伯爵邸の戦場と、「禁断の豆」
1. 爽やかな目覚めと「ポチ」
朝の光が、重厚なカーテンの隙間から差し込んでいた。
その静寂を破ったのは、小気味よい足音と、バッと布が翻る音だ。
「お嬢様、朝ですよ! いつまで夢の中にいらっしゃるんですか」
エリーが勢いよくカーテンを開け、窓を解き放つ。
次の瞬間、澄んだ空気と共に、弾けるような瑞々しさと高貴な甘さを湛えたゆずレモンの香りが、部屋の中を支配した。
リアナはまどろみの中で窓辺に歩み寄ると、外の巨木に向かって小さく手を振った。
「おはよう、ポチ」
――ザアアアアッ。
木は嬉しそうに枝を揺らし、リアナの挨拶に応える。その光景に、着替えの準備をしていたエリーが深い溜め息をつきながら鋭いツッコミを入れた。
「はぁ……。お嬢様、なんで木に名前をつけているんですか。それも『ポチ』って……」
「あら、呼びやすくて親しみが出るじゃない」
「『ポチおいで』なんて絶対に言わないでくださいよ? 本当に根っこを引き抜いてこっちに来そうで怖いんですから……」
エリーの切実な忠告を「はいはい」と聞き流しながら、リアナは今日という一日をどう「美味しく」するか、思考を切り替えた。
2. 厨房の「塩」を巡る攻防
身支度を整えたリアナが真っ先に向かったのは、料理長アロイスが待つ厨房だ。
調理台の上には、今朝届いたばかりのムーンシルバー(鮭)の半身が鎮座していた。銀色に輝く美しい身だが、保存のためにこれでもかと塩が擦り込まれており、表面には白い結晶が浮いている。
「お嬢様、おはようございます。このムーンシルバーですが、塩気が強そうです。普通に焼けば、一口で水が一杯欲しくなる代物です」
アロイスが困ったように眉を下げた。
リアナは鮭の身をじっと見つめる。
(……本当なら、ここで昆布だしに浸して旨味を吸わせながら塩を抜きたいけれど。……あいにく、まだ昆布は手元にないのよね)
ないものを嘆いても始まらない。リアナはアロイスに向かって、指示を出した。
「アロイス、今日の献立はこうしましょう」
朝食: ムーンシルバーの塩抜きグリル ~ゆずレモンバターを添えて~
昼食: 鮭のほぐし身とハーブの混ぜご飯(おにぎり仕立て)
ディナー: 鮭の厚切りムニエル・完熟シトラスソース
「まずは塩抜きを行うわ、アロイス、この鮭を『塩水』に浸けてちょうだい」
「……はい? お嬢様、聞き間違いでしょうか。これ以上塩を足すのですか?」
「いいえ。これは『迎え塩』という技法よ」
アロイスだけでなく、横で見ていた料理人たちも怪訝な顔を隠さない。
「お嬢様、塩を抜くのにお水ではなく、塩水を使うのですか? 逆効果ではありませんか?」
「普通のお水に浸けると、鮭の旨味まで外に逃げてしまうのよ。それに、身が水っぽくブヨブヨになってしまうわ。でも、薄い塩水に浸ければ、不思議なことに鮭の中の塩分だけが外に引き出されるのよ」
リアナはボウルに張った水に、少量の塩と、そして仕上げにゆずレモンの果汁を一滴落とした。
「このゆずレモンの酸が、身を引き締め、生臭さを消してくれるわ。この果実の力だけで、この鮭は極上の朝食に変わるわよ」
アロイスは半信半疑ながらも、リアナの確信に満ちた瞳に押され、鮭をそっと黄金色の雫が混じる塩水に沈めた。
一刻(約二時間)ほど経ち、焼き上がったムーンシルバーは、驚くほどふっくらとしていた。
余分な塩気が抜けたことで鮭本来の濃厚な脂の甘みが際立ち、そこにゆずレモンの爽やかな香りが鼻を抜ける。
「……素晴らしいです、お嬢様、これはもはや別の魚です」
アロイスの感嘆の声が厨房に響く。
リアナは満足げに頷き、一口、黄金の雫を纏った鮭を口に運んだ。
「ええ、美味しいわ。……でも、これに昆布の旨味が加わったら、きっと世界がひっくり返るほど美味しくなるはずよ」
彼女の視線は、まだ見ぬ「海の宝」へと向けられていた。
館で働く者たちの活力源、汗を流した騎士たちの血肉、そして、領都の教会にある孤児院の子供たちの、ささやかな希望。
「アロイス、孤児院へ届けるスープの準備はいいかしら? 子供たちの成長には栄養が必要よ。ムーンシルバーの残りの骨で取った出汁に、細かく刻んだ野菜をたっぷり入れてちょうだい」
「はっ、すでに準備しております。お嬢様の仰った通り、すりおろした野菜も混ぜて、好き嫌いなく食べられるよう工夫しました」
アロイスは大きな鍋をかき混ぜながら、手際よく指示をこなしていく。リアナがこの厨房に関わるようになってから、孤児院に届けられる食事の質は劇的に向上していた。
3.騎士たちの熱狂的な「執着」
しかし、厨房には孤児院向けの優しいスープの香りとは別に、もう一つ――強烈で、抗いがたい「香ばしい匂い」が立ち込め始めていた。
それは、朝の猛訓練を終えたばかりの騎士たちが、狂おしいほどに待ち望んでいる匂いだ。
「さて、次は『猛獣』たちの餌ね」
リアナがニヤリと笑いながら、下処理された山のような鶏肉を指差した。
彼ら騎士たちは、事あるごとに、隙あらば、そして隙がなくても「あの料理」を要求してくる。
「アロイス、ロックバードの唐揚げの準備を。今日は昨日よりも一袋分、多く揚げなさい」
「お嬢様、やはり今日もですか……。彼ら、昨夜も『明日の朝は唐揚げがいい』と窓の外で唱えておりましたよ」
「騎士は体が資本だもの。筋肉にはタンパク質と、何より『脂』が必要なのよ」
4.リアナ流・究極の唐揚げ指令
リアナは自らボウルの中の鶏肉を確認する。
騎士たちが夢中になる「リアナ流唐揚げ」には、彼女ならではのこだわりが詰まっていた。
秘策一:ゆずレモン水でのマリネ
まずは「ポチ」の実の果汁を加えた水に浸し、肉の繊維をほぐして究極の柔らかさを引き出す。
秘策二:迎え塩の応用
薄い塩水で下味を付けることで、肉汁を逃さず、中まで均一に旨味を届ける。
秘策三:二度揚げの徹底
一度目は低温でじっくり。仕上げは高温でガツンと揚げ、外はカリッ、中はジュワッとした食感を生む。
「いい、アロイス。衣には少しだけ砕いたナッツを混ぜてみて。食感がさらに強まって、彼らの顎も喜ぶはずだわ。仕上げはもちろん、搾りたてのゆずレモンよ!」
「承知いたしました! 揚げ油の温度、上げます!」
5.狂騒のビュッフェライン
朝の訓練を終えた騎士たちの足音と、エプロンをなびかせたメイドたちの談笑が重なり、館の食堂は一気に熱を帯びる。
テーブルの上に並ぶのは、リアナの指揮のもとアロイスたちが作り上げた「戦力」としての食事だ。
黄金の唐揚げ:大皿に山盛り。ゆずレモンの雫で輝いている。
ポロの実の炊き込みご飯:この領地独特の穀物の香ばしさが食欲をそそる。
彩りサラダと野菜たっぷりスープ:孤児院へ届けたものと同じ、慈愛の味。
ムーンシルバーの塩抜きグリル ~ゆずレモンバターを添えて~:朝から揚げ物は……というメイドや年配の使用人のための、気品ある選択肢。
「さあ、並びなさい! ただし、押し合わないこと!」
リアナが号令をかけるが早いか、食堂内はさながら戦場と化した。
「唐揚げだ! 今日も山盛りだぞ!」
「待て、一人三つまでだと言っただろうが!」
騎士たちの猛攻は凄まじい。皿がテーブルに置かれた数秒後には、底が見え始める。厨房ではアロイスが「次だ! 二度揚げの第二陣を急げ!」と叫び、揚げたての唐揚げを補充し続ける。
まさに、「食らう騎士」と「供給する料理人」の意地をかけた戦いである。
一方で、メイドたちはムーンシルバーのふっくらとした身をポロの実のご飯に乗せ、上品に、しかし着実に皿を空にしていった。
「ふふ、みんな元気でいいわね」
リアナは、山のような唐揚げが瞬時に消えていく光景を満足げに眺めていた。この「食」への執着こそが、領地を支える原動力なのだ。
これほど混沌とした食事風景でありながら、食堂には一つの「鉄則」があった。
『自分の使った食器は、自分で洗うこと』
食べ終わった者から順に、流し台でカチャカチャと器を洗う音が響く。どんなに武功を上げた騎士であっても、リアナの決めたこのルールには逆らえない。
「ごちそうさまでした、お嬢様!」
食器を洗い終えた者から順に足早に職場へと戻り、それと入れ替わりで、まだ食事を済ませていない次のグループがやってくる。効率的で無駄のない、オルフェウス邸の朝のルーチンだ。
朝の喧騒が一段落すると、食堂の片隅には布を被せられた大きな籠が置かれる。
「お昼は、各自勝手に食べなさい。今日は鮭のほぐし身を混ぜたおにぎりを用意しておいたわ」
これはリアナの提案による「自由食」だ。忙しくて昼休憩が取れない騎士や、小腹が空いたメイドが、自分のタイミングで摘めるように用意されたもの。
「食べたい者だけが、食べたい時に。……でも、きっとすぐになくなるのでしょうね」
リアナの予言通り、午後の見回りから戻ったラウルが「お、今日もおにぎりがある!」と嬉しそうに籠へ手を伸ばす。その手には、朝あれほど唐揚げを食べたとは思えないほどの活力に満ちていた。
一日の始まりにしっかり食べ、自分の後片付けは自分でする。
リアナが作り上げた新しい食堂の形は、館の結束をどこよりも強く固めていた。
6.静寂の食卓
使用人たちや騎士たちの嵐のような朝食時間が過ぎ去り、館にようやく落ち着いた時間が戻ってきた頃。少し遅い朝食を摂るために、リアナは館の主食堂へと足を踏み入れた。
そこでは、父である伯爵エリオンと、母のエルザが、優雅にカトラリーを動かしながら静かに食事を愉しんでいた。騎士たちの戦場のような喧騒とは無縁の、貴族らしい穏やかな光景である。
「おはようございます。お父様、お母様」
リアナが声をかけると、二人は顔を上げ、柔らかな微笑みを浮かべた。
「うむ、おはようリアナ。昨夜も遅くまで厨房にいたようだが、よく眠れたか?」
「おはようリアナ。今日も元気そうで何よりだわ」
「ええ、最高に清々しい朝ですわ。ポチの香りも素晴らしいですし」
リアナが席に着くと、待機していた給仕が手際よく彼女の前に朝食を並べていく。
香ばしく炊き上がったポロの実のご飯、先ほど「迎え塩」で完璧に仕上げられたムーンシルバーの塩抜きグリル ~ゆずレモンバターを添えて~、そして色とりどりの野菜たっぷりのスープ。ここまでは、完璧に洗練された「オルフェウス領の朝」だった。
――だが、その一角に、異質な存在感を放つ小鉢が置かれた。
糸を引き、独特の重厚な香りを放つ茶褐色の粒。納豆である。
7.伯爵の苦悩
「…………ゴホン」
それまで優雅にスープを口に運んでいたエリオンが、不自然に咳払いをした。彼はチラリとリアナの小鉢に視線を向け、それからわずかに鼻先を動かす。
「……リアナ。その、なんだ……『ナットウ』とやらは、やはり朝食には外せないのか?」
「あら、お父様。納豆は『畑の肉』と呼ばれる大豆を魔法の力……いえ、発酵の力で高めた究極の健康食品なんですよ。血が綺麗になりますし、お肌もツヤツヤになるんですわ」
リアナは事もなげに答え、箸(これも彼女の特注だ)で手際よく納豆をかき混ぜ始めた。混ぜれば混ぜるほど、あの独特の、発酵食品特有の「芳しき」匂いが食卓に広がっていく。
「いや……効能は理解した。お前が言うのだから間違いはないのだろうが……。しかしだな……」
エリオンは、手に持っていたパンを口に運ぶのを一瞬躊躇した。
彼は領主として数々の修羅場を潜り抜けてきた男だが、この「糸を引く豆」が放つ強烈な自己主張だけは、どうしても克服できずにいた。
8.母の微笑みと娘の確信
「ふふ、あなた、そんなに顔を背けなくてもよろしいじゃありませんか」
母のエルザが、楽しそうにクスクスと笑った。彼女はリアナの突飛な行動に慣れており、新しいものに対する許容範囲が夫より少しだけ広かった。
「お母様も召し上がります? ゆずレモンの果汁を数滴垂らすと、匂いが和らいでとても食べやすくなるんですのよ」
「まあ、面白そうね。後で少しいただこうかしら」
「エルザまで……」
エリオンは観念したようにため息をついた。
我が娘ながら、この溢れんばかりの食への探究心と、それを強行する突破力には脱帽するしかない。
「いいですか、お父様。美味しいものは、時に理解を必要とするんです。この納豆も、いずれ領地の特産品として、世界中の人々の健康を支えることになるんですから」
リアナは誇らしげに胸を張り、糸を引く納豆をポロの実のご飯の上に乗せ、豪快に口に運んだ。
ムーンシルバーの程よい塩気と、納豆の深いコク、そしてわずかに香るゆずレモンの酸味。
「んん~! 最高ですわ!」
幸せそうに頬張る娘の姿を見て、エリオンは「……まあ、本人が幸せならいいか」と、諦めにも似た境地に達し、再び自分の食事へと視線を戻すのだった。
ただし、さりげなく自分の皿を少しだけリアナから遠ざけるのを、彼は忘れなかった。




