五ヶ月の亡命計画と、妖精の森の契約
1.ゼノの驚愕と横領
遡ること一日前、木工鍛冶工房から戻ったリアナは、息つく暇もなく商会のゼノを呼びつけた。
執務室に現れたゼノは、リアナが持ち帰った「黄金の果実」と、その背後にある壮大な計画を聞かされ、文字通り顎が外れぬばかりに驚いた。
「……リアナ様、正気ですか。他領の村を、村人と果実の木を五ヶ月かけて『抜き取る』とおっしゃるのですか?」
「ええ。ミルフォード領のコロン村よ。あそこの税率は八割という、正気の沙汰とは思えない悪政だわ。我がオルフェウス領の二割という税率に比べれば、あそこは地獄よ。放置すれば冬には餓死者が出るわ」
リアナは淡々と、しかし緻密な契約書をゼノに提示した。
「いい、ゼノ。ゆずレモン一個につき、あなたは銅貨二十枚を買取価格として村長に支払いなさい。……でもね、実際にはその果実には銅貨百枚の価値があるわ」
「……残りの八十枚はどうされるのです?」
「プール(貯蓄)しておくのよ。村人には内緒でね。どうせまともに百枚払えば、そのうち八十枚はミルフォード子爵に奪われるだけだわ。それなら、支払う額をわざと低く見せて、残りは移住のための『基金』として私が預かる。これは搾取ではなく、彼らの未来を守るための資金洗浄よ」
「……っ! それはさすがにまずいのでは! 下手をすれば横領と……」
「気にしなくていいわ。八割もむしり取る領主に、誠実に対応する義理はないわよ」
リアナは冷徹に言い放った。プールしたお金からは毎日食料を買い、それを「リアナからの差し入れ」として村へ届ける。さらに、ゆずレモンの木を一日一本ずつ、カモフラージュしながら我が領地へと植え替えていく。
「五ヶ月。冬が来る前に、村人全員と百四十七本の木を移動させるわ。移住した際に、家の代金や必要な税を引いた『純粋な貯金』を彼らに渡す。それが私のやり方よ」
ゼノはその冷徹なまでの合理性と、底知れぬ慈悲が同居した計画に、ただただ平伏するしかなかったが、一つ疑問点があった。
「リアナ様……ゆずレモンの木の植え替えについてですが、具体的にどう進めるおつもりでしょうか?」
ゼノがもっともな懸念を口にした。
「あら、植木職人を手配すれば済む話じゃないかしら?」
「お嬢様……。この領地には腕の良い『庭師』ならおりますが、『植木職人』という専門の者は聞いたことがございません」
「あら、庭師と植木職人は一緒ではないの?」
リアナが不思議そうに小首を傾げる。前世の知識では、どちらも植物を扱うプロだと思っていた。
「違います。庭師は庭の美観を整え、若木から育てるのが基本です。しかし、あのような立派な大木を、根を傷めずに掘り起こし、数日かけて運び、別の土地に定着させる……。それはもはや、土木作業に近い特殊な技術なのです」
「あら、どうしましょう。うちのホセでは無理なの?」
「ホセ殿も庭の管理については一流ですが、百四十七本もの大木を短期間で移動させた経験などありません。もし失敗して木が枯れてしまえば、お嬢様の計画は水の泡です」
「それは困るわね。……どこか他所から、腕利きの職人を連れてくることはできないかしら?」
ゼノは困り顔で首を振った。
「こちらでも調べておきますが、あまり表立って『大木の移送方法』を嗅ぎ回ると、ミルフォード子爵側に足が付きかねません。他領から突然職人を集めれば、『何のために?』と怪しまれるのは必至です」
「それは、本当に困るわね……」
リアナは腕を組み、唸った。
「調べられるだけ調べてちょうだい」
「わかりました」
2.妖精の森の平原
次にリアナが着手したのは、移住先となる土地の選定だった。エリー、ラウル、ロバート、ゼノを伴い、領内の地図を広げる。
「お嬢様、街から馬車で一時間ほど行った場所にある平原はどうでしょう」
ラウルが指し示したのは、広大な平原の端、鬱蒼とした深い森に隣接する場所だった。
「近くには川もあり、水には困りません。ただ、あの森は古くから『妖精の森』と呼ばれておりまして……」
「妖精の森?」
「はい。昔、妖精が住んでいたという伝説がある場所です。奇妙なことに、あの森には魔物が一切寄り付かないのです。そのため、村を作るにはこれ以上ない安全な場所なのですが、領民たちは畏れ多くて近づこうとはしません」
「魔物が寄り付かない……面白いわね。今から見に行くわよ」
3. 森の意思、少女の対話
馬車を走らせること一時間、一行は「妖精の森」の入り口に立っていた。
そこは、周囲の風景とは明らかに密度が違う、清浄な空気が支配する場所だった。
リアナが森の境界に足を踏み入れたその時――。
風もないのに、森の巨大な木々がザザーッと大きく波打つように揺れた。
ざわめきのような音が森全体に広がり、そして数秒後、ピタッと静寂が戻った。
リアナは立ち止まり、静かに森の奥を見つめた。
「リアナ様、どうされたのですか?」
不安げなエリーの問いに答えず、リアナは森に向かって深く頭を下げた。
「妖精の森よ、突然の訪問を許してちょうだい。この近くに、行き場を失った人々を住ませたいの。そして、あの黄金の木を植えたい。……迷惑かしら?」
「お、お嬢様? 妖精がいるなんて迷信ですよ……」
エリーが困惑して口を出すが、リアナは首を振った。
「エリー、妖精が居ようと居まいと、森は生きているのよ。勝手に近くに人が住み出し、環境が変われば、森に悪影響が及ぶかもしれないでしょう? 筋を通すのは当然だわ」
その瞬間、再び森が震えた。
今度は先ほどのような警戒の色はなく、どこか澄んだ、鈴の音を重ねたような心地よい音色が森の中から響き渡った。
「……ほら、木々たちが『いいよ』と言ってくれているわ」
エリー、ラウル、ロバートの三人は、呆気に取られて顔を見合わせた。彼らの目には風のいたずらにしか見えなかったが、リアナの確信に満ちた微笑みを見ていると、本当に森と対話しているかのように思えてくるから不思議だ。
「ありがとう。……ゼノ、あそこに家を建てるわよ。ただし、五ヶ月という短期間で百人以上の住居を個別に建てる時間はないわ。……『長屋』にするわよ」
「ナガヤ……? とは何でしょうか?」
「あら、この世界にはないのね。一つの大きな棟をいくつかに仕切って、効率よく多くの世帯が住める集合住宅のことよ。帰ったら設計図を書くわ」
リアナは再び森を振り返り、厳しい表情で付け加えた。
「ゼノ、厳命よ。建築にあたって、妖精の森の木を一寸たりとも傷つけることは許さないわ。建築資材はすべて他所から運ばせること。この森の静寂を乱すような真似をすれば、この私が承知しないわ」
「……は! すぐに手配いたします!」
リアナは妖精の森に再度深く礼を述べ、平原を後にした。
五ヶ月後。ここには黄金の果実が実り、虐げられた人々が妖精の加護のもとで美味しい食事を囲んで笑い合う。
その未来図が、リアナの脳内には鮮明に描かれていた。
4. 料理人の矜持と黄金の果実
妖精の森から伯爵邸に戻ったリアナは夕食の準備をしている厨房へと足を踏み入れた。
「アロイス、今日はゆずレモンを使ったものを作るわよ」
リアナの声が厨房に響くと、忙しく立ち働いていた料理人たちが一瞬、動きを止めた。中央の大きな調理台で、今夜のメインディッシュとなる川魚の下処理をしていたアロイスが、驚いたように顔を上げる。
「お帰りなさいませ、リアナ様。ゆずレモンを
魚に使うんですか?」
「ええ、そうよ、これはただの実じゃないわ。私と、この領地の未来を照らす黄金の雫よ。アロイス、準備はいいかしら?」
「……お嬢様、何を作るおつもりで?」
「今日はソースよ。この領地で獲れる新鮮な川魚に、最高に合う『シトラス・バターソース』を作るわ。それから、皮を隠し味に使ったリゾットもね」
5. 魔法の「乳化」
リアナは自らエプロンを締め、アロイスに指示を出す。
「まず、魚はムニエルにするわ。小麦粉を薄くはたいて、ハンスとバロンに作ってもらった特製の油で皮目をパリッと焼き上げて」
「承知いたしました」
「ソースは私が作るわ。アロイス、小鍋に白ワインと刻んだエシャロットを入れて。水分がほとんどなくなるまで煮詰めてちょうだい」
厨房には、ワインの芳醇な香りが立ち込める。リアナはその間に、ゆずレモンの黄金の皮を薄く削り取った。
「いい、アロイス。ここが重要よ。火を弱めて、冷たいバターを少しずつ、少しずつ加えていくの。決して沸騰させてはダメ。鍋を絶えず揺らして、バターとワインを『結婚』させるのよ」
アロイスが固唾を呑んで見守る中、透明な液体がバターを吸い込み、とろりとした乳白色のソースへと変化していく。フレンチの技法「ブール・ブラン」である。
「仕上げに、この搾りたての果汁をたっぷり加えるわ……。そして、削った皮を散らす。これで完成よ」
その瞬間、厨房全体が、目の覚めるような爽やかな、そして濃厚な香りに包まれた。
6.「黄金のリゾット」のレシピ
「まず、たっぷりの玉ねぎとセロリを細かく刻んで。これを弱火のバターで、色をつけないようにじっくり炒めるの。野菜の水分(汗)を出すのよ。これが一番の甘みになるわ」
「乾燥させた山のキノコがあるでしょう? あれをぬるま湯で戻して。その『戻し汁』が今日の主役よ。肉に負けない深い旨味(グアニル酸)が出るわ。戻したキノコも細かく刻んで具にしましょう」
「地下室に、使い古した硬いチーズの端っこが転がっているわね? あの硬い皮を、沸き立ったお湯の中に入れてちょうだい。チーズの熟成した旨味が溶け出して、立派なスープになるわ」
お米がキノコの戻し汁とチーズの旨味を吸い込み、アルデンテに仕上がってきた。ここでリアナが「ゆずレモン」を投入する。
一段:皮のすりおろし(香りの爆弾。炊き上がりの直前に入れる)
二段:搾りたての果汁(酸味で全体の味を締め、チーズのしつこさを切る)
三段:冷たいバターと果汁の乳化(火を止めてから一気に混ぜ、コクを出す)
「さあ、アロイス。味見をしてみて」
恐る恐るスプーンを口にしたアロイスの目が、見開かれた。
「な……!? この深いコクは何ですか! 玉ねぎの甘みとキノコの旨味が、ゆずレモンの鮮烈な酸味で一つにまとまっている……」
7. 父の帰還と驚愕の食卓
ちょうどその頃、領務を終えたリアナの父、オルフェウス伯爵が食堂に姿を現した。
「……おや、今日は珍しい香りがするな。エリー、リアナはどこだ?」
「お嬢様なら、今、厨房でアロイスを振り回して……いえ、ご指導をなさっております」
エリーが苦笑いしながら答えるのと同時に、リアナが自ら皿を運んできた。
「お父様! ちょうどいいところに来たわ。今日は私の『特製ディナー』よ」
テーブルに並べられたのは、黄金色のソースがたっぷりとかかった、川魚のムニエル。そして、柑橘の香りがふわりと漂う真っ白なリゾットだ。
伯爵は半信半疑で、一口、その魚を口に運んだ。
「…………っ!!」
「どうかしら?」
「……何だ、これは。魚の泥臭さが一切消え、脂の旨味がこのソースによって何倍にも引き立てられている。……酸っぱいだけではない、この高貴な香りは……。リアナ、この全ての料理には『呪いの実』が入っているのかい?」
「ええ、そうよ。名前も決めたわ。『オルフェウス・シトラス』。これからこの領地の、一番の宝物になる果実よ」
「このリゾットもコクと旨味の中にシトラスの酸味が相まって食べる人の心を癒すな」
8.領主としての誇り
伯爵は、娘の晴れやかな顔を見ながら、しみじみとリゾットを味わった。
「今がチャンスね!」
リアナは、コロン村の事を切り出そうとした時だった。伯爵が語り出す。
「お前がミルフォード領から村人を招こうとしている理由、ようやく分かった気がするよ。これほどの商品価値があるものを、彼らは『呪い』として捨てていたのだな」
「あら、なぜそれを知っているの?」
「ハハハ、ラウルたちからは、逐一報告する様に言っているからな」
ラウルたちは、リアナに仕えているが、雇い主はあくまでも伯爵だ。
「知識がないということは、豊かさを手放すことと同じだわ。私は、あのコロン村の人たちに、自分たちの守ってきた木がどれほど素晴らしいものだったかを教えたいの。彼らがオルフェウス領に来て、最初に口にするのは、この料理に決めているわ」
「……お前は、私よりもずっと立派な領主になるかもしれないな」
伯爵の言葉に、リアナはいたずらっぽく笑った。
「あら、お父様。私はただ、美味しいものを、誰にも邪魔されずに食べたいだけよ。……そのためには、この領地を世界で一番豊かにするのが、一番の近道だもの」
食卓には、ゆずレモンの香りと共に、穏やかで希望に満ちた時間が流れていた。
リアナが厨房に戻るとアロイスが「今のソースの比率をもう一度教えてください!」とリアナを追いかけ、エリーが「またお嬢様が料理人の常識を破壊してしまった……」と溜め息をつく、いつもの光景が続いていた。




