教会の小さな食卓と、規律ある笑顔
1.聖域に響く「日常」の音
激動の午前中を終え、リアナが訪れたのは領都の外れにある教会だった。
ここでは、親を亡くした子供たちが共に暮らす孤児院が併設されている。
「こんにちは、シスター」
「リアナ様、いらっしゃいませ。今日も子供たちのために、あんなに素晴らしいスープを届けてくださって……」
シスターたちは深々と頭を下げてリアナを迎える。彼女たちが纏う穏やかな空気は、先ほどまで火花を散らしていた木工鍛冶工房とは正反対のものだ。だが、リアナにとってはどちらも領地を支える大切な「現場」だった。
リアナが孤児院の食堂に足を踏み入れると、先ほどまで静かだった空間が一変した。
「「リアナ様、こんにちは!」」
割れんばかりの子供たちの唱和。小さな子供から、少し背の伸びた少年少女まで、誰もが目を輝かせてリアナを見つめている。
「はい、こんにちは。みんな、今日も元気ね。お腹は空いてる?」
リアナは特別な席に座るのではなく、子供たちと同じ木製の長いベンチに腰を下ろした。
今日のメニューは、厨房から届けられた「ムーンシルバーの出汁が効いた野菜スープとムーンシルバーのほぐした身が入ったおにぎり」。リアナが教えたレシピで作られた、滋味深い一皿だ。
子供たちは行儀よく、けれど逞しくスプーンを動かしていく。
「リアナ様、このスープ、すっごく美味しいよ!」
「野菜を細かく刻んであるから、苦くないもん!」
リアナはその様子を微笑ましく見つめながら、自分も一口、スープを口に運んだ。素材の旨味が染み渡るその味は、背伸びをしない、安心感に満ちたものだった。
2.徹底された「オルフェウス・ルール」
食事が終わると、合図があったわけでもないのに子供たちが一斉に立ち上がった。
「よし、片付けだぞ!」
「テーブルも拭かなきゃ!」
子供たちは手際よく自分の食器を運び、騎士たちと同じように自ら洗い場へ向かう。
小さな子が落としそうになれば、年上の子がさっと手を貸す。
食べること、そして片付けること。リアナが持ち込んだこの「自立のルール」は、子供たちの心に、自分たちの場所を自分たちで守るという誇りを植え付けていた。
「素晴らしいわ、みんな。明日も美味しいものを持ってくるからね」
リアナが満足げに頷いた、その時だった。
3.知の番人、ジョアンナの登場
カツカツと、硬い靴音が食堂の入り口で止まった。
「……失礼いたします」
現れたのは、凛とした空気を纏った女性、講師のジョアンナだった。彼女の腕には何冊かの重そうな本と、領地の地図が抱えられている。
彼女の登場と共に、子供たちの空気が一瞬で「学び」の緊張感へと切り替わった。
「リアナ様、お越しでしたか。子供たちの体力(胃袋)を満たしてくださったこと、感謝いたします。……さて、子供たち。お腹が満たされたなら、次は『頭』を動かす時間ですよ」
ジョアンナの鋭い、けれど慈しみのある視線がリアナと子供たちを捉える。
これから始まるのは、リアナがこの孤児院で進めているもう一つのプロジェクト――「教育」の時間だった。
4.豊かさの定義
ジョアンナが教卓に立ち、地図を広げる音を聞きながら、リアナは壁際で静かに子供たちの背中を見つめていた。
(日本って、本当に恵まれていたのね……)
前世、工藤玲子だった頃の記憶が蘇る。日本では、子供なら誰もが学校へ行き、読み書きや計算を学ぶ。それは当たり前に与えられた「権利」だった。
けれど、この世界では違う。平民の子供に教育の機会などほとんどない。義務教育という概念すら存在せず、家庭がある子ですら幼いうちから貴重な労働力として駆り出される。
玲子自身も、決して裕福な境遇ではなかった。彼女もまた、日本の孤児院出身だったからだ。
中学校を卒業すると同時に、老舗料亭の見習いとして住み込みで働き始めた。昼は厳しい修行に明け暮れ、夜はくたくたになりながら夜間高校へ通う日々。気づけば包丁一本で料理長の座まで登りつめていたが、その根底を支えていたのは、間違いなく「教育」という土台だった。
5.「夢」を知らなかった子供たち
リアナが初めてこの孤児院を訪れた時のことを思い出す。
好奇心に満ちた瞳で自分を見つめる子供たちに、彼女はこう問いかけた。
「あなた達の夢は何?」
返ってきたのは、困惑したような沈黙だった。一人の子供が、不思議そうに呟いた。
「……夢って、なあに?」
「大きくなったら、何になりたいかってことよ」
リアナが言い換えると、一人の少年が「冒険者になりたい」と答えた。それを皮切りに、「私も冒険者」「俺も」と声が重なった。
「あら、全員冒険者なのね。人気なのね」
感心したように頷くリアナに、年長の少年が寂しげに笑って言った。
「……冒険者以外、なれるものがないから」
その言葉の重みに、リアナは胸を突かれた。
教育を受けていない子供にとって、身一つで稼げる冒険者は、唯一残された「一攫千金の可能性」に見える。だが実態は、命を落とすか、夢破れて搾取されるだけの労働者になるかの二択に近い。
過酷な労働、安い賃金。学がないために契約書も読めず、不当な扱いに声を上げることもできない。そして生まれた子供もまた同じ道を歩む――。
それは、断ち切ることの難しい「負の連鎖」だった。
(やれることは限られている。でも、始めなければ何も変わらないわ)
リアナが手始めに動いたのは、この孤児院に「教育」を持ち込むことだった。
文字が読めれば詐欺から身を守れる。計算ができれば商売ができる。知識があれば、選べる道が増える。
今の孤児院には、以前のような「諦め」の空気はない。
「ねえ、俺、やっぱり料理人になりたい。リアナ様みたいなすごい料理をいつか作るんだ」
「私は裁縫師。お城のドレスを縫ってみたいの」
「ジョアンナ先生みたいに、教える人になるのもいいな」
子供たちの口から語られる「夢」はまだ少ないかもしれない。けれど、確実に広がり始めていた。
「さあ、始めますよ」
ジョアンナの凛とした声が響く。
授業の基本は、実生活に直結する「読み書き」と「計算」に特化させている。だが、子供たちが最も身を乗り出すのは、意外にも「地理」の時間だった。
「ここは私たちが住むオルフェウス領。そしてこの山脈を越えると……」
ジョアンナが指し示す地図の先。
元々は冒険者志望の子たちのために始めた地理だったが、今では全員が真剣な眼差しで、まだ見ぬ外の世界の話に耳を傾けている。
彼らにとって地図は、ただの地名が書かれた紙ではない。自分の意志でどこへでも行ける、未来への「切符」なのだ。
リアナは、真剣にチョークを走らせる子供たちの横顔を見ながら、心の中で静かに祈った。
(もっと広がるわ。あなたたちの可能性は、この領地よりも、ずっと、ずっと広いのよ)




