第Ⅺ話 前編【エルとミーナ】其の一
扉につけられた丸い金具を二回叩くと、中から声が聞こえた。
「どちら様ですけ……」
二週間前に会った老婆と目が合うと、俺の顔を覚えていたのか、「……少しお待ち下せえ」それだけを言い残し静かに扉を閉め、家の中へと消えていった。
始めて人に、本名を明かしたのはあの人が初めてだった。父さんから教えてはいけないとそう言われていたのに。それでも、あの時にはそれが必要だとそう思っていた。
教会の方から歓声にも似た声が上がり、その声は膨らみ続けている。その歓声は裏路地にいる俺の耳にも届いた。
祝願祭は明日で終わる。昨日到着したはずの最高司祭が、今日は街の至る所で祈りを捧げる日だ。毎年この日だけは、外出を禁じられ館の自室から歓声を聞いていた。
いつもなら父さんと母さんは領主夫妻として、教会へ赴き同じように祈りを捧げているはずだった。
どれだけ忙しくても、この日には間に合うように帰ってきていたのに……今年は不思議なことばかりだ。
しばらく待っていると扉が開き、婦人が姿を現した。
少し顔色も良くなったのか、前のように憔悴してはいない。
「エルネスト様、お久しぶりにございます」
婦人は静かに頭を下げた。
「ミーナに——」
「無礼を承知で申し上げます。本日は当商会も慌ただしく、申し訳ございませんがお引き取りくださいませ」
全てを言い切る前に、婦人は言葉を被せ、また頭を下げた。
——俺との会話を終えようとしている……?
どうして……。まだ何も言っていない、何か不都合な事でもしたのか。
思考を巡らせ、急いで思い当たる事を頭に思い浮かべた。
俺が尋ねてくるなんてミーナに会いに来た以外にはない。ミーナに合わせられない何か。
ミーナに何かあった……いや、それならこんなにも顔色がいいはずがない。前はもっと憔悴していた——。
大樹の涙……は原因不明の病のはずだ。ペイトの話をまとめても移る事はないはずだ。
他に何か……移住……Ⅷの国に移住……離れる。
そうか——。
「——移住するから……ですか?」
「なぜそれを……」
婦人は驚いた表情を浮かべ、そこで言葉を止めた。その目にはどこか寂しさにも似た何かが浮かんで見えた。
——やっぱりだ。
婦人は、俺の事をミーナから聞いているのかもしれない。だから、離れ離れになるのを気にしている……そんな気がした。
「事情は聞いています。偶然ですが、店の裏で従業員の方が話しているのを聞きました」
「ならば会われない方が……」
「——僕は移住するのを止めに来た訳ではありません。送り出すために……いえ、笑顔を取り戻して行って欲しいから来たんです。だから、ミーナに会わせてください」
静かに頭を下げた。ここで引くわけにはいかない。みんなにも約束したんだ、必ず港に連れて行くって。
それに、俺はミーナに伝えなければいけない事がある。握りしめた拳の中には小袋、その中にはトンカ豆が入っている。
これが本当に幸運のお守りなら、少しだけでいい。ミーナに会わせてくれ。
心の中で願うように祈りを捧げた。
「エルネスト様!」
後ろから声をかけられ、振り向くとグスターヴォ商会長——ミーナの父親が立っていた。
「本日はどうされましたかな?——お聞きになっている事には驚きましたが、お恥ずかしながらその“移住”の準備に追われております。どうかお引き取りを」
——いつから聞いていたんだ。
婦人との会話を聞かれていたのか、移住の話を切り出し俺との会話を終えようとしている。
婦人と同じく、以前会った時よりも顔色が良い。それに何度か見かけた商人らしい表情。感情を隠し和かなその顔からは何も感じられない。
だが、ミーナと同じ赤い瞳には、光が灯り。力強く澄んでいた。
「ミーナに会わせてください」
「先ほども申しました通り、そのような時間はないのです。どうかご理解下さい」
「それに、ミーナの病はまだ完治しておりません。もしも、エルネスト様に移るような事があれば、エヴァルト様に顔向け出来ませぬ。どうかお帰りください」
握る拳が痛い。それでも、強く小袋を握りしめた。まだ帰るわけにはいかない。もう……逃げるのは嫌なんだ。
「——の涙」
「何かおっしゃりましたかな?」
ボソリと放った言葉を、二人は拾えなかったのか聞き返してきた。
「——大樹の涙」
その言葉を口にした瞬間、二人の表情が揺らいだ。
「……何故それを」
「友達が調べて教えてくれました。大樹の涙は不治の病だと、ですがそれは移らない。それならミーナには……会えるはずです。だから……だから、会わせてください」
もう一度頭を下げた。
「——では、会ってどうするのですかな」
グスターヴォ商会長がかけた低い声に体が震えた。顔を上げると、表情は変わっていない。だが、さっきまでの和やかな気配は微塵も感じられない。目の奥が陰り、暗く揺らいでいる。
「助けたい……俺はミーナを助けたいんです。だから——」
「医者よりもですか……」
「……それは」
「教会よりも……」
「……」
「商会の全てよりもか……」
「でも……俺は——」
「あなたのような子供に何が出来る!」
「——あなたのような子供に何が……」
俺の言葉を遮り、グスターヴォ商会長は言葉を荒げ、静かに肩を落とした。
「我らがどれだけ渇望しても、手掛かりを掴むのがやっと。笑う事も忘れたあの子に、手をこまねくしかできない親がどれだけ惨めか。あなたには……あなたには分かりますまい」
お読みいただきありがとうございます。
ようやくミーナのもとへ辿り着いたエルですが、再会は思っていた以上に簡単ではありませんでした。
大切だからこそ会わせたくない。
大切だからこそ会いたい。
それぞれの想いが少しずつぶつかりました。
どちらも間違いじゃない、どちらもが正しいと信じたその先には何が待つのか…。
次回更新は6月24日(水)19時30分です。
次回も楽しみにお待ち下さい♪




