未知の香気と、虐げられた店主の救出
1.光り輝く上流階級の虚飾
王妃と第一王子ハロルドとの、実に意味のないお茶会を後にしたリアナは、王宮の重苦しい空気から解放され、大きく一つため息をついた。
背後では侍女のエリーが、主人の大胆すぎる不敬とも取れる発言を思い出し、今にも倒れそうな顔で胸を押さえている。しかし、リアナにとって王子の傲慢さを叩いたことは、単なる「掃除」の一環に過ぎなかった。
「さて、エリー。せっかく王都に来たのだから、領地に引きこもっていては見られないものを見て回りましょう」
「お、お嬢様……。あのようなことがあった後で、よくそんなにけろっとしていられますね……。普通なら心労で寝込みますよ」
「寝込んでいたら美味しいものは手に入らないわ。ラウル、ロバート。準備はいいかしら?」
護衛の二人は、苦笑いしながら頷いた。
「お嬢様の仰せのままに。王都の案内なら、我々にお任せください」
こうして、リアナはエリー、ラウル、ロバートを連れ、王都の町へと繰り出すことにした。
王城を出て最初に足を踏み入れたのは、上流階級の人々が集う第一区だった。
道は美しく磨かれた石畳で覆われ、並ぶ店はどれも豪華な看板を掲げている。行き交う人々は絹や良質な毛織物を身にまとい、優雅に歩を進めていた。
リアナは期待を込めて店を見て回ったが、数軒回ったところで肩を落とした。
「……代わり映えしないわね」
立ち並ぶのは、高級な輸入スパイスや、南方の珍しい布地、繊細な意匠の銀細工ばかり。確かに一品一品は高価で質も良いが、そこに「驚き」はない。
「このスパイスも、結局は南方の独占品でしょ? 布だって似たような柄ばかり。どれもこれも、既存の権威をなぞっているだけじゃない」
「お嬢様、ここは王都でも最高級の店が集まるエリアですから。並んでいるのは、貴族様方が『これを持っていることがステータス』と考えるものばかりなのです」
案内するラウルが補足する。
「つまり、みんなが持っているから自分も欲しがる、っていう横並びの市場なのね。つまらないわ。次に行きましょう」
2.中流階級の停滞
一行は次に、役人や裕福な商人が住まう中流階級のエリアへと移動した。
先ほどの静寂な高級感とは違い、少し活気が出てくる。しかし、リアナの目は相変わらず冷ややかだった。
「少し質が落ちる程度で、これといって面白いものはないわね。上流の真似事をして、少し安い素材で似たようなものを作って売っているだけ。新しい価値を生み出そうという気概が感じられないわ」
市場に並ぶ野菜も、鮮度は悪くないが、種類はどこかで見たことのあるものばかりだ。
「ねえ、ラウル。王都って、もっとこう……世界中から未知の食材が集まってくる場所だと思っていたのだけど」
「期待させて申し訳ありません、お嬢様。ですが、商売人はリスクを嫌います。確実に売れると分かっているもの以外、なかなか仕入れないのが現状です」
リアナはふんと鼻を鳴らした。
「リスクを採らない商売なんて、腐った水溜まりと同じよ。淀んでいくだけだわ」
3.踏み込む「闇」の領域
「次は、平民の住む下層階級のエリアへ行くわよ」
リアナが指し示した先は、先ほどまでの明るい大通りとは対照的に、道が細く、建物の影が深く落ちている一帯だった。
ラウルの表情が瞬時に硬くなる。
「……お嬢様。そればかりはお止めください。これより先は治安が悪くなります。お嬢様のようなお方が足を踏み入れる場所ではありません」
ロバートもまた、周囲を警戒するように一歩前に出た。
しかし、リアナは不敵な笑みを浮かべた。
「あら、ラウル。私を守る自信がないのかしら?」
「い、いえ! そのようなことは決してありません。我々二人がいれば、たとえ暴徒の群れが襲ってこようとも……!」
「なら問題ないんじゃないかしら。行きましょう」
ラウルの制止を無視して、リアナは迷いのない足取りで路地裏へと入っていった。
そこは、王都の「影」そのものだった。
石畳は割れ、溝からは不衛生な臭いが漂っている。建物の壁には煤がこびりつき、窓は小さく、暗い。
何より、道行く人々の目が違った。
「闇が広がっているわね」
リアナは呟いた。
高級エリアにいた人々のような余裕はなく、皆、その日一日を生き抜くために必死な、殺伐とした空気を纏っている。
華やかなドレスこそ着ていないが、身なりの整ったリアナの一行は、このエリアではあまりにも異質だった。
「貴族は、誰もここには近づかないみたいね」
「はい。まず来ません。彼らにとってここは、地図に載っていないも同然の場所ですから」
ラウルの言葉に、リアナは深い溜め息をついた。
「はぁ……。上ばっかり見てても仕方がないのにね。国の富は、こういう場所でどん底を支えている人たちの働きから生まれるはずなのに。彼らが何を食べているかも知らずに、政治ができるなんて思えないわ」
リアナはジロジロと向けられる不審な、あるいは物欲しげな視線を一切気にせず歩き続けた。しばらく行くと、少し開けた場所に露店がいくつか立ち並ぶ通りに出た。
4.露店主ウルズと怒号の渦
「私の求める物はあるかしら……。誰も見向きもしないけれど、実は凄い価値があるもの……いわゆる『掘り出し物』。そういうものが隠れているのは、いつだってこういう場所なのよ」
リアナが目を凝らして露店を見回していると、通りの奥から、鼓膜を劈くような怒鳴り声が聞こえてきた。
「ふざけるな! こんな腐ってる物を俺たちに売ろうとしてるのか!」
見れば、体格のいい強面な男が、痩せこけた初老の店主の胸ぐらを掴み上げ、今にも殴り飛ばさんとしていた。周囲の人々は関わり合いになるのを恐れ、遠巻きに見ているだけだ。
「なにをやってますの!」
リアナの甲高い声が、騒乱の場に割り込んだ。
男が不機嫌そうに振り返る。
「あぁ? なんだガキ……。チッ、どこのお嬢様か知らねえが、子供はだまってろ! 怪我しねえうちにな!」
リアナは怯むどころか、冷ややかな瞳で男を見据え、背後の二人に合図を送った。
「ラウル! ロバート! やっておしまい」
「「は!」」
二人が動き出すのに、一秒もかからなかった。
「ぐあぁっ!?」
男はあっさりと腕を捻り上げられ、地面に這いつくばらされた。ラウルとロバートが、岩のように動かぬ力で男を取り押さえる。
「離せ! 離せコノヤロー! 何すんだ!」
喚き散らす男に、リアナがゆっくりと歩み寄り、耳元で冷たく囁いた。
「不敬罪で死にたくなかったら、黙ってなさい。今のあなたは、伯爵家の令嬢に仇をなそうとした大罪人よ。わかった?」
その一言で、男は氷水を浴びせられたように静まり返った。リアナが本気であること、そして自分を簡単に消せる立場であることを悟ったのだろう。
「お、俺は……俺は悪くねーんだ。そいつが……その露店主が、俺に腐った果物を食わせようとしたのが悪いんだよ……!」
リアナは男から視線を外し、ガタガタと震えながら座り込んでいる露店主の方を見た。
「わ、私は……私は決して、腐った果物などは売っていません……。ただ、少し癖があるだけで……」
店主は、古びた木箱を抱えるようにして身を縮めていた。
5.未知の柑橘とエリーの受難
クンクン。
リアナがその木箱に鼻を近づけると、鋭い嗅覚が敏感に反応した。
「……!?」
どこか懐かしく、しかし王都では嗅いだことのない、清涼感の塊のような香り。
「店主。あなたのお名前は?」
「う、ウルズと言います……」
「ウルズさん。あなたの売っているその果物、私、食べてみたくなったわ」
「い、いけませんお嬢様!」
即座にエリーが割って入った。
「あら、どうしてかしら?」
「どうしてって……! こんな、スラムの露店で売られている、強面の男が『腐っている』と激高するような代物ですよ!? もしお嬢様のお体に障るようなことがあれば、私たちは旦那様に顔向けできません。処罰されるのは我々なのです!」
エリーの訴えは至極真っ当だった。だが、リアナは一度言い出したら聞かない。
「そうね。エリーの言うことも一理あるわ。……なら、エリーが毒見役として食べてみて」
「……はい?」
エリーの動きが止まった。
「だって、ラウルもロバートも手が離せないもの。食べられるのはエリーだけよ。毒見をして、私に感想を聞かせて。さあ」
「え、ええーっ!? 私がですか!? 私が死んでもいいんですか!?」
「エリー、信頼しているわよ。あなたの味覚は、我が領地でも一級品だもの」
リアナの真剣な――それでいて面白がっているような――眼差しに、エリーは逃げ場を失った。この主人は、本気なのだ。
「わ、わかりました! 食べればいいんでしょう、食べれば! ウルズさん、この男に出したのと、同じ果物を私に出してください!」
ウルズは恐る恐る、黄色い、表面がゴツゴツとした小さな実を取り出した。それをナイフで切り、一切れをエリーに差し出す。
エリーは覚悟を決め、それを口に放り込んだ。
数秒後。
「…………っ!! す、すっぱ……!!」
エリーの顔が劇的に変化した。両目は強く閉じられ、口は梅干しを食べたようにすぼまり、顔中のパーツが中心に集まっていく。まさに「崩壊」と呼ぶにふさわしい表情だった。
「ひ、ひぃぃ……! 舌が、舌が痺れます! 腐ってるっていうか、これはもう毒ですわ! お嬢様、絶対に食べてはいけません!」
それを見たリアナは、笑いを堪えるどころか、ますます確信を深めた。
「ウルズさん、私にも一切れ貰えるかしら?」
「い、いけませんお嬢様……。私の顔を見ましたか!? あんな恐ろしい顔になる食べ物ですよ!」
「ふふ、エリー。面白い顔になってますわよ。後で鏡を見せてあげたいわ」
リアナはウルズから差し出された一切れを受け取った。
まず、鼻先に持っていき、深く息を吸う。
「……間違いないわ。これ、香酸柑橘ね」
リアナはそれを、ゆっくりと口に運んだ。
舌を刺すような鋭い酸味。しかし、その奥にあるのは、脳を突き抜けるような鮮烈な香りだ。
「形はレモンのようだけど、この鼻から抜ける独特の香りは……ゆずね。あるいは、その近縁種か。こんな素晴らしいものが、どうして『腐っている』なんて言われなきゃいけないのかしら?」
リアナの瞳が、発見の喜びにきらきらと輝き始めた。
6.宝石を拾う者
「ウルズさん、これ、どこで手に入れたの?」
「……私の村の荒れ地に勝手に生えている木の実です。色が綺麗なので、少しは金になるかと思ったのですが……酸っぱすぎて誰も買いません。腐って酸っぱくなったんだと言われて、いつも叩き出されるんです……」
「馬鹿ね、みんな。これがどれほど価値があるか分かってないんだわ」
リアナは、木箱の中にある実をすべて指さした。
「ウルズさん。これ、全部買うわ。あと、その実がなっている村も教えて。……いえ、あなたを雇うわ。私の領地で、この『黄金の果実』を管理してちょうだい」
「え……?」
ウルズは呆然とした。
「いい、エリー。この酸味は、料理を劇的に進化させるわ。さっきの唐揚げにこの果汁を数滴垂らしてみて? 油の重さが消えて、いくらでも食べられるようになる。白身魚の蒸し物に使えば、臭みが消えて高貴な香りが付く。そして……」
リアナは、ゴツゴツとした黄色い実を愛おしそうに撫でた。
「この皮を砂糖で煮詰めれば、世界で一番贅沢なマーマレードができる。お茶会で殿下が食べていたパサパサの菓子なんて、これを使った焼き菓子の一口で粉砕できるわ」
「お、お嬢様。またそうやって……領地をひっくり返すようなことを……」
エリーが酸っぱさの余韻で震えながら呟く。
「ラウル、ロバート。その男はもういいわ。解放してあげなさい。……その代わり、このウルズさんと、彼の家族をオルフェウス領へ移動させてちょうだい」
「は、承知いたしました!」
リアナは王都の最下層、闇の広がるスラムの真ん中で、誰にも気づかれなかった宝石を見つけ出した。
「さあ、戻るわよ。王都見学はこれで十分だわ。……王子の傲慢さより、この一つの実の方が、私にとってはよっぽど価値があるんですもの」
リアナは上機嫌で、暗い路地を抜け、光の射す大通りへと戻っていった。
その手には、未来の食卓を変える「酸っぱすぎる」希望が、しっかりと握られていた。
屋敷へ戻る馬車の中で、リアナはすでに新しいレシピの構想に耽っていた。
「砂糖、油、片栗粉……そして今回の柑橘。必要なパーツがどんどん揃っていくわ」
「……お嬢様。一つお伺いしてもよろしいですか?」
エリーが、まだ少し酸っぱそうに口を窄めながら尋ねた。
「何かしら?」
「お嬢様は、王都に来てから一度も『観光』らしいことをしていません。結局、食べ物と、それを生み出す人のことばかり。……それで、楽しいのですか?」
リアナは窓の外、遠ざかっていく王都の景色を見ながら微笑んだ。
「エリー。美味しいものは、人の心を豊かにするわ。傲慢な王子だって、本当に美味しいものを食べれば、少しはましな人間になるかもしれない。飢えている子供にこの柑橘のシロップを飲ませれば、病気にならずに済むかもしれない」
リアナは自分の中の、前世の記憶と今世の使命を重ね合わせる。
「私がやりたいのは、ただの贅沢じゃないの。この世界の『食』という名の土壌を耕して、誰もが『美味しい』と笑える国を作ること。……それが、私にとっての最高の観光であり、最高の遊びなのよ」
馬車は夕闇の中、オルフェウス領へと向かって走り去っていく。
王都に残されたのは、一人の風変わりな令嬢が撒き散らした、革命の種火だけだった。
後日、王都の市場から「黄色い酸っぱい実」が姿を消し、代わりにオルフェウス領から「白銀の砂糖」と「黄金の香汁」を組み合わせた、未知の絶品スイーツが王都を席巻することになるのだが……それはまた、別のお話。
「……さあ、領地に帰ったらまずは、ハンスに『柑橘絞り機』を作らせなきゃ!」
「またですかーっ!!」
エリーの悲鳴が、王都の街道にこだました。




