手掴みで物を食べることはあり得ませんわよね? これで貴族の常識が一つ崩れましたわね」


リアナがニコリと悪魔のような、あるいは天使のような微笑みを浮かべた。


「あ、孤児院ではこれから定期的に料理教室も開くつもりなんですの。ジョアンナ様もどうかしら?」


「オ、オホン……! ……と、とりあえず、一度だけ、様子を見てから決めますわ……!」



6.そして現在の調理場にて


「……そういえば、あの時もこの匂いでしたわね」


現在の調理場。ジョアンナは当時のことを思い出したのか、少しだけ頬を赤らめながら、真剣な眼差しで油の温度を見守っていた。


今や彼女は、子供たちに地理や算術を教える傍ら、自らも包丁を握り、リアナの「弟子」のような顔をして調理実習に参加している。


「いい、ジョアンナ様。二度揚げが基本よ。一度引き上げて余熱を通す……これが『サク・ジュワ』の秘訣なんだから」


「はい、リアナ様。心得ておりますわ」


かつての厳格な貴族講師はどこへやら。


ジョアンナは、自分より小さな子供たちの隣で、黄金色に揚がっていく唐揚げを愛おしそうに見つめるのであった。

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