黄金への遠き道
1. 欠けている「満足感」
オルフェウス領の食卓は、確かに豊かになった。
味噌汁の深いコク、醤油の香ばしい風味、そしてお酢による彩り豊かな保存食。しかし、板前としての魂を持つリアナ(工藤玲子)は、領民たちの食事風景を見て、ある物足りなさを感じていた。
「……ボリュームね」
そう、今の領地の食事は「健康的で美味しい」が、働き盛りの男たちや育ち盛りの子供たちを心から満足させる「ガツンとくるパンチ」に欠けていた。
和食におけるそのパンチとは何か。答えは一つ。「揚げ物」だ。
サクサクの衣を纏った山菜の天ぷら、じゅわっと肉汁が溢れる唐揚げ。それらを作るには、クセのない良質な植物油が大量に必要となる。だが、この世界にあるのは動物の脂か、高価なナッツの油のみ。
「さて、無いなら、絞り出せばいいわ」
リアナは、山積みの書類の中から新しい紙を取り出し、次なる開発計画を書き始めた。
2. ユーグへの難題:豆の脂を追え
「お嬢様、またですか……。私の心臓は一つしかないのですが」
呼び出された醸造学者ユーグは、リアナの顔を見るなり深くため息をついた。
「ユーグ、失礼ね。今回は命に関わることじゃないわ。……豊かな食卓に関わることよ。私たちが味噌に使っている『土豆(大豆)』、あれから油を抽出してほしいの」
「豆から、油を?」
ユーグは首を傾げた。
「確かに豆を潰せば多少の油分は浮きますが、調理に使えるほどの量を取るとなると……。豆の組織を破壊し、効率よく油を分離させる手法を見つけねばなりません。それに、豆の種類によって油の含有量も違うはずです」
「だから、あなたに研究してほしいの。領内で採れる豆の中から、最も油を多く含み、かつ香りが良い個体を選別して。……これからは『味噌用の豆』だけでなく『油用の豆』の栽培も必要になるわ」
ユーグは眼鏡を光らせた。
「……なるほど。植物学者としての血が騒ぎますな。単に絞るだけでなく、品種改良の域まで踏み込めというわけですね。承知いたしました。しばらく実験室に籠もらせていただきます」
「よろしく頼むわね」
一礼するとユーグは実験室へと戻って行った。
3. 木と鉄の共演:ハンスとバロン
油を絞るには、ユーグの知識だけでは足りない。凄まじい圧力で豆を押し潰す「圧搾機」が必要だ。
リアナは図面を手に、城下町の木工所へと向かった。
「ハンス、この前のお酢の桶、最高だったわ。……でも、今回は木だけじゃ無理かもしれないわ」
木工職人ハンスは図面を覗き込み、唸った。
「こいつは……。お嬢様、これほどの圧力をかけるとなると、木枠だけじゃ一瞬ではじけ飛んじまいますぜ。……こいつは『鉄』の補強がいります」
「そう言うと思って、彼を呼んであるわ」
工場の入り口から、煤で汚れた革のエプロンをつけた大男が入ってきた。領地一番の鍛冶師、バロンだ。
「リアナ様、俺を呼んだか。……ほう、この図面か。面白いじゃねえか。このネジの部分と、底の受け皿を鉄で打てばいいんだな?」
「ええ、そうよ、かなりの圧力に耐えられる物を頼むわ」
「はぁ⋯⋯バロン、お前も呼ばれたのか⋯⋯しょうがねえやるか!あんたの鍛えた鉄でこの木枠を締め上げてくれ。俺が土台をガッチリ組む。……お嬢様、こいつは一筋縄じゃいきませんぜ。木と鉄の収縮率を計算して、歪みが出ないように組まなきゃならねえ」
「ええ、お願い。……時間はかかってもいいわ。その代わり、豆の最後の一滴まで絞り出せる、最強の機械を作ってちょうだい」
職人二人は、火花を散らすような視線を交わし、ニヤリと笑った。プロの仕事が始まろうとしていた。
4. 届かない魔法:ゼノへの伝言
「ゼノ、これをミリアに届けて」
リアナがゼノに手渡したのは、油の「濾過装置」の設計図だ。
「油は絞っただけじゃ不純物が多いの。ミリアの魔導で、色と匂いを取り除くフィルターを作ってほしいのよ。……でも彼女、今は自分の工房へ戻ってるわよね?」
「はい。ミリア様は現在、新しい通信魔導具の開発にかかりきりでして……。この図面を届けても、着手できるのは数ヶ月先になるかと思われます」
ゼノの言葉に、リアナは少し肩を落とした。
前世ではボタン一つで買えた油も、この世界では一歩ずつ積み上げなければならない。
「……そうよね。ユーグの研究も、ハンスたちの機械も、ミリアの装置も、すぐには揃わない。……わかったわ、待ちましょう。……美味しいもののためなら、忍耐もスパイスのうちよ」
5. 「待ち時間」の有効活用
執務室に戻ったリアナは、一人で椅子に深く腰掛けた。
(油ができるまで、早くても半年……下手をすれば一年。それまで揚げ物はお預けね。……でも、手持ち無沙汰にしている時間はもったいないわ)
リアナは立ち上がり、キッチンの棚を眺めた。
そこには、完成したばかりの味噌、醤油、お酢、そして塩がある。
「油がないなら、今あるもので『次の完成度』を目指せばいいじゃない。……そういえば、今の醤油、まだ少し角があるのよね。……よし、次はこれを使って『出汁』の文化を叩き込んであげようかしら」
リアナの瞳に、再び板前の情熱が灯った。
黄金の油が完成するその日まで、彼女は歩みを止めるつもりはなかった。
「エリー! 領内の清流で獲れる『川魚の煮干し』を集めてちょうだい! あと、山で採れる『乾燥キノコ』の選別を始めるわよ!」
リアナのわがまま……いや、飽くなき食への探求心は、油の開発を待ちながらも、新たな方向へと走り出した。
オルフェウス領の食文化は、こうして「待ち時間」さえも糧にして、より深く、より繊細に進化していくのである。




